安 倍 文 殊 院
( あ べ もんじゅいん )
京都府天橋立・切戸の文殊、山形県・亀岡の文殊とともに日本三文殊の一つ
一般には「安倍の文殊さん」「知恵の文殊さん」として親しまれている。
本堂の前には高校、大学の合格祈願や学業成就を願った絵馬が所狭しと掛けられている。
入試時期が迫ると受験生のお参りが多く、絵馬の数はさらに増える。
境内の500㎡の花壇に8000株のパンジーのジャンボ花絵が登場、
えとの横に葉ボタンで「合格」の文字、訪れる受験生を励ます。
大化元年(645)孝徳天皇の勅願によって、大化の改新に功績のあった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が、安倍一族の氏寺として創建した安倍寺が起こりで、鎌倉時代に現在地に移された。
南西300mの所に法隆寺式伽藍配置だった安倍寺跡があり、飛鳥時代の寺跡として国の史跡に指定されている。
快慶作と言われる本尊の木造文殊菩薩像(国・重文)は、巨大な獅子に乗った高さ7mの堂々とした姿で日本最大の文殊像。本尊のそばに無心に合唱するあどけない童顔の善財童子像(国・重文)や優填王(うてんおう)像(国・重文)、須菩提(すぼだい)像(国・重文)も本尊と同じく快慶作。
本堂前の文殊池の北側に昭和60年(1985)に建立した総金色仕上げの六角の金閣浮御堂には、文武2年(698)この地で出生した安倍一族のひとり安倍仲麻呂の像を安置。
霊亀2年(716)仲麻呂が19歳の時、遣唐留学生に選ばれ第8次遣唐使の一員として中国へ渡った。唐の長安の大学で学び、優秀な中国人でも難関の科挙の試験に合格し、唐朝廷官吏のエリートコースを歩み玄宗皇帝に重用された。
37歳の時、玄宗皇帝に日本への帰国を願い出るも、優秀な人材を手放すのを惜しみ帰国は許されず。
19年後、年老いた両親への孝養を理由に帰国が許され、遣唐使船で帰国の途につくも暴風雨で遭難、ベトナムに漂着し長安へ戻り、帰国の夢を果たせぬまま73年の生涯を終えた。
別の船に乗っていた鑑真和上は鹿児島に漂着。二人はそれぞれ別の道を歩んだが、いずれも日中友好の祖として今もその功績が讚えられる。
平安時代の陰陽師の安倍晴明も安倍一族。
晴明は6代の天皇に仕え、一条天皇から天文陰陽博士の号が贈られる。
その生涯は謎に包まれいろいろな伝説が残る。
生誕地についても讃岐国、河内国・安倍野、安倍文殊院のある桜井・阿部の地など。
その中でも、晴明の母が和泉国(大阪府)の信太の森のキツネであるとの伝説がよく知られている。
わが子にキツネの姿を見られた母が
「恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」
の歌を残して姿を消した話が有名。
阿部文殊院周辺には古墳も多い。
文殊院西古墳(国特別史跡)は花崗岩を入念に加工した古墳築造技術の粋を集めた石室を持つ。
ほかに艸墓(からとばか)古墳(国史跡)や文殊院東古墳(県史跡)などがあり、この地が安倍一族を含め古くから栄えた歴史を持つことを示す。
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