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 海龍王寺1

 海龍王寺2
山 門 - 室町時代 建立。

東大寺の西の門・転害門(てがいもん)から真っすぐ西に延びる道は
平城京の一条南大路。
転害門から海龍王寺 法華寺付近までの一条南大路は、
別称で「佐保路」と呼ばれた。
佐保の地には貴族たちが多く住み、
佐保路に沿って佐保川が流れるこの道は
貴族たちの散歩道、万葉集にも多くの歌が詠まれている。


 海龍王寺3
築 地 塀 - 室町時代 建立。
崩れそうな土塀に囲まれて、ひっそりとたたずんでいる。

真言律宗  佐保山 海 龍 王 寺 (別称 隅寺 )
創建年 8世紀前半  開基 伝・玄昉、光明皇后(発願)
本尊 十一面観音(重要文化財)

 海龍王寺4

天平3年(731)光明皇后の発願で、父・藤原不比等の邸宅跡に建立。
光明皇后宮(後の法華寺)の東北隅にあったことから、
建立当時は 隅寺(すみでら)とも呼ばれていた。

遣唐使の一行に加わって中国・唐に渡り、
18年間法相の教学を極めた僧・玄昉(げんぼう)が、
天平6年(734)帰国の途中、船が暴風雨に見舞われ、
東シナ海を漂いながら海龍王経を唱え 
九死に一生 苦難の末に帰国、
隅寺に入って海龍王寺と寺号を改め、
十一面観世音菩薩像を本尊として祀る。

玄昉が中国から持ち帰った経本の写経を始めたのが
わが国で初めての写経だったので、写経発祥の寺とされている。
光明皇后も般若心経千巻を写経、
弘法大師・空海も唐に渡る前に千日間海龍王寺に参籠し
般若心経千巻を写経、航海の安全を祈願しており
「隅寺心経」として伝わる。

 海龍王寺5
日本を取り巻く四方の海が穏やかであることを祈願して、
聖武天皇は直筆の「海龍王寺」の寺門勅額(国・重文)を与えた。

西金堂解体修理時 発掘調査で、飛鳥時代末期の古式瓦が出土したことから、
この地に 毘沙門天を本尊とした寺が古くからあったと見られている。
毘沙門天は「戦をつかさどる仏」「財宝をつかさどる仏」
「北の方角を守る仏」などとして知られていた。
藤原不比等が邸宅を造った時、この寺院も邸宅の東北住みに取り込み、
藤原一族が困難に打ち勝って繁栄し、
鬼門の東北を守る仏として祀ったと考えられる。
この寺に 光明皇后が新たに隅寺を建立したと見られる。

 海龍王寺6
 海龍王寺7

本尊・十一面観世音菩薩立像(国・重文)
木造彩色 像高94cm
唇、衣、手に持った蓮の花に緑と朱色をとどめ、
地肌の鈍い金色に映えて神秘的な雰囲気を漂わせている。
金泥のお姿で 切金模様と 鍍金を施した装身具は精緻を極め、
頭部の自然な俯き 優しい手の動き 腰のひねりなど 姿勢までも美しい像。
天平時代 光明皇后が自ら刻まれた観音像をもとに、
鎌倉時代に慶派の仏師により作られた。
昭和28年まで秘仏となっていたため保存状態極めて良好

この他、快慶作と伝えられている 文殊菩薩立像(重文)

 海龍王寺8
本 堂 - 江戸時代、寛文6年(1666)の再建。

 海龍王寺9
西 金 堂(重要文化財)
奈良時代の建立(鎌倉時代に大修理)
切妻造、本瓦葺き、正面3間、側面2間の小規模な仏堂。

 海龍王寺10
五 重 小 塔 (国宝) 西金堂内に安置。
相輪を含む総高4.01m(相輪を除く高さは2.85m)の小塔
工芸品ではなく「建造物」として国宝に指定されている。
当初から屋内に安置されていたもの。
木箱入り法華経2巻と垂木木口金物2個が
国宝の附(つけたり)として指定されている。
奈良 元興寺(極楽坊)の五重小塔が内部構造も省略せず、
屋外にある塔と同様に1つ1つの部材を組み上げて造られているのに対し
この小塔は箱状の構造物を積み上げ、
組物などの細かい部材は外側から貼り付けたもの。
しかし、様式的には元興寺小塔より古い8世紀前半頃のもので、
細部様式が薬師寺の三重塔に類似しており、
遺例の少ない天平時代の建築技法を伝える貴重なもの。

 海龍王寺11
経 蔵 (重要文化財)- 寄棟造、本瓦葺きの小建物。
鎌倉時代に 西大寺の中興の祖・叡尊(えいそん)により造立されたと伝わる。
叡尊の年譜に 正応元年(1288)海龍王寺の堂宇を修造 経蔵を新築したとある。



 2009 11 12
妙  智  力
観 音 妙 智 力  能 救 世 間 苦 (観音経)
(観音菩薩の素晴らしい智慧の力は普く世間の苦しみを救いたまう)



 海龍王寺12








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