こんにちは。

 本日も創作短編小説でお楽しみいただければ幸いです。

 今回はちょいと本格的歴史小説っぽく小難しく書いてしまいました。

 以前住んでいた所の近くに小牧長久手の古戦場と名馬磨墨の墓がありました。

 それをミックスしたストーリーです。

 

 

 牛さん創作短編小説劇場 第十幕 鬼と馬

 

        ***
 夜はどっぷりと更けている。時折、重苦しい静寂の中へ、篝火の木が爆ぜて金の粉を盛大に辺りに降り撒いている。春まだ浅き三月十六日の事、夜気はいまだ身震いする様な寒さでもあるが、軍議なれば、白きもやる吐息とは逆に、鉄の下の肌にも自然彼等の熱を帯びてきている。
「さて、狸と狐がどう動くかじゃが……」
 狸とは言わずと知れた徳川家康。狐とは、この戦の発端を開いた織田信雄を指す。羽柴秀吉と徳川家康、東西の両雄は覇権の頂を求め争い、尾張西北部において静かな睨み合いを続けていた。とはいえ秀吉は未だ大坂にあって、ここ羽黒八幡林に布陣した森長可(もり ながよし)は、いささか功を焦っていた。自分達が、援軍池田恒興のこもる犬山城から遠く孤立している事に酷く関心が薄い。長可は赤子が癇癪を起こしそうになるだろう赤黒く角ばり猛った面を、長考に醜く歪めたのはつまり作戦が手詰まりになっている事を、その深く刻まれた縦皺にくっきりと窺わせた。
「狐はともかくも、狸の方にはご用心を。三河武士を侮ってはいけません」
 とんとん。森長可の直ぐ隣に座した六尺余の大男は凛と取り澄まして机上の地図の、小牧山と書かれた場所をゆるり指し示す。そこは家康の本陣。
「かっかっかっ、なんの、三方が原の戦を忘れたか? あの狸、正面きっての戦には余程不慣れと見える。山にこもって出てこぬわ」
 三方が原の戦は徳川家康にとって生涯において恥辱極まる戦いであったに違いない。京に進軍する武田信玄に完膚なきまでに打ちのめされたのであるから。また、その敗戦は一方で家康を成長させたと見るべきであろう。それ以後の彼の戦術はそれ以前の猪突猛進だけが取り柄のではなく、憎いほど巧みであり狡猾である。しかし森長可は単純に、かつての家康の戦術の幼稚さのみを磊落に笑い飛ばし、家臣の進言をいっかな相手にしない。それを大男は刺す様なギョロ目で制し、
「ですからこそ、どんな卑劣な攻めをしてくるやもしれません」
 と主君をたしなめたのだった。彼の名は野呂助左衛門(のろ すけざえもん)。長可の側近中の側近で、鬼武蔵と謳われた森長可と幾度も死地をかいくぐってきたつわもので、鬼の横にまた鬼あり、とは敵味方を問わずに彼の武勲を称える言葉である。であれば、彼もまた鬼の様な怖い形相であると想像しがちであろうけれども、その実助左衛門の筋肉質の強固なる体躯とは裏腹に、彼の面差しはどこか優しげでもあったし、とりわけ両の瞳は大きくて円らで女性的ですらあったから、こと戦場でなければ彼は乙女から遊び女に至るまでよくもてて、言い寄られる事も少なくはないほどであった。事実助左衛門は妻を娶り男の子をなして、その男の子はこの戦に同道していたのである。男の子の名前は助三郎という。


 さて、長々し軍議が是々非々まとまらぬまま終わって、他の武将達が疲れた身体を陣幕の外に追い出した後、腕組み姿の長可と、家臣で一人居残っていた助左衛門は、苛立ちを隠せぬ主を癒すつもりかどうか、敢えて惚けた口調で言い放った。
「そうそう、そう言えば、この辺りに磨墨塚なる石の碑がございまして」
 まるで予定になかったかの様な呟きが、氷の粒を散りばめた夜空に向かって呑気に投げかけられた。受け止めるものはそこには誰もいないというのに。
「す、磨墨とは、まさか宇治川の先陣争いの、あの磨墨か?」
 仏頂面を急に和らげて、長可は子供の様に興味津々に尋ね返す。磨墨とは馬の名前で、平安時代、源義仲軍と義経軍の戦闘の折に、梶原景季が渡河する際乗馬していた事であまりにも有名であった。名馬磨墨。それは馬を足として戦場を駆る武士にとっては尊敬と崇拝に似た感情を抱かせる響きなのだろう。馬は単なる道具ではない。乗馬する者の命を委ねる、否、もののふの命そのものなのだ。だからこそ彼等は馬を大切に扱い、愛し、尊敬すら捧げるのだったが、加えて、単なる名馬ではない。歴史の中に燦然と名を称えられる存在なのだから、長可が助左衛門の語りに思わず伍するのも無理はない。
「はい、あの磨墨にございます。羽黒砦の傍に梶原屋敷という屋敷がございまして、土地の者の言いまするには、何でも、梶原景時の末裔にあたる者達が住んでおるそうにございます。その様な縁があって、かの馬もこの地に落ち延びてきたものと思われます。しかし、いささか塚の周りが荒れはて草生しておりまして、それがし、不憫に思い、下の者に命じて草取りと、その辺りを掃き清めさせました次第」
 助左衛門はにこり相好を崩す。彼が一度怒れば魔物も逃げ出し、彼の微笑みは鬼をも溶かす。
「うむ、それは良い。殊勝な心掛けじゃて。さぞや磨墨も喜んだ事であろう」
 森長可は膝を叩いて、何度も何度も諄々と頷いた。
「さのみでもありません。それより、殿にはそれがしが無くなった後の供養などよろしくお願いいたしますぞ。野晒しとなりし暁には、この助左衛門、毎夜化けて枕元に参上して候」
 と助左衛門は幽霊の真似をして胸の前に両手を垂らし、精一杯おどけてみせた。
「かっかっかっ。ぬかすな、助左。うぬが死ぬる時が来よう筈無いわ。死神の方で御免こうむると申すであろうよ。かっかっかっ」
 長可は腹を抱えて笑った。戦においては余裕や油断はしばしば命取りとなる。けれども、あまりに過剰な緊張状態も宜しくはない。してやったり。助左衛門はたたみかける。
「これはしたり。この助左衛門とて何時かは戦場の可憐な露草となりましょうぞ」
「可憐な、露草、ときたか? かっかっかっ。よいよい。おい、誰か、酒を持てぇっ」
 長可は上機嫌で手を打ち鳴らした。助左衛門は戦場における家来としても、また友としても長可には欠くべからざる存在であったのだろう。
 それから鬼と鬼は童と童に戻り昔語りをし、酒を運ばせて、戦乱のひと時を無邪気に笑い合った。星と月もいささか平穏に過ぎたまま世界をゆったりと飲み込んでいた。戦乱の世は時間を速める効果があるらしい。森長可も野呂助左衛門も髪に白い物が多く混じっていた。その白い物は、彼等にとって老いを表す色ではなく、力そのものである。彼等をしてそれまで命を全うさせてきた証なのであるからして、月光に輝いてさも美しい。


 さて本陣を辞した助左衛門は、月明かりの中、そこかしこに草枕する鎧支度の武者達を労いつつ歩く。心優しき男でもあった。
「父上っ」
 助三朗は赤ら顔の父親を呼び止めた。
「どうした? なんぞあったのか?」
 息子の瞳は父親譲りで、きらきらと子猫を思わせる愛くるしさで視線の先を父に合わせている。背丈は未だ父には及ばないが、二の腕や手首の太さなどは父を凌ぎつつある。
「はい、先刻以来、妙な火が遠くに見え隠れしております。あるいは敵が潜んでいるのかもしれません」
 助三郎は冗談を好まない性格である。そして物事を悪い方に常考える癖がないでもない。
「火、とな? ふむ、少し気をまわしすぎだ。もし敵ならば、その様な迂闊な真似をすまいて。どこぞの百姓家の灯が漏れておるのではないのか?」
 助左衛門はほろ酔い加減の油断ではなく、実際そう感じた。夜間においては、蝋燭一本の明かりが自らの所在を遥か彼方にまで知らしめる事になるから、敵がそんな失態を故意に犯す訳がなかった。
「とにかく、一度ご覧になってみてください」
 息子は手招いて父を先導して進む。仕方なく助左衛門も不承不承付き従うのだが、せいぜい百姓の若者達の逢引か子供の戯れに使われた灯であろうと高を括っているので、ふらふらよろよろと甚だ緊張感に乏しい足取りだった。実際彼は何度かつまづいて、息子はその都度まだ戦に不慣れな柔らかな手を差し伸べた。触れる父の手の平は石のままに硬く冷たかった。


「おや?」
 助左衛門は、陣を取巻く雑木林を割いて延びる道の遥か向こうに、青白き炎の揺らめくを認めた。炎はそれ自体一つの命であるかの如く縦横に華麗に敏捷に舞い踊り、それが人の手による松明の灯りでないだろう事も容易に計り知れた。
「はてさて面妖な。あれが狐火というものか?」
 助左衛門の酔いは一気に吹き飛んでいた。
「誰かに命じて物見をさせましょうか?」
 助三郎のくりくりと純真な黒目が落ち着いていない。
「いや、わしが行って直に見てまいろう。なぁに心配するな。万が一、敵方の先鋒だったとしてすぐさま蹴散らしてくれるわ」
 一騎当千、父親の剛勇譚は十二分に存じているものの、息子は一人しかいない父親の、やはり一人のか弱い息子でしかないのだ。
「心配はいたしませぬ。父上のお強いのはよく知っておりますゆえ。されど御酒を召していらっしゃいますことですし、夜目の利く者を連れていらっしゃった方が無難かと……」
 ややうろたえる助三郎。
「くどい。大事無いと申すのがわからぬか?お前はさっさと寝ておれば良い。わかったな? よし」
  息子が止めるのを宥めすかして、助左衛門はその方向に足を踏み出した。


  人生五十年の御世にあって、助左衛門はその大半を費やしてなお子供であった。男はいくつになっても本当の意味での大人にはなりきれないかの如く、この探索はほんの些細な好奇心だった。田の土を撥ね畑の畝を飛び小川を跨ぎ、四半里も追ったであろうか?突然その火は視界から消え失せた。助左衛門は恐ろしく音の無い竹林の中にあって、冷えた夜風だけが彼の頬を切る様に洗ってゆく。
「やはり狐か狸か?」
  頬を手酷く抓る助左衛門。
「さて、何が出てくるのか楽しみじゃ」
 彼は右手の平に唾を盛大に吹き飛ばした。
「やっ?」
  その時、不意に眼前に、一双の屏風を繋げたくらいの地獄絵が浮かび上がった。絵は現実の様に精緻な描写で、しかも連続して動いている。
「こ、これは?」
 倒れ伏した鎧武者の首をかき切っている若武者の、臭ってくるかの如く生々しい荒ぶる姿だった。その絵が宙に浮かんでいなければ、助左衛門は本能的にその若武者に切りかかっていったに違いないのだが、さて、若武者が誇らしげに持ち上げたその首品は、何と助左衛門の顔。しかもまだ苦しげに呻いているではないか。
「な、何だこれは? わしは夢を見ておるのか?」
 助左衛門は身構えながら二三歩退く。
「それは、そなたの明日のお姿です」
 声とは呼べない。それは念であった。きんきんと頭の中に直接響いてきて煩い。
「何奴っ!」
  刀の柄に手をかけ振り返る助左衛門は裸馬を見る。全身が青白く燃えている。
「馬か? お主が喋っておるのか?この絵は一体何だ? 何の真似だ?」
 罵りながらも助左衛門は目を見張った。彼は、かつてこれ程精悍な駿馬を見たことが無い。妖怪か、亡霊か、何れにしてもこの世の正しい姿ではあるまいが、あるいは捕らえて自分の持ち馬にしてしまいたいとも思うほど、素晴らしい筋骨隆々たる姿だった。
「先刻は塚の周りを綺麗にしていただいて、かたじけなく思います」
 見惚れる助左衛門に対し、人語を解す馬はそっと眼を閉じて、甚だ丁寧に頭を下げた。それで助左衛門は全てを理解した。この馬の正体は……。
「迷うてか? 磨墨。さっさと成仏せい」
 助左衛門が大きな手のひらをかち合わせて、裏憶えの念仏を誦す。無論恐ろしいからではない。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。
「ささやかなれど、御礼にと思い図り、この様な絵をお見せいたしました。もしもそなたがここに明日までお留まりになれば、この様な最期をお迎えになるでしょう。今すぐこの羽黒の地を立ち去りなさい」
 磨墨は文字通り馬の耳に念仏で、涼しい顔を助左衛門に返している。助左衛門はしかし、豪快にその忠言を笑い飛ばした。
「わしが死ぬる? 明日? うっははははは、磨墨よ、野呂助左衛門を知らぬか? 知らぬなら見よ」
  助左衛門は抜刀するやいなや周辺の竹を稲妻もかくやと早業で打ち払う。もっとも、これは彼にとって造作もなさ過ぎた。大石があれば大石を斬ったやもしれない怪力無双なのだ。そして一段と声を高める。
「ははは、磨墨、要らぬ心配じゃ。たとえその夢の通りだったとして、わしが、あの青二才にそっ首をとられるとして、戦場で死ぬるは武士の誉れ。そうは思わぬか? うっははははは」
 それを聞いて磨墨は鼻をぶるると鳴らした。馬は笑うというが、もしそれがそうならば、実に悲しそうな笑いであったろう。
「是非もありません。もう何も申しますまい」
 言うや否や、磨墨の霊は助左衛門のたった一度の瞬きの間に、ふいと闇に溶けてしまった。なるほど、彼は昼間見覚えた磨墨の石碑の真前に立ち竦んでいた。


「如何でした、父上。あの火は一体?」
 陣に帰る途中で助左衛門は息子にばったりと出会った。やはり不安になって様子を見にそこらを歩いていたのであろう。
「たわけめ。陣を離れてうろつきおって、しょうのない奴だ。わしは何ともない。さっさと寝ろっ」
 言葉は厳しいが表情はそうでもない。そうして、
「あの火は、物の怪であった」
 と続けた。
「物の怪? 狐ですか、それとも狸?」
 息子はそうした類の話にわくわくしてくる、そんな年頃なのだろう。どこか楽しげでもある。
「狐でもなければ狸でもない。馬だ」
 助左衛門は息子の背に優しく手を回しながら、先刻の話を語らった。ただし、自分が明日死ぬであろうという予言は敢えて口にしなかったが。
「磨墨が、そうですか。昼間の御礼を言いたかったのですね。そうですか。それにしても、わたしも見たかったなぁ、名馬磨墨の姿を」
 息子は軽く嘆息した。戦場にはまだ似つかわしくない、頑是無いと言って適当な幼い顔が黒い地面をしょんぼりと見た。
「助三郎、お前、死ぬのは怖いか?」
 自分でもそう意識せぬままに、助左衛門の唇が蠢いていた。
「父上は?」
 質問に質問で聞き返す息子に父親は当惑した。そして愚かな問いかけをした自身を呪った。あるか無しかの舌打ち。
「わしが運良く生き延びてこられたのは、決してわしが強かったからではないぞ」
 助左衛門は真剣に見つめ返す息子の目線を真摯に受け止めた。
「では何故でございますか?」
 息子はその理由が知りたくて仕方がない。明日戦が始まるかもしれないのだから。
「誰よりも冷静であることだ。眼前の敵が自分よりも強いか弱いか見極める能力も必要だ。時には、退くことだって卑怯とばかりは言えまい」
 父親は息子の事を気遣っている。手柄を立てる事に夢中で死んでいった多くの同輩達を数多く見てきたのであるからして。
「父上の様にお強い人でも退こうと思われた事があるのですか?」
 息子は父親を尊敬している。父より強い人間がいるとはとても信じられなかった。
「そりゃある。いや、むしろ、いつもそう思う。相手も死に物狂いだからな。だが、戦うにしても退くにしても絶対に死にたくないと思ってはいかん。恐れてはいかんのだ。戦場で生き残りたいなら、それだけは守れ」
「はい」
 と大きく頷いて、息子は甚だ自信が持てなかった。父はあまりに偉大である。肩に圧し掛かる父親の腕の重みはそのまま精神の重圧である。反面息子は頼もしくもあり嬉しくもあった。父子揃って戦場にいられる幸せが、間近に迫る死の恐怖を払拭してくれていたのであろう。


       ***
 荒ぶる男達の鼾の音だけが夜を領していた。地の底より染み出してくる冷たさも適度の酒が入ったせいもあり、もとより野営も厭わぬ武人達であればさして就寝に大事は無い。ただし助左衛門はどうしても寝付かれなかった。体の底から震えが襲ってきて寒い。歯噛みが止まらない。誰が信じようが信じまいが、彼は初めて死の恐怖と戦っていたのだった。これまでどれだけ戦場の屍を越えてきた事か知れないが、耳元で囁く死神の声を恐れた事は一度として無かっただろう。それは彼があまりにも強すぎたが故、生き残るのに必死だったが故だが、こうして死の宣告をされてしまうと状況は一変してしまう。
「いやだ、死にたくはないっ」
 気が付くと彼は起き上がり、駆け出していた。陣の見張りの男達も、まさか強力無双の助左衛門が敵前逃亡するとも思わず黙過する。きっとはばかりにでも行くんだろうさ、くらいの気楽さで。


 月は群雲に隠れて、墨を流した黒色の中を彼は駆けに駆けた。どこを走っているものやら足元に感触が少ない。一つしか無い心臓が二つにも三つにも感じられて、悉く今にも口から飛び出しそうだった。殺生を生業とする武将にとって死後の世界は特に意味を持たない。助左衛門は、戦の無い極楽よりも地獄の方が楽しそうだ、などと不謹慎に考えたり吹聴もしていたが、ここへきて彼の脳裡には畏怖、焦燥、後悔、懺悔がべったりと貼りついている。彼は半狂乱で吠える。あるいは、自らが手に掛けてきた亡者達がそこここに見えるかの様であり、すまぬ、許せ、と大声で詫びた。そして、また一心に駆ける。


  半時も走っただろうか?真後ろから突如喚声が、どうと沸き上がった。助左衛門は汗びっしょりで、血走った目で振り返る。
「敵襲か?」
 自分が逃げてきたその場所の方角から、どろどろと死の臭いと不気味な音が這う様に漂ってきて、眩暈と嘔吐をすら覚える。主君森長可と愛息の顔が前頭葉を過ぎる。夜討ちの懸念も無くは無かったが、膠着状態が長かった故に油断が生まれた。まさか今夜に限って。助左衛門は生まれて初めての死の恐怖にすくみあがっていた。磨墨は言った。自分が羽黒にとどまれば死が待っていると。自分はあの絵の若造に首をかっ切られて死ぬのだと。
「いやだ、戦はもう嫌だ」
  乙女の如く顔を両手で覆い、野呂助左衛門は、腰からその場にくずおれるのだった。


「おのれぇっ、こしゃくな虫けらどもっ」
 徳川軍は夜陰に乗じて密かに羽黒八幡林に五千の兵を進めていたのだった。未明に急襲を受けた森長可軍はひとたまりもなく総崩れとなった。退きながら、それでも流石は鬼武蔵である。長可は追いすがる雑兵を右に左に薙ぎ倒している。だが多勢に無勢。何時しか彼は、恩賞首に殺気立つ足軽兵の槍に囲まれてしまっていた。
「糞っ!」
 如何な鬼武蔵でも、一度に槍で突かれたらもう避けようがない。もはやこれまでか、さしもの長可も観念した。胸元に延びる槍先をせめて二度三度打ち払うも、足元の何かに体勢を崩し転んでしまう。その彼の胸に必殺の一撃が突き刺さる……筈であった。だがそうはならなかった。長可を取り囲んでいた円陣は一瞬にして前に後ろに打ち倒れたのである。
「おお、助左」
 返り血で真っ赤に染まった野呂助左衛門がおっとり刀で立ち尽くしている。
「遅参いたしました。殿、一先ず犬山城まで退却なさりませ。それまで、それがし敵を防いでおりますれば」
 そう話している間にも敵は槍を刀を手に手に突進してくるのだが、それをあたかも蠅でも払うかの様に、無表情に軽々と助左衛門は切り捨ててゆく。具足を纏った雑兵達が、白豆腐の柔らかさで次々と刻まれてゆく。優雅とすら形容しえる太刀捌きである。
「すまぬ。任せたぞ。死ぬな、助左。きっと戻ってまいれ」
「必ず」
 助左衛門の返事は森長可にはおそらく届かなかっただろう。互いは互いに背を向けて、その距離は三つ数える間にみるみると広がっていったから。


 野呂助左衛門はあまりに強かった。だがそれ以上に徳川軍は数が多かった。鉄を肉を何度か裂くと刀身はボロボロになる。その都度彼は死んだ兵から武器をもぎ取っては戦った。戦いながら彼はある事実に気付いた。自らの背中から敵は攻撃してこない。それを不思議に思うと、後ろに凍える様な気配を常に感じる。見れば磨墨である。磨墨は満身に矢を刀傷を受けているけれども、もとより、この世のものでないので平然として助左衛門の背後を守ってくれているのだった。
「磨墨、何用じゃ? わしともう一度死ぬる心算か?」
 助左衛門はさも愉快そうに尋ねた。
「さあこれが最後です、背中にお乗りなさい。逃げるのです。間もなく夜が明けます。さすれば我が身は消えてしまうでしょう」
 追い立てる様に磨墨は激しく嘶いた。
「助太刀無用」
 そう鈍重に怒鳴ると、野呂助左衛門はまた一人眼前の武者の兜を叩き割った。勢いで武者の体は真っ二つに上から下まで裂けた。
「磨墨よ、我が愚息を知らぬか?」
 助左衛門はどうでも良いかの口調で訊いた。
「それは……、わかりかねます」
 磨墨の返答に助左衛門は、そうか、とただ首を縦に振った。
  森長可が去ってから随分と時間は経っていたから、助左衛門がその場に留まって戦う意味は薄らいでいようし、磨墨の助力を請うまでもなく、彼一人逃げ延びるのは造作もないだろう。が、彼は頑ななまでに、剣を振るう事に没頭していた。彼をそうさせしめるのは、姑息な徳川軍憎し、の想いばかりではない。
「正直申せば……、正直申せば……」
 正直申せば、その言葉の後に続く何かを助左衛門は躊躇した。もののふには死しても守らねばならないものが二つある。一つは言うまでも無く主君。もう一つは主君以上に大切なもの。そうだ、磨墨が磨墨である様に、助左衛門が助左衛門である様に。
「正直申せば、何です?」
 磨墨は後ろ足で敵兵を蹴り上げた。蹴り上げられた男は即死したまま敵の一群に降り落ちていった。
「何でもない。行けっ」
 助左衛門は磨墨の逞しい尻をぱんと叩いた。そして空笑い。そこにかつて彼に存在していた怯懦は微塵も無い。更に言えば主君森長可と息子の安否すら念頭からとうに失せていた。
「わたしがそうであったように、そなたもきっとそうなのでしょう」
 磨墨は黎明迫る薄闇に、その未練の残滓を魂の姿に変えた。その微かな炎は天に向けてみるみる昇天してゆく。助左衛門はそれを目の端に見届けて後、彼の銀の煌きをまた忙しく斜めに横に走らせる。刹那、二三の首が宙に舞って、頭を無くした胴体が大量の血を飛沫かせながらまだ歩いている。


 磨墨塚並びに野呂助左衛門父子戦没供養碑
 名鉄羽黒駅下車徒歩十分


           了