ある左翼の人とじっくり離す機会が先日あって、評論化然とした北のほうの大学で教鞭をとる傍ら政権批判を繰り返し行ってきた分知識の蓄積が相応にあって面白かった。


 私は保守主義者なんだけれども、相互に話して出た結論と言うと、同じ事象を認識していながら、コインの表裏で違う絵柄を見ているに過ぎないということだった。彼からすれば「戦争のできる国に日本をさせていいのか」という問題意識であり、私は戦争をしたいとは言わずとも他国が戦争を日本に対して志したときに今の日本のありようでよいのかという危機感がある。それが有事法制であり憲法改正であり対外政策の基本的なスタンスを規定するものであるのは言うまでもない。


 政府のあり方や国民の立ち居振る舞いというのもあるけれども、価値観の大きな違いは社会に対する信頼感や、日本人が日本人としてどう生きるかという原則論の部分だろうと。例えばSFの世界で、サイバネティック社会の到来で国家が国民を管理すると言う概念はどうなのか、と言う話であるとか(そこ、意味のない仮定で論じてどうすんだとか言わない)、もっと現実的に言えば国民の怠惰や個人個人の逸失で発生する貧困を政治はどう対処すんの、といった事態である。


 ある国民が鬱になりました、一定の期間働いて暮らしていけません、社会が彼をどう保障するのか、という話だ。徹底的に個人やその家族の問題として切り離すのは究極の保守主義だが、一方で家庭や社会が抱擁して彼が曲がりなりにも暮らしていけるだけの保障を与えるのもまた保守主義である。ソーシャルミニマムをどこに規定するか、その規定の裏づけになるのは社会的親和性によるものなのか、人権主義的にあるべき国家とは何かを追求した結果なのか、方法論の違いに過ぎないのである。


 現実として、景気回復といってもその恩恵にあずかれない大多数の国民からすると生活が以前より苦しくなったという実感を重税感とともに味わう状況の出来は否定できない。それらの閉塞感を打破するために政治がいかな機能を果たすべきかにおいては、十全なリーダーシップを政治に求める考え方と、国民の声をしっかり聞いてボトムアップで成り上がるやり方とある、よりよい政治参加の道を議会制民主主義は模索するべきだという話で一応落ち着いた。


 「まあそうですな」と議論してたんだけれども、あとになって思うとどうも違うような気がする。その政治家が国民の草の根活動あがりの人物だろうと、早稲田の雄弁会経由政治家の秘書で順番待ちで出てきた人物だろうと、はたまた経済産業省か総務省か財務省かキャリアで上が詰まったりエースになり損ねて役人の世界ではドロップアウトだけれどバッヂつけて捲土重来を志す人物だろうと、リーダーシップとはその人のもつ政治哲学や思想に決定的に依存するものであろうと私は思う。


 人口減少も格差社会も農村の荒廃も現状は現状としていったんは受け止めた上で、政治がどう機能を果たしていくか、日本人が今後の日本において何を理想として暮らしていくか、金なのか社会なのかそろそろ戦後の後始末として考えなければならないのは事実である一方、言論としては日本一国平和主義は駄目だといいつつ心のどっかでは戦争でも起きてこの閉塞感がリセットされないかなあ的な衝動が、左翼にも保守にもあるんだということが再認識された。平和による行き詰まりは平和の喪失によって打破されるのだなあ、という。