興 聖 寺
( こう しょう じ )
~ 関西花の寺 14番 ~

旧朽木(くちき)村の安曇(あど)川の清流を見下ろす小高い丘の上に、朽木氏の菩提寺として建つ。
鎌倉時代 嘉禎3年(1237)近江守護・佐々木信綱が、承久の乱で戦死した一族の供養を曹洞宗の開祖・道元禅師に願い、越前へ行く途中の道元を朽木に招く。
朽木を訪れた道元は、朽木の山野の風景が伏見・深草に創建した興聖寺に似ているのを喜び、信綱に一寺の創建を勧め、同じ寺名を与えたのが始まり。
3年後に七堂伽藍が完成、永平寺二世住職・懐弉(えじょう)禅師を招いて遷仏式を行い、曹洞宗第三の古道場となる。

信綱の曾孫・義綱が氏を佐々木から朽木と改め以後、代々にわたって朽木を領して明治維新まで続き、創建以来、朽木氏の菩提寺となった。

本尊の釈迦如来像(国・重文)は、朽木に隠れ住んだ後一条天皇の皇子が没した後、その霊を慰めるために造仏され祀られた。
楠木正成の念持仏だった不動明王像があり、寺に侵入した盗賊を金縛りにして追い払ったとの言い伝えから、縛り不動明王像とも呼ばれる。

創建当時は、道元禅師が気に入った風景の旧朽木村上柏の指月谷にあったが、江戸中期 享保14年(1729)この地にあった秀隣寺を指月谷へ移し、その跡へ興聖寺が移された。

秀隣寺跡地へ移転したことから、境内には国の名勝に指定されている旧秀隣寺庭園がある。
享禄元年(1528)足利12代将軍・義晴が、都の兵乱の難を避け、朽木稙綱を頼って朽木に3年間滞在。
義晴を慰めるために作庭され庭園で、室町文化の趣を残し足利庭園とも呼ばれる。


室町時代後期の造園手法で作庭された池泉回遊式庭園で、築庭当時のままの形で残る。
安曇川の清流と比良山系・蛇谷ヶ峰を借景に、上流には鼓の滝を配し、下流は曲水、池の平面を鶴に形にして、そこに亀島を浮かべている。
亀島に架かる自然石の橋は楠の化石で、小谷城主・浅井亮政の寄進と伝わる。

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