こんにちは。
楽生きマスターの’むらけん’です。
このブログでは「何物でもない人間がなんでもない毎日を幸せに生きられるようになるストーリー」をつづっていきます。
今日わたしの周りでこんなことがありました。
「ある人の仕事の仕方が気に食わない。
周りの人と同じような働きができない。
そんな人は同じくらい働かないとダメだ。
だから働かせてやろう。」
とその方は相手を言葉で攻撃してしまいました。
人は自分が見ている世界がすべてだと思い込みそれを基準に物事を考え、他人に押し付け、勝手に腹を立てたり、喜んだりする生き物です。
周りに対していい影響を放っているときはいいと思います。
ですが勝手に腹を立て、断罪し、攻撃的になられるのって当事者でなくても周りにいるだけで
迷惑
ですよね。
自分と他人との間に目に見える溝や境界線があればわかりやすいのですが、残念ながらこれは見えない世界の話です。
自分の意識にドローンを飛ばして空撮すれば
自分と他人とはまったく違う
ということは明白なのです。
ベストセラーにもなった「嫌われる勇気」の中でアドラーは「課題の分離」という表現を使用しています。
これは近親者や職場の仲間など物理的に近しい関係なほど分離ができなくなるように思います。
自分にとってどうでもいい人に関しては無関心。
何をしても、本当にどうでもいい。
でも、近しい人はどうも自分と他人との境界線があいまいになってしまう。
ですが
遠くも、近くも、一緒です。
他人が自分の思った通りになっていても、いなくても
どっちでもいい
のです。誤解を恐れずに乱暴に言うと
他人のことは放っておけ
ということです。
周りの人が自分の思っているような成果をだせなかったから、とその人を非難する。
非難した人は自分の土俵で相撲を取っている、自分のルールに反している、だから相手を非難する。
非難された人は非難した人の土俵で相撲をとった、なんだかわけのわからないルールで怒られる、だから心が傷ついた、と感じた。
それなら
非難する人は成果を出せない人を見ても「それがなにか?」くらいの気持ちでいればいい。他人を非難するのは自分に優しくできていないのです。
非難される人は非難されたことを「受け取らない」という姿勢でいればいい。自分を大切にするためにはガードの練習も必要です。
結局、攻撃する側、される側、どっちもどっち。
イラっとしたら分離を考える。
自分と他人は別の生き物。それぞれにいいところ、悪いところがあって補い合いながら世界は構成されています。
イラっとされたら相手の土俵にのらない。
感情はすべて自分が決めています。「心が傷ついた」と感じたのは自分の勝手です。そういう時は「あなたはそう思ってるんですね」と一定の距離をとればいい。
どちらも自分次第で楽になるのです。
とらえ方ひとつで世界は変わります。
それも現実創造のひとつですね。
本日のお話で皆様が幸せに気づくお手伝いができれば幸いです。
皆様の毎日が幸せにつつまれ、さらにその周りの人たちを幸せにすることがわたしのねがいです。
最後までご覧いただき
本当にどうもありがとうございました。
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