
書の可能性と教育について
R: 意図的に他のものとは違うようにしている、アウトサイダーというか…。何かしらそういう意識がないとこういうことはしないと思うし、よくある書道教室と違うなって思ったのでそこらへんのことを聞きたいです。
梨: お習字って基本的に芸術性がないんですよ。「お習字」と「書道」と「書」って厳密にいうと違うんですね。学校で習うようななんの脈絡もないどこかの誰かわからない先生のお手本を真似して書くっていうのが「お習字」。誰が見ても基本的に上手、って言われるような字を真似するだけだから、技とかそういうものには触れずにただ単に字を上手に書くっていうのが目的。点と点を結んでそれを正確に書けるというのが優秀。
「書道」となって「道」という字がつくと、(小学校から中学高校になると教科書が『お習字』から『書道』になる)中国とか日本の古典の「誰々が書いた」書を学びましょうとなって、そこにはお習字よりは多少技術や時代背景というものが反映されてくる。見本となるものがあるのはお習字と一緒なんだけれど、その中には技術、筆法なんかも入ってくるわけ。学ばないと書けないもの。絵でいうと遠近法やなんかかな。ただ見てそのまま書く、というのではなく、遠近法をもちいて描いて見ましょう、っていうような。筆を選んだりとか、墨を選んだりとか。書学も学んだりとか。「道」がつくとそうなってくる。
「書」になると、そこからまたもう一つ踏み込んでいく。例えばアイテムを変えてみる(墨をかえたり)とかエッセンスだけ残すとか。紙や墨っていう形式は残して他の部分を少しずつ変えていく、そしてそこにアート性を見出すっていうのが「書」のアート的なものになるんじゃないかなと思う。多分脳を使う場所も違うと思うのね、「書道」と「書」って。「書」のアート性を求めるものは、例えば100回描いたら100個違うものができてくる、というところにあるんだけど、「お習字」のようなアート性がないものは、100回書いたら100個同じものができる人の方が郵趣だったりするわけで、当然脳の使う部分は違う。そこで子供達には両方やってほしいなと思ったのね。脳の発達段階にもあるし、人間形成の上での情緒的なものや価値観についても。同じ筆を使ってやることでもこれだけ多種多様で違うものもあるんだよ、ということも知ってほしい。だいたいお習字が上手な子って、むしろアートの方がイマイチだったりするし、逆に上手に描けない子の方がアートの才能に、不自由なぶんだけいいものが書けたりするのね。だから園児たちなんか本当に天才で、私たちが書けないような書を書いたりする。今回も古代文字をちゃんと辞書で調べて書くとか、こういう手順を踏んでこういうのも作っていくんだよっていうのも勉強になるし。やっぱりお習字ではこういうのは全くないんだよね。なんか先生からもらってさ、書きたくない字を書いてさ、なんだこれって思いながら書いて笑。それはこなすっていう感じだけど、アートになれば自分で選んでそこから考えてっていうことをするので。
R: 考えなきゃいけないっていう状況ですよね、正解がないから。
梨: そうそう。正解ないからね。
R: だからお習字が得意な子は「正解」っていうのがあるから「考え」なくていいんだけど、逆に考えなくちゃいけない「書」になるとすごく不便になってしまうという。
梨: そう。やっぱり脳の使う部分も違うし、才能もそれぞれに適したところで発掘しなくちゃいけないし。でも今後はお習字の面でもお手本を書かない、というふうに私もしていこうかなっと思っていて。だから全面的に人の真似をするっていうよりは自分で考えて、まずは書いて見てそれのどこを直せばいいのかっていう教え方にしようかと。自分の持っているものでまずそこから始める。いいものはやはり自分の中にあるから。そこの個性を「お習字」の中でも一貫してやっていこうかな、と考えています。
R: 普段の教室では今回のようなアート性のある「書」ではなくて、「お習字」なんですね。
梨: そうですね。その辺も今色々考えていて。もう行書とかやっても仕方ないかなって。どこかの団体に属していて、毎月きまったものを出すっていうのもちょっと時代的にも合わないし。
R: そうですねえ、正直面白いと思ったことはないですね笑。
梨: ないよねえ、つまんないよね笑。ただ全国版に写真で載るからちょっとそこがモチベーションっていう程度で。それよりも今言ったように自分で考えて書くっていう風に持っていった方が絶対に上手になる。
R: 教育的にも、「正解があって」っていう教え方よりは、「自分で正解というのを作んなきゃいけないんだ」っていう方がすごくいいですよね。
梨: そうそう。そうなんですよ。正解って本当に一つじゃないじゃない?数学と違うからさあ。掛け算の子もいれば足し算の子もいるから。やり方は全然違っていいと思うので、正解を求めて自分で進んでいくっていう方法がいいですよね。そうすると満足感もあるし。そこの部分の獲得をさせてあげたいかなって。成功体験をね、もっと作ってあげたいかなと思っています。
梨世さんの教室「萌芽会」は高円寺にて。次回は3月に展示を予定している。
R: 意図的に他のものとは違うようにしている、アウトサイダーというか…。何かしらそういう意識がないとこういうことはしないと思うし、よくある書道教室と違うなって思ったのでそこらへんのことを聞きたいです。
梨: お習字って基本的に芸術性がないんですよ。「お習字」と「書道」と「書」って厳密にいうと違うんですね。学校で習うようななんの脈絡もないどこかの誰かわからない先生のお手本を真似して書くっていうのが「お習字」。誰が見ても基本的に上手、って言われるような字を真似するだけだから、技とかそういうものには触れずにただ単に字を上手に書くっていうのが目的。点と点を結んでそれを正確に書けるというのが優秀。
「書道」となって「道」という字がつくと、(小学校から中学高校になると教科書が『お習字』から『書道』になる)中国とか日本の古典の「誰々が書いた」書を学びましょうとなって、そこにはお習字よりは多少技術や時代背景というものが反映されてくる。見本となるものがあるのはお習字と一緒なんだけれど、その中には技術、筆法なんかも入ってくるわけ。学ばないと書けないもの。絵でいうと遠近法やなんかかな。ただ見てそのまま書く、というのではなく、遠近法をもちいて描いて見ましょう、っていうような。筆を選んだりとか、墨を選んだりとか。書学も学んだりとか。「道」がつくとそうなってくる。
「書」になると、そこからまたもう一つ踏み込んでいく。例えばアイテムを変えてみる(墨をかえたり)とかエッセンスだけ残すとか。紙や墨っていう形式は残して他の部分を少しずつ変えていく、そしてそこにアート性を見出すっていうのが「書」のアート的なものになるんじゃないかなと思う。多分脳を使う場所も違うと思うのね、「書道」と「書」って。「書」のアート性を求めるものは、例えば100回描いたら100個違うものができてくる、というところにあるんだけど、「お習字」のようなアート性がないものは、100回書いたら100個同じものができる人の方が郵趣だったりするわけで、当然脳の使う部分は違う。そこで子供達には両方やってほしいなと思ったのね。脳の発達段階にもあるし、人間形成の上での情緒的なものや価値観についても。同じ筆を使ってやることでもこれだけ多種多様で違うものもあるんだよ、ということも知ってほしい。だいたいお習字が上手な子って、むしろアートの方がイマイチだったりするし、逆に上手に描けない子の方がアートの才能に、不自由なぶんだけいいものが書けたりするのね。だから園児たちなんか本当に天才で、私たちが書けないような書を書いたりする。今回も古代文字をちゃんと辞書で調べて書くとか、こういう手順を踏んでこういうのも作っていくんだよっていうのも勉強になるし。やっぱりお習字ではこういうのは全くないんだよね。なんか先生からもらってさ、書きたくない字を書いてさ、なんだこれって思いながら書いて笑。それはこなすっていう感じだけど、アートになれば自分で選んでそこから考えてっていうことをするので。
R: 考えなきゃいけないっていう状況ですよね、正解がないから。
梨: そうそう。正解ないからね。
R: だからお習字が得意な子は「正解」っていうのがあるから「考え」なくていいんだけど、逆に考えなくちゃいけない「書」になるとすごく不便になってしまうという。
梨: そう。やっぱり脳の使う部分も違うし、才能もそれぞれに適したところで発掘しなくちゃいけないし。でも今後はお習字の面でもお手本を書かない、というふうに私もしていこうかなっと思っていて。だから全面的に人の真似をするっていうよりは自分で考えて、まずは書いて見てそれのどこを直せばいいのかっていう教え方にしようかと。自分の持っているものでまずそこから始める。いいものはやはり自分の中にあるから。そこの個性を「お習字」の中でも一貫してやっていこうかな、と考えています。
R: 普段の教室では今回のようなアート性のある「書」ではなくて、「お習字」なんですね。
梨: そうですね。その辺も今色々考えていて。もう行書とかやっても仕方ないかなって。どこかの団体に属していて、毎月きまったものを出すっていうのもちょっと時代的にも合わないし。
R: そうですねえ、正直面白いと思ったことはないですね笑。
梨: ないよねえ、つまんないよね笑。ただ全国版に写真で載るからちょっとそこがモチベーションっていう程度で。それよりも今言ったように自分で考えて書くっていう風に持っていった方が絶対に上手になる。
R: 教育的にも、「正解があって」っていう教え方よりは、「自分で正解というのを作んなきゃいけないんだ」っていう方がすごくいいですよね。
梨: そうそう。そうなんですよ。正解って本当に一つじゃないじゃない?数学と違うからさあ。掛け算の子もいれば足し算の子もいるから。やり方は全然違っていいと思うので、正解を求めて自分で進んでいくっていう方法がいいですよね。そうすると満足感もあるし。そこの部分の獲得をさせてあげたいかなって。成功体験をね、もっと作ってあげたいかなと思っています。
梨世さんの教室「萌芽会」は高円寺にて。次回は3月に展示を予定している。
今回の梨世さん自身の作品「慈母」について
梨: 宇宙感、というか母の胎内にいた時の記憶とか。そういう、なんていうのかな、お母さんて宇宙的なところあるじゃない? それをこの中と外の余白で。あえて表象で、読めないようにして宇宙感を表現しました。あとは白を綺麗に見せるために細い線で描いてそこに少し紫と金を。
R: この色というのは後からやるんですか?それともはじめから筆に染み込ませて一筆でやるんですか?
梨: 一筆で。
R: つまりここから書き始めたからここがにじんでいるっていうことですね。
梨: そうです。にじんでいるのは筆にたくさん墨を含ませているからというのと、ゆっくり書いているから。この「慈母」の場合は、初めはゆっくり書いてて、だんだんちょっとずつ早くなってスって感じかな。
R: 私も胎内っていう場所と宇宙との繋がりっていうことに関しての作品を描いていたりするので、わかるなあって思って。
梨: すごいよね、お腹の中って。
R: そういうのって女性ならではだなって思うんですよね。女性にしか責任を持って語り得ないことというか。
梨: 表現しきれているのかは謎なんですけど、今の精一杯というか。一筆だから最後まで一気に行かなきゃいけないという。
R: 書き直しちゃいけないんですよね。あっちょっと短かったからっつって笑。
梨: うん、全部ばれちゃう!それに、ちょっと考えるじゃない、一筆で書いている間にも。途中で止まるとここで滲みがボワーンと広がるんですよ。だから早い遅いはあるにしても、止まっちゃうとアウトなんですよね。かと言ってささっと行くと、おんなじような幅になっちゃって、ダメというか妙味がなくなってしまう。そこの変化をつくように、でもわざとらしくならないように笑。どこに一番重きをおくかにもよるんだけどね。
R: そこが絵と全然違うところですよね。
梨: 一回性だからね
R: どういう精神状態で、そういう状態で書いたか見る人が見たらすぐわかるっていう。
梨: どれくらいここで止まると滲むっていうのもやって見ないとわからないから、だんだんわあーってなって。濡れ色と乾いた時の色も違うし。絵もそうでしょ?ある意味賭けというか。
R: 絵の種類にもよるんですけど、最近だとブラシの跡を残したりとかいう画風の絵が流行っていると思うんですよね。薄い絵の具でキャンバスの地も残っているような。ああ、でも筆の跡が残る書き方、というのは印象派からもうあるのか…。とにかくそういうのって身体性というか、意識的にしろ無意識的にしろあると思うんですよ。私がこれを描いているということを第三者に意識させたいみたいな。古典技法なんかになると逆に筆跡を消すことが大前提で、作者の存在を完全に画面の上から消すことが目的の一つなんじゃないかと思うんですけど、だからこそ普遍性というのがある。最近のは、時代性もあると思うんですけど、「自分がここに存在している」ということだとか、少なくとも体が存在しているということを、現代人は言いたい、というか示したいんじゃないかなって思ったり。だから今のお話を聞いて、ああ、書ってそもそもそういう身体性そのものじゃないか、と気づいたというか。やっぱり線でしかないので。
梨: そう、線も必要なんだけど、余白はもっと大事。余白が効いてないと意味がないしただ字を書いていることになってしまうのと、それから落款の位置でまた全然違ってくるし。
R: 書って最初どこから書き始めるかっていうのも大事になってくるじゃないですか。でも今回のは決まってない。学校で習うようなものだともっと書き始めの位置って決まっているものだと思うんですよ。だから例えば、この「蹴」の足の始まる位置なんてもっと下だと思うし…。
梨: そうそう、あの、下がってくるところが、一年生ならではなんだよね、バランスを取ろうとしていない。
R: いや、バランスを取ろうとしてると思う。
梨: ああそっか。だから多分、体では取ろうとしているんだけど、頭ではそう意識していない。そこがさあ、すごいよね。あの傾きだって、「あれ以上傾き過ぎても平らになってもいけないっている」っていうギリギリの塩梅の傾き加減だったり…。
R: こっちは入ってるしこっちは切れてるだとか。
梨: 最初書いたのと全然違くて。よくここまできたなって。
R: 隣の「歌」にしてもすごい素敵だなって。滲みにしろ。これ、余白すごい綺麗。
梨: あれも真ん中に書いてたの。それがだんだんずれてきて…。そうなんですよ、2番手も、他のバージョンもすごく良かったりして…。
全部違うのかけるってさあ、本当にすごいと思っちゃうんだよね。
R: ダダイズムから始め無意識の領域での創造にしろなんにしろってかなり研究されてきたしみんな克服っていうのかな、関心があるところだと思うんですけど。子供ってもうそれを達成してると思うんですよね。
梨: 全て持ってるからね、ここに。体に。
R: 子供が園庭で遊んでるのを見ていたりすると、ああ、なんで美術やってるんだろうって思います。
梨: 大人は頭使い過ぎちゃうからね、経験値でストップかかったり、「この前こうだったからこうだろう」っていうとそれ以上行かない。「あれが良かったからあれのここだけ変えよう」とか思うともうアウト、かけない。
R: そういうのはやっぱり絵の世界にもあって、私はもう大音量で何かを効いて思考させなくする、とかしないとできないので。
梨: 私もすぐに辞めちゃうもん。
R: 集中しないとその領域にいけない。







