今朝の私
インスタで
お茶会をやろうと決めて告知を書いた。
~頑張り屋さんのお休み処~
とても素敵なネーミングだと我ながら思った。
このネーミングがあったから告知できたの。
朝、出勤前
時間ギリギリに何とか書いて出した。
朝、通勤の車の中で思ったこと。
大いなる自分のこと。
大いなる自分を
思っていたら涙が止まらなくなった。
自分を抱擁してくれている、おおいなる自分。
竹内まりやの「元気を出して」
私はこの歌が大好き。
なぜなら、元気を出してと言ってるのは
大いなる自分だからだ
これこそ自己対話だと思うんだ。
他には、
「ずっとそばに」
ユーミンの歌は大いなる自分が私を見つめる目。
キャロルキングの「きみの友達」の歌の中の
その友達とは大いなる自分。
「ユー・レイズミー・アップ」この歌も
大いなる自分との関係を歌った歌。
サイモン&ガーファンクルの
「明日にかける橋」
この歌も大いなる自分との歌なんだよ。
もう世界には数えきれないほどの
美しい関係の歌がある。
大いなる自分との関係が
この世界では最も美しいことを
私達は知らない。
恋人や、親子、友達、その相手との関係にばかり
こだわる。
実はこの世界は大いなる自己との関係を
再構築する世界だと言うのに。
否定ではないんだけど
自分の中にこそ世界があるのに
愛は
大いなる自分との
やり取りの中でしか生まれない。
なぜか、
自分が愛だと思っているものの
元は
自分を生み出した自分との関係に起因している。
他人を大事にしたり思いやりを持ったりすることによって
私達はその他人に対して見返りを求めるが
他人に対して思いやりを持ったということは
自分の内側が豊かさで満たされたと言う事だけで
他人がどうそれを受け取るのかは無関係なのだ。
見返りを求めたなら
それは
自分が何かを受け取る事にこそ
豊かさがあると信じている事になる。
この世界は
ほとんど
そう勘違いされている。
何かを他から受け取らなければ
私は幸せでないのか
何かをしたら
それに応じた報酬を受け取ることを
満足と言うならば
この世界は不満足だらけだ。
ゴミを拾って
お金をもらわなければ
ゴミを拾う価値はないのか。
この世界では
その勘違いこそ、正義と言われている。
正義は何だろう
正義は善なのか
正義はただの観念である。
観念に沿って執り行われることは
観念を信じる者からすれば
当然の正しさがある。
観念など
ないものに
私達は正義と名付けた。
無いもの
それは時と場所、形を伴って
私達に決まり事をすでに決まっていると
教え込んでいるのだ。
私達を超えなくするためだ。
私達は私達を超えなければいけない。
時や、場所、形を超えて
意識をその向こう側につなげなくてはいけない。
私には見えないだろうが
私を抱擁する私がいることを
私は知らなければいけない。
私はそこから生まれた。
私は常にそれと共にあり
それに愛され
それが私を生かし、そして
いずれは完全な合一を果たす時を
迎えると知っている。
そのために
今
生きているのだから。
自己対話はその入り口を作ってくれる。
あなたが話している相手は
本当の私だろうか
親、
教師、
宗教、
それではないと言えるだろうか。
自分についてもっともっと
知りたいと思わなければ
自己対話は進まない。
他を見ていると
自己対話は進まない。
どうぞ
正義と
他を
超越し
おおいなる自分を
意識に合わせて
深く自分を愛してください。
~~~~
自己対話をしていると
自分が言ってるのか
大いなる自分が言ってるのか
途中で分からなくなってしまう。
一つに繋がってる時
そんな自己対話になってる。
~~~~~~
4月29日(土)私はこの日にやるって
ずっと前から決めていたんだけど
中々気持ちが進まなかった。
だけど、思い切って告知したら
何について話すか内容が巻物みたいに出てきました。
「女神」について話します。
誰もが本当は知っている女神について
思い出せるような話になっていると思います。
詳しくはこちらをご覧ください。↓





