誰が信長を殺したのか!
最近読んだ歴史に関する本を紹介します
今日、紹介するのは
だれが信長を殺したのか (PHP新書)/桐野 作人

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私は、この本を読んで、学問的に資料を精査し作品を上梓するごとに自らの考えを具現化する著者の真摯な研究姿勢に特に感銘を受けました。最近、内容の薄っぺらい本を出版して歴史研究家を名乗っている教師がいるみたいですが、本書は新書でありながら本格的な研究書であり、本能寺の変に少しでも関心をお持ちの方には、ぜひご一読、いや、二読、三読されることをおススメします
以下に、本書の概要を書きます
本書では、天正八年が信長と光秀の関係における分水嶺となる年であり、そしてこの年を頂点として、その後、両者の関係にしだいに陰りが差し、本能寺の変の背景には、信長の四国分国化政策が大きく関わっていることを詳述されている。
第一章~第三章では、天正三年以来、信長の四国政策の変遷を対長宗我部氏関係を軸に、①友好期(天正三年十月~同八年中)、②悪化期(同九年一月~同十年一月ごろ)、③敵対期(同十年二月~六月ごろ)に段階分けして辿られている。
信長は、正三年以来、明智光秀を介して長宗我部氏を服属させ、その阿波平定を追認しながらも、三好長治横死後、三好存保の阿波入部を認めて阿波三好家の当主の地位を承認するという相矛盾する態度をとってきた。
しかし、天正九年初頭から、信長はそれまでの四国問題への不干渉政策(長宗我部・三好両氏の自力救済の容認政策)を変更し、三好氏を救済し、三男信孝を三好康長の養子にして四国東半分を分国化するという方針転換を図った。
長宗我部元親が、信長のこの四国分国化命令を拒絶したことにより、天正三年以来、七年近くその取次役として四国政策に関与してきた明智光秀は面目を失い、同時に信長の四国政策から排除された。これを契機として、明智光秀は、自らの家中と長宗我部家中のあいだに濃密な親族・姻戚関係を抱えており、信長・信孝父子と対立するようになったとされている。
第四章では、明智光秀の家老である斎藤利光に焦点が当てられている。斎藤利光は、明智家中で長宗我部氏ともっとも深い関係にあり、明智家中における長宗我部勢力の代表であって、羽柴秀吉と長宗我部氏との取次を務めるほどの地位にあった人物だとされている。そして、斎藤利光は、柴田勝家の家来である柴田勝定(利光の女婿である)という人物を明智家中へ引き抜いたことで、信長から死罪を言い渡された。このことが、斎藤利光を本能寺の変に積極的に関わらせた要因だとされている。
第五章~終章では、本能寺の変前後の動きに焦点が当てられており、本能寺の変は決して劇的なものでもないし、黒幕もいなければ、光秀がなんらかの大義名分を振りかざした義戦でもなく、唐突に実行された政変だったと結論付けられている。

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第一章~第三章では、天正三年以来、信長の四国政策の変遷を対長宗我部氏関係を軸に、①友好期(天正三年十月~同八年中)、②悪化期(同九年一月~同十年一月ごろ)、③敵対期(同十年二月~六月ごろ)に段階分けして辿られている。
信長は、正三年以来、明智光秀を介して長宗我部氏を服属させ、その阿波平定を追認しながらも、三好長治横死後、三好存保の阿波入部を認めて阿波三好家の当主の地位を承認するという相矛盾する態度をとってきた。
しかし、天正九年初頭から、信長はそれまでの四国問題への不干渉政策(長宗我部・三好両氏の自力救済の容認政策)を変更し、三好氏を救済し、三男信孝を三好康長の養子にして四国東半分を分国化するという方針転換を図った。
長宗我部元親が、信長のこの四国分国化命令を拒絶したことにより、天正三年以来、七年近くその取次役として四国政策に関与してきた明智光秀は面目を失い、同時に信長の四国政策から排除された。これを契機として、明智光秀は、自らの家中と長宗我部家中のあいだに濃密な親族・姻戚関係を抱えており、信長・信孝父子と対立するようになったとされている。
第四章では、明智光秀の家老である斎藤利光に焦点が当てられている。斎藤利光は、明智家中で長宗我部氏ともっとも深い関係にあり、明智家中における長宗我部勢力の代表であって、羽柴秀吉と長宗我部氏との取次を務めるほどの地位にあった人物だとされている。そして、斎藤利光は、柴田勝家の家来である柴田勝定(利光の女婿である)という人物を明智家中へ引き抜いたことで、信長から死罪を言い渡された。このことが、斎藤利光を本能寺の変に積極的に関わらせた要因だとされている。
第五章~終章では、本能寺の変前後の動きに焦点が当てられており、本能寺の変は決して劇的なものでもないし、黒幕もいなければ、光秀がなんらかの大義名分を振りかざした義戦でもなく、唐突に実行された政変だったと結論付けられている。