12月に仕事の帰り
その日は何か嫌なことがあったように思います
で、そのことを考えながら
車を運転していたら
話が話しかけてくる感じがして
録音しながら
車を運転してました
5分ほど話したところで
家が近くなって
このまま家に帰ったら
話が途切れてしまうので
ドラッグストアの駐車場に車を停めました
バックするとき
バックする意識が強くなって
現実に戻って
話が途切れるかもしれんと思いましたが
その話は
一字一句
バックの後も途切れることなく
33分以上続きました
遠く離れるという話のところで
意識が空中に持っていかれて
ふーっつと
息を吐いて
自分の声の続きを聞き続けました
長いです
お正月
自由な時間がいっぱいあるので
書き起こしてみました
この後
私はものすごい嫌な感情を
1か月以上も持ち続けて
今に至っています
私が今嫌な感情をもってることは
感情の近くにいるというだけなのだと
いうことが
このお話からわかってきます。
でも近くにいるときは
近くにいるので遠くのことなど分かりません
遠くの話を話してくれた知恵のような言葉に
感謝します。
しかしまだ私は嫌な感情の近くにいるという矛盾も笑えます
遠くの言葉に
耳を澄まして
聞くようにゆっくり読んでみてください
※
「感情」と「思考」が混同して表現されています
それは感情も思考も私たちの中では線引きされないほどの
ものだと言えるでしょう
※
「私」という表現も誰かなのか自分なのか
その文章の一節に込められているので
「自分」であったり、「大いなるもの」であったりと
全く別な存在であることがあります
※
何しろ私を通して出てきたので
私の言語の範囲を超えていない言葉です
~言葉ではないものを
言葉にするのは難しい~と
教えてくれている存在の優しさを感じました
ひつこく同じようなことを言ってくれているのは
私が潜在的にその存在に理解させてくれるように
食い下がっているからです
これを踏まえたうえで
読んでください
~~~~~~~~~~~~~~~~
言葉ではないことを
言葉にするのは難しい
けれどもとても大事なことなので言葉にしていきたいと思います
何か感情が湧いたとします
そしてその湧いた感情のすぐ近くに
その感情を教育しようとする感情
否定しようとする感情
共感しようとする感情
色んな感情がこの周辺にあります
そして
その感情はイエスかノーか〇か×かジャッジの世界に
その感情を持っていくことがあると思います
その感情をジャッジしたり
その感情について考えている時
それはその感情にとても近い位置で
その感情と共にいるときに
湧く思考であるということが言えます
その感情をどうにかしようとする感情、思考ですね
が、その思考が近くにいるんです
その感情を見張っている感情思考があなたの近くにいる
なので
ような気がしているということが
本当なんだけど
誰かに対して嫌な気持ちが湧いたとします
でも
その周辺の思考は(近くの思考は)
あなたの中で
そんなことを思ってはいけない、
そんなこと尾を思う私は未熟だと思ったり
そんなのは当たり前だ
そう思ったのはアイツが悪いんだと思ったり
その湧いてきた感情について
何かしらの感情が
例えば
形で言うと感情が一つの点だとしたら
その周りからその感情を渦状のものが取り巻くるような感じで
その感情を取り巻く思考が湧いてきます
そこで
自分を認めたり
自分を認められなかったりするのは
今の自分に近いところで渦を巻くように
起こっていることなのですが
それを
少し離れると
渦の外、もう少し渦から少し離れたちょっと遠くの場所から見ると
それをジャッジしたくないという気持ちが湧くかもしれません
そしてもっともっと
その周りの渦のもっと遠くに行くと
その湧いてきた感情が
感情として認識できなくなる
あるかないかわからなくなる
いいも悪いも何も感じない
それがあることが
いいのか悪いのかという世界、そういう視点ではなく
それがただ物質を見る目のように
ある、もしくはあるようでないものとして
認識する
でももっともっと離れると
その認識すら認識する必要がなくなります
認識する必要もなくなるということは
ない、無音、無感情、視覚として認識しない
そんな世界です
その世界は色も形もない世界です
感情はエネルギーだという世界からも
もう遠く離れています
何もない世界
愛がある
愛がない
愛が溢れている
すべて愛である
それすらも分からない世界
わからない世界
分からない世界というのは
そもそも
分からないかどうかもない
があるということ
これを
地球
今私がいる地点
私から半径5メートルの世界、人間関係
持っているもの
そこからもっともっと離れて
日本
日本からもっと離れて
地球
地球からもっと離れて
宇宙
愛の世界よりも
もっともっと遠くの世界
その何もない世界から
アーイ
が生まれて
それを
今自分に戻したら
太陽が昇る
月が出る
これに
感情はついていない
ジャッジもついていない
なので
本当に
今この今私のいる世界に
ドロドロとした苦しみがあるとしたら
そのドロドロとした気持ちの近くに
自分の思考を置いているといういこと
のみが言えるのではないでしょうか
何かに焦らされるような
何かをしなければいけないような
いつも自分を追い立てるその浮かんでくる気持ち
考えることそれは
その気持ちの近くにある思考であるということだけが
言えるのかもしれません
例えば
なので
離れるということは
忘れるということではなく
抑圧する
ポジティブになる
認める
許す
共感する
私たちは常にそれを求めていますが
その近くに
ある
思考は
そこから少しでも離れようとする
生理的な行動であることなのかもしれません
それを
私たちは
愛と呼ぶのかもしれません
人間の愛
人間としての今生きている自分に
様々な
そのおこる感情
許す
認める
慈しむ
抱きしめる
包み込む
それが人間が
感情を持つ生き物だから
愛というものが
生まれたんです
そしてその感情自体は
もっと離れてしまうこともできるのです
愛すらも
離れて
離れて
ジャッジも
いいも悪いも
認める認めないも
許す許さないも
そこからもっともっと離れたところには
なにもない
認識もない
そんな世界があるのだということを
感じてみると
それは
このドロドロに戻った時
それが
愛の中で起こっていることなのだと
分かる一つのカギとなるのだと思います
愛は大気圏
そんな風に思ってもらってもいいのかと思います
大気圏を突破すると
真っ暗闇で無重力の世界が開けているということを言います
何もない世界
宇宙すらも感じることもない世界
そんな世界も私たちには想像もできないかもしれませんが
何かそういう
私たちの心の
ドロドロとした苦しみのもととなること
感情そういうものを
ドロドロした
不純な血を抜くように
でまた
流れの良いサラサラの血が入っていく
今そんな時代が来ているのだと
認識することも一つあるだろうと思います
ですから
私の心の中も
自分に対する思い
自分の近くの
湧いてきてもそれは
いい悪いジャッジをしないという縛りをつける
解放という縛りをつける
いいんだよという認める縛りをつける
どんな方向にも
何か逃げ道を探そうとするでしょう
ただそれは
あるのみ
の感情である
離れて
離れて
そう
そう何か
自分の感情に対して思うことが出て来たら
あなたのその感情に近いところでその思考は
起こっている
その考えは起こっている
その想念は起こっている
ということです
近いドロドロの隣はドロドロです
ふわふわの隣もふわふわです
近い遠い
近い遠い
近い遠い
近い遠い
近い遠いを繰り返しながら
感情の近いところから
遠くを感じ
その地点に
私たちは移動することができるのです
苦しい感情から遠い
それは
実際には遠くなっていない現状があるかもしれませんが
遠いなるべく遠いところに自分の感情思考を持っていくようにします
遠くになれば
視覚的に見えなくなります
音も聞こえなくなります
呼吸で
吸ってる時に
吐くことはできません
吐いてる時に
吸うことはできません
近くにいるときに
近くにいることを認知したら
次は遠くに行くことができます
それは
すーと吐いて
吸うように
自然の流れの中で
必ずできることと全く同じです
少しでも
何しろ見えないところから
感じないところから
遠いところから
あなたに近寄って
また私は呼吸をするように
離れて行きます
しかしあなたは
何かあなたも
呼吸の中に
吸って吐いて
さっきとは違う空気の中で
あなたは息をしているのです
事柄は
事柄で
それに
何か感情をうむとき
あなたにこの考えが採用されたなら
使われたとしたら
これを思い出してください
なにもない世界ではなにもないんです
そう私から見れば
なにもない私から見れば
愛の中にいるあなたは
当然
愛おしいのです
でもその私からもっともっと遠くなれば
その私も見えなくなります
そう
地球に落とされた隕石のような
宝物のあなたが抱く感情は
すべてある
それは
ないものから生まれた創造物です
物(ぶつ)という世界が地球です
楽しんで