ミーソンからホイアンに向かう。

日本でもなじみ深い町名のホイアン、今や観光立国ベトナムを象徴する地名の一つになっている。

入場料を払って町の中を歩く。

風情は横浜中華街なんかに似てるのかな。

 

 

朱印船貿易が盛んだった17世紀頃には日本人町があり、300人以上(1,000人以上とも)の日本人が住んでいたと言われているが[8]、1633年の第一次鎖国令(5年以上海外に住んだ日本人の帰国禁止)、1635年の第三次鎖国令(東南アジアからの帰国禁止)により、徐々に日本人は帰国した。

その後ホイアンでは大火があり、現在の街並みはすべて19世紀以降のものになっているため、日本人街の遺構は残っていない。日本人が造ったとされる来遠橋(通称「日本橋」)も、建築様式が日本のものと異なることから、後年架け直されたものと思われるが、1993年平成5年)から継続的に行なわれている昭和女子大学らの発掘調査により、橋のすぐ横から木杭や板材が見つかり、それが本来の日本橋の遺構ではないかと見られている[9]

発掘調査では、他にも古伊万里焼の破片や日本独特の仏具である仏飯器なども出土した。ホイアン郊外には1647年に没した谷弥次郎兵衛の名が刻まれた日本人墓地昭和5年(1930年)に日本人によって修復されたもの)もある[8]。」  Wikipedia

 

この天井からぶら下がっているものはお線香。

火をつけると1ヶ月くらい燃え続けると言うからビックリ。

みんな火が付いていて煙を出してた。

夜のホイアン。灯籠流しが有名で、おばちゃんが紙で作られた灯籠にロウソクを立て火をつけてくれる。もちろん有料。それを長い棒の先の網に乗せて川に浮かべる。

毎日沈んだ灯籠を拾う作業をしているそうだ。確かにあんなに沢山の灯籠が毎日沈んでは川はたまったものではないだろう。

欧米系、アジア系の人種のるつぼ。言語も様々に飛び交って賑やかなこと。

 

フエに向かう。

 

「フエ市(フエし、ベトナム語:Thành phố Huế / 城庯化 Hue Northern.ogg 発音[ヘルプ/ファイル])は、ベトナム中部の都市で、トゥアティエン=フエ省省都である。19世紀から20世紀にかけて存在していた阮朝の都に定められていた。

一部の歴史的建造物がユネスコ世界遺産文化遺産)に、また宮廷芸能であるニャーニャック(雅楽)無形文化遺産に登録されている。」 Wikipedia

 

 

フエは前回も宿泊した。

カイディン帝廟。

この王様はこの自分の墓を作るために3割も税金を引き上げて国民の怒りを買ったそうだ。

酷税という点では自民党政権に似ているなぁ。

 

「啓定帝の廟の意匠にはバロック様式の影響が見られ[52]、廟の内部の壁と天井は磁器やガラスで装飾されている[53]。バロック様式だけでなく、仏寺、ヒンドゥー寺院、キリスト教会の特色が見られ、東洋と西洋の建築様式が混合した建物になっている[53]。内部には金箔が貼られた啓定帝の銅像が置かれ、像の約9m下に遺体が安置されている[53]。」 Wikipedia

 

市内最大のドンバ市場。

発酵食品が至るところで売られていた。魚貝類が材料の物が多いようだ。

 

玩朝王宮。

前回訪問時にはベトナム戦争の米軍空爆で多くの建物は復旧作業中で爆撃の穴が開いてるところもあったが、建物は殆ど再建されたようだ。

 

施設内の劇場では雅楽(ニャーニャック)の演奏も行われていた。

 

ダナンのホテルを最後に出る朝、フロントの若い女性と色々話しをした。

日本語の勉強を懸命にしたせいか、ほぼ淀みなく会話が成立する。

彼女はダナンから車で3時間ほどのフエ北方に生まれ育ち、今はアパートで一人くらししながらダナンのホテルで働いている。

10日間働いて3日間休み。勤務時間は早番が朝5時半から午後2時半まで、遅番が午後2時から夜の10時までだと言う。懸命さがヒシヒシと伝わってきて別れ際に握手、頑張ってね、お金貯めて日本にもおいでと言うとにっこり笑ってさよならしてくれた。

日本の旅館やホテルでも懸命に働くベトナムの若い人たちに接する機会が増えているが、一所懸命と言う言葉がピッタリの彼らがこの国を支えていくのだろう。

しかしコロナ前は成田ーダナンの航空便は一日4便あったが今は1便のみ。

現地ガイドのベトちゃんも嘆くことしきり。

とても親切で地元の名物店でバイミーを買ってきてくれた。美味しかった。あんな美味しいものが食べられるならマクドナルドが苦戦というのもわかるよなぁ。

ついでにマッサージ店もお勧めの所を案内してくれた。

1時間で3300円、USドルで22ドルだった。レモンオイルが効いた。

ベトちゃん曰く、ゴールデンウィークも日本語ガイドの仕事が入っていないそうだ。

今ダナンでは韓国人、台湾人、インド人の順で観光客が来ている。

日本人が少ないと日本語で仕事をしているベトナム人は大変だ。

ベトちゃんも、「私韓国語話せないけど、韓国人の添乗員の友達に頼んで一緒に回らして貰う」「通訳としてチケット買ったりの下働きする」「彼との会話は日本語」と言っていた。「韓国人のツアーは大変です。朝8時から夜10時位まで観光しっぱなし。この間なんか最終日直前に3人倒れて寝込んでしまった」と言うほど弾丸ツアーが盛んらしい。

 

五行山に向かう。

「ベトナム中部の都市ダナンにある「五行山」。大理石でできた5つの山から成り立っており、別名マーブル・マウンテンとも呼ばれています。展望台からはダナンの街を一望することができ、絶景を楽しめます。
また、ここは西遊記の孫悟空がお釈迦様に閉じ込められた山という伝説があり、パワースポットとして聖地巡礼もされています。」

 


小高い山の上にあるので途中までエレベーターがあった。

中国の武陵源で見たものに比べれば遙かに小さいが似てる。

江ノ島の岩屋を思いだした。

 

所でベトナムの通貨はドンである。

1万ドンなんて言うとかなりの金額を想像するが円安が進む円でも60円。地ビールを頼むと6万ドンとか8万ドンとかになる。馴れるまで大変だった。

またベトナム料理は大好きで自宅でも生春巻きなんか作って食べるし、渋谷に行くとベトナム料理の店に入るのが定番だが、やはり本場は美味しかった。ついでにスマホの翻訳アプリが結構役に立った。日本語で話してベトナム語に訳してくれる。便利な時代になったもんだ。字入力で翻訳も良かった。

ダナンの夜景。観光客誘致で外貨獲得に精出してるベトナム。農業と観光で国を成り立たせるのは大変だろうと思う。しかし世界最強の米軍を破ったベトナム国民の頑張りが成功することを願う。

ベトナム戦争時、横浜村雨橋で米軍戦車輸送阻止闘争をたたかった若い頃を思いだして、改めて連帯の意思を投げかけた。

僕の10代から20代前半はベトナム戦争の時代でもあったのだ。

世界中で反戦歌が歌われ、連日デモが行われ、何より若者たちが輝いていた時代。連帯と言う言葉が全く違和感なく日常会話に登場した時代。

そんな時代が再び出現することを期待する。