豊かになるには、働く・交換する・貰う・奪うの四つの方法しか無い | 古典的自由主義者のささやき

古典的自由主義者のささやき

経済の問題は、一見複雑で難しそうに見えますが、このブログでは、経済学の予備知識を用いずに、日常の身の回りの体験から出発して経済のからくりを理解することを目指します。

今回は、人が豊かになるためにはどういう方法があるのか考えてみましょう。また、どの方法を使えば皆んなが一番豊かになれるのか、そして、どの方法を使うことで「公正な社会」に近づくことが出来るのかを考えてみます。

ロビンソンクルーソーのように無人島にたった一人流れ着いた人が、より多くの食べ物や衣類、そして、より風雨に強い住居を得ようとすると、自分でより多くの食料を確保し、自分でより多くの衣類を作り、自分で住居を補強するしかありません。だからこの場合は、豊かになるためには自分がより長時間働くというのが唯一の方法です。人間の身の回りに直ぐに食べられるものや衣服、住居が転がってない以上、人間が自分の頭脳と手足を使って自然に働きかけるしか生存に必要なものを確保するしかありません。人間が働かなければならないという現実は社会がどんなに豊かになっても変わることはありません。

ロビンソンクルーソーが海で魚を獲って食料にしていたとすると、手づかみではなく、釣りの道具や網を作ることで、同じ労働力当たりより多くの魚を獲ることが出来ます。しかし、釣り道具や魚網を作っているあいだ魚を獲ることは出来ないので、あらかじめ余分の魚を獲って蓄えておく必要があります。余分の魚をあらかじめ獲っておくためには、釣り道具や魚網を作らないで済ませていた時よりも長時間働かなければなりません。

手づかみでは日々日々食べる以上の魚が仲々獲れなくて釣り道具や魚網が作れないでいるロビンソンクルソーの元に、もう一人の人間が現われました。見知らぬこの人は十日分の食料に相当する干し魚三十匹を差し出して「これを食って網を作りなさい。その代わり、十日後に網が出来た後は、あんたが獲った魚から毎日三匹を俺に分けてくれればよい。そしてそれを二十日間続けてくれ」と言いました。遭難直前まで漁をしていたロビンソンクルーソーは、十日で作ることが出来る地引き網の大きさや付近の砂浜に棲息する魚の量を頭の中で計算した後、この申し出に同意しました。

ロビンソンクルーソーは計算したとおり、椰子の実の繊維を使って十日間で地引き網作り、それによって一日に十匹の漁獲を得ることができるようになりました。自分が食べる分の三匹、魚の蓄えを貸してくれた人への三匹を差し引いても毎日四匹の魚が余ります。最初の数日は一日に7匹づつの魚三昧の生活をしていたロビンソンクルーソーも、魚ばかりの食生活に飽きてきました。一日に食べる魚は三匹にとどめて残りの四匹を干物にするのですが、干物は日が経つと油焼けして何時までも保存できるわけではありません。

ロビンソンクルーソーが余った干物をもてあましていると、毎日三匹の魚を受け取りに来る魚貸し業の男が「魚が余っているなら俺が買おう。魚の代りに野草や果物を持ってきてやるがどうだ?ナイフなんかもあるぞ」と言います。詳しく話を聞いてみると、最初は無人島だと思っていたこの島の反対側には、他にも数人の人間が生活しているようです。ロビンソンクルーソーは、自分ひとりでは食べきれない魚を交換することで、自分の食生活を豊かにし、さらにはナイフまで手に入れて魚網作りや干物作りも随分はかどるようになりました。人との交換を通じてロビンソンクルーソーの生活は豊かになったのですが、豊かになったのはロビンソンクルーソーだけではありません。島の反対側に住む人たちも自分たちだけでは消費しきれない野草や果物を魚と交換することで豊かになっています。また、魚貸し業の男も「商品の運賃」として毎日魚を一匹余分に自分のものにしています。お互いが自発的に合意した交換によって島に住む全ての人が恩恵を受けたのです。

夜、自分の住居で寝ながらロビンソンクルーソーは考えました。島の反対側に住んでいるのはどんな人たちだろうか。この島に漂着して以来、盗みに遭ったことはないから悪い人たちではないだろうが、今度様子を見てみよう。

次の日、ロビンソンクルーソーは、いつものように魚を受け取りに来た男に付いて、島の反対側に行ってみました。聞いた通り、数人が小さな集落を作って住んでいます。友好の印としてロビンソンクルーソーが差し出した魚の干物を皆んな喜んで受け取りました。この人たちの中には実は今十分な数の干物の蓄えがある人もいたのですが、友好の印であるクルーソーの贈り物に対してケチをつける人はいません。干物を貰った人たちは、それぞれお返しに野草や果物や椰子の繊維で作ったロープなどをロビンソンクルーソーに差し出しました。実はロビンソンクルソーにしても、今欲しいのは釣り針に使える針金か細い骨のようなものなのですが、返礼の品物は丁寧な礼を言って受け取りました。ロビンソンクルーソーは、贈り物の交換では必ずしも自分の必要なものを受け取ることは出来ないことを痛感しますが、それでも、島の反対側の人たちと友好関係を築くためには必要な出費だと自分を納得させました。

幸いこの島には人の住居に忍び込んで空き巣を働いたり、ナイフを突きつけて人から物を奪ったりする人はいません。しかし、空き巣や強盗をはたらくという方法をとれば、人が労働によって得たものを奪い、そして奪ったものをタダで享受することが出来ます。

元々は漁師だったロビンソンクルーソーは、網の作り方、網の扱い方、また干物の作り方に習熟しています。だから、作った干物の交換を通じて、自分の生活を豊かにすることが出来ます。ところが、魚を獲るということに慣れていない島の他の住人は交換できる物の量も限られているので、ロビンソンクルーソーほど魚や野草や果物を手に入れることが出来ません。そのうちに、島の住人の何人かが、人よりも多くの食べ物を享受できるロビンソンクルーソーを「ずるい」と言い出しました。

島の住民の不平を耳にしたロビンソンクルソーは考えました。自分が汗水たらして働いて得た魚をタダで差し出すのは惜しいけれど、それでも自分が野草や果物を得られるのは島の住民がいるお陰です。それに住民の中には、体が弱くて野草を摘んでも人ほど採れない人が一人います。確かにこの人は気の毒です。そこまで考えたロビンソンクルーソーは、その体の弱い人に自分の魚を毎日一匹づつ進呈することにしました。

それでもロビンソンクルーソーのことをずるいと言っていた人の不平は収まりません。体が弱い人だけではなく、自分たちにも魚を一匹ずつよこせと言い出しました。島の住民の多数決によって、ロビンソンクルーソーは島の住民全員に魚を毎日一匹ずつ差し出さなければならないということが決められました。ロビンソンクルーソーはこの要求を断固拒否したのですが多数決に賛成した島民は彼のことを「利己的で強欲である」と断罪しました。ある日漁から自宅に帰って来ると、棍棒やナイフで武装した住民が待ち構えていて、「島民の総意」を受け入れるように脅します。腕っ節に自信のあるロビンソンクルーソーですが、たった一人では多数にかないません。仕方なく、多数決で決まった島民の要求を受け入れました。

ロビンソンクルーソーの島の話はこれでお終いです。ここで、まず、人が豊かになるための方法を整理してみましょう。ロビンソンクルーソーの体験で分かるように、人が豊かになるためには、

1.より長時間働く
2.働いて得たものを人と交換する
3.人から贈り物を貰う
4.人から物を奪う

という四通りの方法があります。この四つの方法の中で、ロビンソンクルーだけでなく社会の構成員皆んなが豊かになるのは、「働いて得たものを交換する」という方法です。自分ひとりで働いているだけでは、自分が消費出来るより多い量を生産しても無駄になるだけなので、達成できる豊かさには限度があります。贈り物という手段は、既に生産されたものの持ち主が変わるだけです。社会全体が豊かになるわけではありません。強奪も今あるものの持ち主が変わるだけだし、また強奪が続くならば、強奪され続ける人は奪われることが分かっているものを汗水流してまで生産しません。いやいや働いていては生産が増えません。

太古の昔から人間は自分が働いて得たものを自分が欲しいものと交換してきました。特定の場所でしか見つからない鉱物で作られた矢尻や刃物が遠く離れた地域でも広く見つかるのは、矢尻や刃物が人から人へ交換されていったからでしょう。それに、この鉱物で作られた矢尻や刃物が便利であるならば、この鉱物を切り出して加工している人たちは、知らず知らずのうちに、自分が会ったこともない多くの人たちの生活を豊かにし便利にもしていることになります。交換を通じて知らない人同士が協力し助け合っているのです。交換によって自分だけでなく見知らぬ人まで豊かにできる動物である人間の呼び名として Homo tradus、つまり「交換する人」がふさわしいと私は思います。

次に上に上げた四つの方法を、「公正か」「公正でないか」という基準で分けてみましょう。「人から物を奪う」という方法は、奪われる人の意思を踏みにじることで奪う人が得をします。したがって、「人から物を力で奪う」のは公正ではありません。人から物を奪うという行為は、それがたとえ「単なる強欲」から発しようが、「ロビンソンクルーソーだけずるい」と思う妬みから来ようが、「生産物は社会の構成員に平等に分配されるべきだ」という公平を装った多数決の決定に基づこうが、奪われる人の意思が踏みにじられる限り、強奪は強奪であって公正な行いでは決してありません。妬みと正義感は異なります。妬みに任せて人を強奪することを許す社会は、公正明大な社会ではないのです。

また、ロビンソンクルーソーがたとえ自分が消費できる食べ物を増やそうという利己的な目的のために漁業を行っていても、だからといって彼の意思を踏みにじって彼から物を奪うことが正しい行為にはなりません。たとえロビンソンクルーソーが他の島民よりも多くの食料を享受出来ていたとしても、彼は他の人たちとの合意に基づいて野草や果物を正当に得ています。ロビンソンクルーソーは誰か他の人の意思を踏みにじって自分の取り分を増やしてはいません。野草や果物を売る人だって利己的な目的のために交換に従事しているし、自己の利益を考えながら他の人との合意に基づいて商売をすることは不正な行いでは決してありません。

「より長く働く」、「交換する」、「贈り物を受け取る」という他の三つの方法は誰の意思も踏みにじっていないので全て公正だとみなすことが出来ます。贈り物に関しては、物を受け取る人が必ずしもそれを必要としていないという問題はありますが、それでも、贈り物をする人の意思が蹂躙されているわけではありません。自腹を切って贈り物をする人たちは、相手を喜ばせるのが目的なので、実際の社会にはこの問題を緩和する様々な工夫が存在します。例えば、日本ではお年玉には品物ではなく何でも好きなものが買えるお金を子供に贈るとか、米国では結婚する二人が新居で必要なものをあらかじめ指定店に登録しておいて、お祝いの品を送りたい人は二人が登録した品物の中から購入して贈り物をするという具合です。

人に物を贈るという行為が公正でなくなるのは、政府が行う「金持ちから貧しい人への所得の再分配」や政府間の協力・援助のように、援助を施す政府・役人が自分の自腹を切るのではなく、国民から税として奪った金を使って施しを行っている場合です。人から奪った金を与える際に、あたかも自分が自腹を切って施しをしているかのような大きな顔をしている政府・役人を時折見かけますが、政府・役人の行う生活援助や国際協力は実は略奪品の再分配であって、人が人へ善意でもって贈り物をする行為ではありません。それに、生活援助にしても国際協力にしても、貧しい人への施しという名目で奪われたものが貧しい人に届かないうちに消え去るという不正が多々起っています。

強奪によって得たものの分配を正当化する社会は、略奪される人々の生産意欲を削ぐだけでなく、略奪者をのさばらせ、略奪という不正な行為を奨励します。多勢に無勢を良いことに略奪者を扇動し、そのおこぼれに与かろうというのは、「平等」や「公平」という言葉を持ち出しても、浅ましい不正な行為であることに変わりはありません。社会の不正を正そうと思うならば、怒りは強奪者や分捕り品の分け前を受け取っている人たちに向けられるべきであって、略奪を受けている被害者を利己的だ、営利的だ、商業的だと呼んで糾弾するのはお門違いです。社会の恵まれない人を助けたいと思うなら、まず自分が自腹を切ってその人たちを助けるべきです。また、拳銃や刑務所の脅迫に後押しされた多数派の強制に頼らないで、恵まれない人たちを助けることの大切さを恵まれた人たちに説得するよう努力すべきです。

自分の獲った魚を無理やり供出させられているロビンソンクルーソーは、早くこの島から脱出したいと思っていることでしょう。実は既に脱出を図ったけれど他の住民に取り押さえられたのかもしれません。社会の中に強奪を受け続けている人たちがたとえ少数でもいるとすれば、その社会はその人たちを抑圧している不正な社会です。

(今回のコラムはロビンソンクルーソーのお話を勝手に改変しました。)



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