アバウトミーで質問作ってもブログに直接張れないのは何でなんだぜ。

http://aboutme.jp/question/show/8475

 改めて会見の映像見たけど、あの髪型は凄いな。なんつーか、私には髪力が足りなくて、できない。別に不足しているわけではないが。しかし、某所で解説されてんだか煽られてんだか分からんエントリーが上がっていたのをうっかり発見してしまい、数分ほどがっかりした。私ってばそういう風に思われてるのか。

■[愚考][新手のスタンド使い]ハゲが何故罵倒語として機能するか理解できません
http://d.hatena.ne.jp/tomozo3/20070612/hage

 私のように常識的な範囲内でふさふさであるとコンプレックスなど持ちようもないのだが、男のヅラと女の整形と老人の入れ歯は個人的に初対面でも「これは」と思ってしまうほど不自然なものだからであって、心の中での指摘、あるいはウォーニングに類するものだろうと考えられる。「本人の能力や人格や努力とは無縁」であればこそ力強くその男の植毛、あるいは女のプチ整形を見破り、その人物その人格その風貌を与えられた摂理に対する人為的な抵抗の証を垣間見るわけだ。

 「スキンヘッドでも美しい人は美しい」という論理構造とは、スキンヘッドになれる思い切りを買うか買わないかという内面的な一部分を切り取って、断定的に是としているに過ぎない。なぜなら、人間がハゲに悩むその構造的な美しさというのは、微妙なハゲ具合、あれ、若い頃にはここに生えていたはずの前髪がない、と気づいたときの逡巡、焦り、悲しみ、憤り、呆然、開き直って心の平安を模索しようとする働き、さらには現実を逃避するための試み、あるいはこれが現実なんだと自分で自分を説得し納得しようとする努力、嗚呼これはもう駄目かも分からんねという諦観、そして見事に拓かれる悟りに至る一瞬一瞬に存在するのである。

 だから、若者や過剰な毛髪力を持つ者が、みだりにハゲに対して「ハゲたら剃ればいいじゃん」と語るのは、未来を信じて希望を胸に闘病生活している末期ガン患者に通りすがりの酔っ払いが「大丈夫、明日が命日だよ」と気さくに声をかけるようなものだ。正直いただけない。当然、亜種として、ハゲを悩む心と、それを克服する勇気を過剰に併せ持ったがゆえの蛮行としてのヅラ装着という最高の見苦しさは存在しており、その対策はオーバーキルなのだから一般的に非難冷遇酷評されて然るべきとは思う。

 問題はその至る過程であって、人間、ハゲている期間よりもハゲつつある期間のほうが台無し感が強いのである。スキンヘッドで思い切ろうにもまだ残量が豊富にあるという自負、いや、でもいい加減前髪の進行具合が客観的なジャッジメントラインを超えつつあるという恐怖の天秤が揺れる人ほど、ない毛髪を頭頂部に回すなどの悲惨な立ち居振る舞いに走らせる。これはもう仕方のないことなのだ。

 奇妙なことに、微妙なハゲ過程にある人間同士が集うと、ハゲ具合自慢が始まってしまうケースがある。お前はまだふさふさだよ、俺なんて、って奴だ。いわゆるめがね男同士が近眼競争をして、相手のめがねを借りてこれはガラス玉だなどとのたまうセッションのことである。あれに近い。何の自慢にもならないのだが、何か共通の属性を探して合致したときに突如勃発する盛り上がりみたいなもんだ。類似として、不幸自慢とか虐待自慢とか恐妻自慢とかどら息子自慢とかいろいろあるが、どれも数ミリも前向きな方向に動かないという点では共通している。

 その根底にあるのは不安だと思う。いまはともかく、一年後、五年後、十年後の自分の姿を鏡の前で妄想するとき、いま頭部にしがみついている毛根細胞の皆さんは末永く元気に暮らしていらっしゃるだろうか、という。「そんなことを気にかけるより、もっと違うことに集中した方が人生は楽しくなる」と言われても、鏡で髪の毛をとかしているときすでに楽しくないのだから、どうしようもないだろうという話である。

 ハゲを身だしなみや、見え方の問題に限定するのではなく、いま自分が直面している「老い」の象徴としてのハゲってのもあるんだよ、ということも認識していただきたい次第。率直に言って、顔のしわや皮膚のたるみ同様、劣化しゆく自分の老いを見つめる、その便利なベンチマークとしてのハゲってのは、一般的にメジャーな尺度だと思うんだけどね。

 でも、いったん髪の毛短くしてみると、白髪が気になりだすから世の中不思議だ。いや、私は別にハゲじゃないんだけれども。ほんとに。