こんにちは。

 本日も創作短編小説でお楽しみいただけたら幸いです。

 

 牛さん創作短編小説劇場

   第八幕 やまんば

 

 与八郎は女房の静との情を交わし終えて、のんびりと傍で寝ている赤子のお頭(おつむ)を撫でた。明り取りの窓から煌々と満月の光の矢が差し込んで静の美しい顔を際立たせている。
「いつ見ても美しい」
「まぁ、お上手ばかり」
「お上手ではない。こんな見目麗しい女がわしの妻とは、いまだ信じがたい」
 静は与八郎が山で猟をしている時に峠道で偶然出会ったのであった。出会ったとは語弊がある。気を失って倒れていた彼女を自宅に連れて帰り養生させていたのであったが、そのまま居ついて妻の座に落ち着いたのである。二人の間に赤子が一人。まだほんの乳飲み子であるから、立つことも出来なければ言葉も話せない。
「お前はおそらく身分ある侍のお姫さまか何かだったのではないのか?」
「まさか。近隣の百姓娘でございました。もう何度もお話しましたでしょう? 頼るべき親類もおらぬゆえに年貢が払えず村を抜け出して山道を彷徨っておりましたところ、あなたに助けられたと」
「わかっておる。それにたとえお前が鬼か蛇であったとしても、わしはかまわん。惚れておるからな」
 与八郎が静の鼻の頭を突くと彼女は蛙の腹の如くむくれた。
「鬼か蛇とはあまりに酷いお言葉」
「許せ。ほんの冗談じゃ」
「許しません」
「許せ。そう言うわしも、どこの馬の骨ともわからぬ男じゃから」
 与八郎には母がいない。与八郎の父親が山に捨てられていた彼を不憫に思い拾い育てたのであったが、その父親は一昨年流行病で亡くなっている。
 二人は汗ばんだ体を再び縺れ合わせる。途中、与八郎の肘鉄と静の尻が赤子のどこかを打ったが、すやすやと泥の様に眠ってしまっていて起きなかった。

       *

 与八郎は毎朝ひげを剃る。鏡に映し出される自分を見るのが好きな性分なのかもしれない。実際もうすぐ四十路というのに若々しい。
「あなた、山へ猟にいかれるのですか?」
「うん、田の草取りも一段落ついたし、お天気もいいしな」
 与八郎今度は鉄砲の手入れに余念がない。多くの時代劇では鉄砲を所持している百姓を描いていないが、実際は鉄砲の使用を許されていた。害獣駆除のためにである。そして仏教徒で肉食をしない江戸時代の人々という印象が強いが、実はそうでもない。とりわけ肉体労働者の百姓は。
「くどいようですが、本宮山には行かないでくださいね。あそこは禁猟地ですから」
「わかっている。大丈夫、尾張富士の辺りにも十分獣はいるからな」
 羽黒村から歩いて北に二里、二つの山が並んで聳えていて、その昔互いに背比べをしたという伝説がある。

       *

「どういうわけだ? 獣のけの字もいない日があるとは。せっかく来たのに手ぶらでは帰れんぞ」
 与八郎は焦っていた。日は暮れかけているのに一匹も獲物に出会えないのだ。
「きっと本宮山に逃げ込んでいるのだろう。確かに禁猟地には違いないが、一匹だけならばよかろう」
 彼は禁を破る。それは純粋に妻に空腹を覚えさせたくない、という一心である。静は獣肉が大好物であったのだ。

       *

 ずだーん
 一発の銃声が暮れなずみ赤く染まりゆく本宮山に轟いた。山頂付近で与八郎の前方の木の茂みが揺れるやいなや彼の鉄砲の引き金が勢いよく引かれた。しかし与八郎が喜び勇んで駆けつけるも獲物はそこに倒れ伏していなかった。が、生々しい血糊があちこちに飛散している。
「なあに、後は血の跡を辿って行けばいいだけよ。かなり弱っているはずだからな」
 直ぐに見つかるという彼の目論見は外れ血痕は月明かりに点々と照らし出されて里にまで続いている。どうやら羽黒村に向かっているようだ。延々と歩きながら与八郎は思う。これだけ出血してなお生存しているというのは余程の大物であるという喜びと、獲物を運ぶ手間が省けたという幸運、そして相反する何か得体の知れない恐れである。そしてその恐れは現実となってゆく。

       *

「ここは、わしの家ではないか!」
 獲物は魔物だったのではないのか? わしがそいつを撃った復讐に妻と子を殺しに来たのではないのか?
 与八郎は自分の家に入るのに生まれて初めて躊躇した。だが入らないわけにはいかない。妻子の安否を確認せねばならない。度胸を決めて腰だめに猟銃を構え足で表戸を開ける。
「お帰りなさいませ」
 静は囲炉裏の前に単座していた。いつもと変わらない妻の優しい言葉に安堵しつつ与八郎は室内が暗すぎるのに不審を抱いていた。囲炉裏の火が消えているし明り取りの窓も閉まっているからだ。
「獣がここに逃げ込んだはずだ」
 与八郎はそろりそろりと叩きを進む。彼の背中をぞくぞくした悪寒が這い登ってゆく。
「いいえ。獣などおりませんわ」
「そんなはずはない! 確かに血の跡がこの家に続いていた!」
「そんなに大きな声を出したら坊やが目を覚ましてしまいますわ」
「すまん。いや、つい興奮してしまった。許せ。暗いな。窓を開けるぞ。やっ!」
 月の光に浮き上がる自分の女房の姿に与八郎は腰を抜かさんばかりに驚いた。瞬きも忘れて彼の両目に写った物は体中血に塗れた静の微笑。声は振え膝が笑い心が凍えた。
「お、お、お前は何者だっ!」
「ついにこの日が来てしまいましたね。わたしは本宮山の主、やまんば」
「や、やまんば、だと?」
「何故禁を破ってしまったのです?」
「物の怪ふぜいに言われたくはないわ。化け物っ、とっとと山に帰れ!」
「いつぞや、わたしが鬼か蛇であってもかまわん、とおっしゃったではありませんか。あれは嘘だったのですね?」
「黙れ! 今度は頭を狙うぞ。命だけは助けてやる。ありがたく思えっ」
「いいでしょう、帰りましょう。けれども何故疑問に思われないのですか?」
「何をだ?」
「人と妖怪が交わって、はたして子をなすことが適うでしょうか?」
「ど、どういう意味だ?」
「ふふふ、よく考えてみてくださいませ。ではこれにて。我が夫であり、我が息子よ」
 その言葉の前後既に彼女の姿は旋風に似て戸口の外へと走り出ていた。
「待て、我が息子とはどういうことだ? 待て」
 与八郎が外に出た瞬間濃霧が一帯にたちこめて視界がきかなくなる。そこへ山姥の笑い声が振るように彼に襲い掛かり、小さくなり、やがて聞こえなくなった。
 呆然とする与八郎に次なる驚愕が待ち構えている。何と、歩けないはずの彼の子が彼の横を、よちよちと二本足ですり抜けて行くではないか。
「や、お前は、ど、どこへ行くのだ?」
 そして、まだしゃべれないはずの赤子は言う。
「母のもとへ参ります。父様も参りましょう」
 そして、にんまりと笑うのだった。

       *

 与八郎はそれから人が変わったように毎日読経三昧。さらに、あれほど毎日剃っていたヒゲをのばし放題にして家中の鏡を割ってしまった。そして心配で様子を見に来た客人に対して必ずこう尋ねるのだった。
「わしは人に見えるか? それとも……山姥に見えるか? どちらだ?」
 おそらく妻子に逃げられて気がふれてしまったのじゃろう、とは村人の噂。
 そのうち誰も気味悪がって与八郎に会うことを拒んだが、やがて与八郎の家から出火。全てが灰となった。だが不思議なことに与八郎の遺骨は一切発見されず仕舞い。本宮山で与八郎によく似た背格好の男を見たという旅の商人の話も人の口から消え始めた頃、与八郎の家のあった土地に寺が建立されることになった。やまんば寺と誰もが言い習わしたそうな。

         おしまい

 

 

 愛知県西部地方に伝わるやまんばの伝説をアレンジして書いてみました。

 

 やまんばは岐阜まで逃げて行って、池に身を投げて死んだと子供の頃聞かされました。全くの作り話かと思いきや、このやまんばを撃った男は実在の人物らしい。さらに、このやまんば寺は本当に存在します。

 なんでも門のところにやまんばの血がついているらしいのです。

 私は実際に訪れてみましたが、見当たりませんでした。

 

 ではまたねニコニコ