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三   津(み   つ)   (てら)

 三津寺1

真言宗御室派の準別格本山 大福院 三 津 寺
みってらさん ミナミの観音さん ともいう。

大阪を南北に結ぶメインストリート・御堂筋の 難波交差点と
新橋交差点の中ほど、車が洪水のように流れる通りに 面して建つ。
三津寺筋 と呼ばれる通りの名称にもなっているほどで、
近くには大阪を代表する商店街・心斎橋筋や
水の都を代表する川・道頓堀川沿いの繁華街など、
ミナミのビジネス街、繁華街のど真ん中にある。

 三津寺2

本尊 十一面観世音菩薩(秘仏)
本尊と同じ姿の石仏が山門を入ってすぐのところに祀られている。
現在の本堂は文化5年(1808)に建立されたもの
その前に「おびんずる像」の撫仏がある。

 三津寺3

天平16年(744)聖武天皇の勅願で、行基が開創した難波の名刹。
行基は、天皇や貴族の高貴な学問であった仏教を庶民に布教した、
恐らく日本最初期の仏教伝道者である。
当初朝廷から危険人物扱いされていたが、
支持者の急激な拡大と金集めの才能が
東大寺大仏建立を画策する聖武天皇を引き付けた。

当時、このあたりには楠の大樹が茂っており、
行基がその1本の大樹から刻んだ観音像を本尊にしたと言う。
18世紀末刊行の「摂津名所図絵」には、楠の大樹が境内に見れられる。

 三津寺4

現在の本尊・十一面観音像(秘仏)は、
昭和8年(1933)の御堂筋拡幅の折に切り倒された楠の大樹で彫られたもの。
本尊の脇仏として
薬師如来像 大日如来像 弥勒菩薩像 地蔵菩薩像
毘沙門天像 不動明王像 愛染明王像 弘法大師像など、
平安後期から鎌倉、江戸初期にかけての仏像が安置されている。
 
本堂は文化5年(1808)に建立されたもので、
内陣、位牌堂は総漆塗りで、柱や扉は金箔を張りめぐらせ、
格天井にはすべて花柄の異なる絵が描かれている。
明治12年(1879)本堂で第1回大阪府議会が開かれた珍しい歴史を有している
大阪市内のほとんどが灰燼(かいじん)に帰した第2次世界大戦の
昭和20年(1945)3月13日の大阪大空襲の際にも、
三津寺は被弾せず類焼もまぬがれて残った。

 三津寺5

現在の庫裏は昭和8年(1933)御堂筋拡幅の時、
境内の約4割が接収された際に新築されたもので、
当時の寺院としては珍しい地上3階 地下1階の鉄筋コンクリート造。
全室スチーム暖房 ガス 水道 消火設備 荷物用リフトを備えた近代建築だが、
外観は 寺院庫裏としての伝統を保っている。

 三津寺6


 2010 01 10


摂津名所図絵に「三津寺は御津八幡宮の神宮寺」とある

 三津寺7

御津八幡宮は、御堂筋を挟んで西側(現 アメリカ村)に鎮座している。
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭神としているが、
創建の年代は諸説あって定かでない。
この地が石清水八幡宮の荘園であったことから
八幡宮が祀られたのであろうと言われている。
「御津」の名称はこの付近が大和朝廷の時代に難波津、
すなわち御津であったことに由来する。

三津寺の通りを 三津寺(みってら)筋と言い
その一つ北の通りに八幡宮があるので 八幡筋と言う
その賑やかな八幡筋に面して いつもペタをくださるアメバの
ブロガーさんの お店がある。

 三津寺8

電話番号・局番が4桁になって久しいが未だに旧番号表示で頑張っておられる。