「キスしてもいい?」


そう僕が問いかけると、彼女はそっとうなずいた。
道頓堀の薄暗いベンチで、ふたりは唇を重ねた。


その夜のこと、彼女は覚えているだろうか。


待ち合わせ場所で、お互いを見つけたふたりは笑顔で手を振り合った。
「おいしいワインでも飲みに行かない?」と僕がいつもの調子で言うと、
「うん。行く」と彼女はいつもの笑顔で答えた。


店に入るとグリコのネオンが見える窓際の席に通された。そして、甘口の

白 ワインが好きな彼女のために、ドイツワインのフルボトルを開けた。


「乾杯」


グラスを重ねる音が、静かな店内に響く。
しばらく他愛のない話をしたあと、僕は切り出した。


「今夜はどんな気持ちでここに来たの?」
「え…」 彼女は一度口ごもったけれど、勇気を振り絞るように口を開いた。
「この前電話で話したこと、ちゃんと逢って話さなくちゃって思ったから」
「オレがどんな想いを伝えても、今こうしていつものように逢っていても、
気持ちは変わらないのかな」
「うん…」
「そうか…」


僕は窓の外を見つめた。グリコのネオンが手を広げて笑っている。


「もう一度ゼロからやり直してみない?」


彼女は黙ったまま左手に持ったワイングラスを見つめていた。
その沈黙こそが、彼女の答えだった。彼女の頬をつたう涙を、

僕は見ないふりをした。


「終電まで少し時間があるよ。外を歩こうか」
「そうね…」


初めてのデートも道頓堀だった。あの夜、僕が彼女の手をつかむと、

彼女も握り返してきた。今夜も、僕は彼女の手をつかんだ。


「どうして道頓堀の水は濁ってるか知ってる?」
「ううん。知らない」
「みんなが捨てていく悲しい思い出を隠すためだよ…」
「またそんなこと言って…」 彼女はクスっと笑った。


少し悲しげな顔をして。


しばらく歩いてから、ふたりはベンチに座った。
僕は、初めてそうした時と同じように、彼女の髪を優しくなでた。


「キスしてもいい?」


そう僕が問いかけると、彼女はそっとうなづいた。
道頓堀の薄暗いベンチで、ふたりは唇を重ねた。


誰も、それが最後のキスだとは思わなかっただろう。


「今までありがとう。オレは世界一幸せだった。ありきたりだけど、絶対幸せになれよ」
「うん。こんなあたしを好きになってくれてありがとう。あたし、あほやね…。あなたの愛忘れないよ」


これが、ふたりのラストシーン…。