こんにちは。
本日も楽しんでいただければ幸いです。
なお現実の事件、実在する人物とは無関係です。
牛さん創作短編小説劇場 第五幕
「天井から手」
「先生、おはようございます」
「鈴乃くん、なにも日曜まで出勤しなくても」
宮田史郎は名古屋栄に弁護士事務所を開業してもう七年になる。
唯一の助手鈴乃沙織は弁護士資格を取り僕の下で研修中だ。三十路を迎えたとは思えないほど肌の艶よく、巷にいう明眸皓歯、両者美しく春の陽光に輝いてすらいる。
「先生こそ。日曜日に依頼人と面会でしょう? ご苦労様です」
だが彼女の左手薬指に輝くものはない。
「うん。あまり気乗りがしないんだが仕事だから仕方ないか」
名古屋拘置所にいる依頼人は新興宗教の教祖で、信者三人にリンチ殺害を指示した罪で公判中。複数殺人であるから死刑判決が当然予想されるわけだ。
「一審の判決は明後日ですよね?」
「そう。やるだけはやったから、もう僕にできることはないというのに、いまさら面会したいとは、用件はなんだろうねぇ」
「上告のことじゃないですか?」
「まぁ、それしかないか」
「いってらっしゃいませ」
「ああ、君ももう帰っていいから」
「はい」
僕が事務所のドアを開ける瞬間振りかえると彼女は両手を明るく振っていた。
僕には妻も子供もいる、それを忘れて、とでも言いたげに。
*
「死刑判決が出ても上告するつもりはないですって!」
「ええ。わし死刑を受け入れたいと思います」
カルト教団教祖は明るく笑った。
その笑いは死をもって罪を償おうという寂しい笑いではなく、むしろこれ以上ない下品な笑いであり僕を相当に不愉快ならしめた。そして彼は鼻毛を抜きながら続ける。
「あと判決後半年以内に刑の執行をしてもらいたいので、その手続きをあなたにお願いしたい」
刑事訴訟法上そう明記してある。だが死刑判決後実際すぐに死刑になるわけではない。概ね五年くらいは刑務所で生きながらえる。新事実が出て無罪になる可能性を鑑みてであろう。
「そりゃあ、僕は痛くも痒くもありませんけどね。一応理由をお聞かせ願いますか?」
「わしね、神様だから、死なないのさ」
教祖は禿げ上がった頭を撫でつつ語る。
彼はキリストの生まれ変わりだと自称公言してきたが、この場に及んでまだそんなことを吹いているのかと、宮田史郎は心の中だけで苦笑した。
「キリストだって処刑されて死んでいますよ」
「わし殺すことはできない。すくなくとも絞首刑ではね」
「どういう意味です? 教義として生き続けるということですか?」
「見ていたまえ」
教祖は簡素なパイプ椅子の上で胡坐を組むと瞑想を始めた。やれやれ、と宮田史郎は鞄に書類を詰めなおして帰り支度をする。と、透明版を隔てた教祖の椅子がガタガタ鳴った。
「ああっ!」
監視役の係官が異常に気付いたが、規則違反でない限り教祖の行動を制止できなかった。つまりこの状態は逃亡行為にはあたらないのだろう。
宮田史郎は係官の指さす先に視線を戻す。驚愕。
つまり教祖は天井に届きそうなほど、空中浮遊していたのだった。
「こういうことだ。わし浮けるのだから、絞首刑で死ぬことはない。三十五分耐えきって、それで無罪放免だ」
三十五分。死刑執行で罪人は三十分吊るされる。それから死亡が確認されてなお五分待ち死刑は終了する。
「し、しかし……、死亡が確認されない以上死刑は終わらない可能性がある」
「ではわし心臓を止めよう。インドでのヨガの修行でその技を会得した。それならば問題はなかろう。それが言いたかっただけだ。弁護士さん、もう帰っていいよ」
*
明治時代にかつて死刑執行後蘇生した例がある。その時囚人は二度死刑になることはなく、戸籍を新につくり放免された。
前例がある以上この教祖も合法的に出獄するだろう。そうなるとキリストの再来として世界中から信者が集まってくるだろう。問題は、この教祖がさらにカリスマ性を高め教団が暴走、反社会的存在になるだろうことだ。
一審の判決は主文後回し、そして死刑判決。
教祖は悠然と欠伸を繰り返し、そして「それじゃまたね」と言いつつ退出。
結果、彼が望むように半年以内の刑の執行がなされる。
その死刑当日、宮田史郎は弁護士事務所でスマホのニュースに気をとられ仕事にならなかった。
正午過ぎ速報が知らされた。
カリスマ教祖の死刑が執行されました
それだけ?
宮田史郎はそこから推理結論する。
教祖は空中浮遊を失敗したに違いない、と。
考えてみれば当然の結果である。瞑想状態で空中浮遊ができるとしても死刑直前の心理状態ではそれはいくらなんでも無理だ。心臓を止めることが可能だとしても、死んでしまった後では遅すぎるだろうし。
突然事務所の固定電話が鳴る。
スタンディングデスクで書き物をしていた秘書の鈴乃沙織が出る。
「刑務所の所長さんからです」
「こちらにつないで」
デスクの上の受話器をつかんで宮田史郎は応答する。
名古屋拘置所の所長とは友人付き合いの仲であるから、処刑が済み次第連絡してくれるようにとことづけておいたのだ。
「はい。宮田です。お電話お待ちしていました」
「あなたが担当していた教祖の死刑が執行されました」
「ありがとうございます。今ニュース速報で知りました」
所長の声が上ずっていないので、何事もなかったと宮田史郎には思われた。執行後蘇生したのなら彼は平常心でいられないはずだからだ。
「死体は湯せんして納棺しておきました。遺族の方が本日夕方受け取りに来る手はずです」
「そうですか」
「……では失礼します」
そこで初めて所長は暗いトーンになり、なにか言い淀んでいた。彼が受話器をきらないので宮田史郎は一つ咳をつくってから訊いた。
「あ、これは、一応訊いておきますが、死因はなんですか?」
宮田史郎が死因を気にしたのは理由がある。
絞首刑の場合二通りの死があって、一つは首の骨が折れての即死であり、もう一つは窒息死である。前者なら楽に死ねたであろうし、後者ならかなり苦しんだであろう。教祖がどちらの死に方をしたのか多少気になったのは、亡くなった教団信者遺族の悲しみを思えば当然である。
「……頭蓋骨陥没による脳挫傷です」
ところがまったく意外な回答がなされてしまった。
「頭蓋骨陥没ですって! なにを馬鹿なことを」
どこをどう間違えばそういう死亡診断ができるものか理解に苦しむ。
「……遺体を確認しに来ますか?」
宮田史郎は逡巡した。だがこのミステイクの原因を知らずにおけば一生悩み続けるのではないか、と考え、「すぐにまいります」と言い受話器を置いた。
「先生、お出かけですか?」
「ああ、直ぐ戻ると思う」
直ぐ戻る、とは誤診が単純なミスによるものであると信じているからだ。
*
「まず刑場をごらんください」
所長は死体を見ろと言わずに刑場視察を優先させた。それは即ち脳挫傷が単純ミスでないことを暗に示している。宮田史郎は胸騒ぎを覚える。
「こちらです」
刑場に入るのは宮田史郎は初めての体験である。
「意外と狭いのですね」
六畳程のスペース。床の中央に四角のはめ込み板のようなものが見える。ここが下側に開いて囚人が落下する仕組みであろう。
「天井をご覧ください」
所長が顎を上に指し示す動作をした。
宮田史郎は目視する。低い天井に血の染みと亀裂ができているのを。すぐさま教祖の死に方が理解できた。あっ、と驚いた表情になったのはわずか数秒で、その後直ぐに笑顔になった。
「なるほど。そうか、空中浮遊に加速がつきすぎたのだな。ふふふ、床が開いて慌てて浮遊したのはいいが頭をぶつけて昇天か。ははは、これは笑える」
対して所長は合点がいかないといった風に宮田を見つめている。
人の死に対して笑うとは不謹慎、人間性を疑うよ、といった感じではなく。
「そんなにおかしいですか?」
「いえね、彼と面会した際、彼は実際僕の目の前で浮いてみせましたよ。だから絞首刑は怖くないってね。でもこういう結末は予想していなかったでしょうね。頭を天井にぶつけて脳挫傷とは、くっくっくっ」
「問題はそこではないんだよ」
「え?」
「いいかい、人間の頭蓋骨だ。しかも頭頂部は薄い」
「だから?」
「コンクリートの天井にぶつかって亀裂ができるわけがない」
「!」
そうなのだ。宮田史郎は思い違いをしていたことに指摘されてやっと気づいたのだ。マンガじゃあるまいし、人間の頭ごときでコンクリートに亀裂ができるわけがない。
宮田史郎から笑顔が消えた。血の気が失せたと表現してもよい。
「で、ではなぜです?」
「私にはわかりかねますが、この死体の写真を見ればおよその見当はつくかもしれない」
所長は懐から写真を取り出して宮田史郎に手渡す。その手が震えていないとは思われない。宮田史郎は正直見たくなかった。しかし見ないわけにはいかなかった。弁護士という職業上真実を知りたくて知りたくて仕方ないからだ。
「これは……」
教祖の死に顔は苦悶に満ちていた。
それはともかく、その禿頭に刻み込まれたものは明らかに手形。教祖は大きな手につかまれた、ちょうどボールをわしづかむように、そう判断してよい。手形の部分が赤く蚯蚓腫れになっていて、爪が食い込んだと思われる浅くない傷もある。
あらためて宮田史郎は天井を見上げる。
亀裂はよくよく見れば十字架形であった。
*
事務所に戻る車は、スマホのながら運転をしていると警察官に疑われても仕方ないくらいに迷走していたかもしれない。宮田史郎はむしょうに寒かった。背中からぞくぞくと這い登る恐ろしいものに怯えていた。何かにすがりつきたかった。そうしないとこの悪寒から逃れられないと、宮田史郎は自らに悟らせるのだった。
「おかえりなさい。先生、どうでした?」
事務所に入るなり出迎えた鈴乃沙織を無言で抱きしめる。
「せ、先生っ」
彼女に拒む様子は微塵もない。むしろ当然のように雇い主の背中に両手を回して力を精一杯こめた。
「鈴乃くん、しばらく、このままでいさせてくれたまえ、どうか」
「はい。……はい」
鈴乃沙織は二度返事をして、弁護士の背中を優しく愛撫。そのままの状態で宮田史郎は全てを忘れ去ろうと努めたが、できなかった。できなかったが、正体不明の恐怖は女性のぬくもりにより徐々に薄らいではきた。
「神様って信じるかね?」
やっとそれだけ彼女に告げる。
「信じません」
「どうして?」
「日本には八百万の神がいるといいますし、万物に神は宿るともいいます。そんなにたくさんの神様を信じようにも信じられませんわ」
「明快な答えだ」
「私が信じられるのは、今、その瞬間、この瞬間の事実だけです」
彼女はさらに力を込めて宮田史郎を抱きしめた。
そして目を深く閉じる。
宮田史郎はそれに誘われるように唇を重ねる。
永遠か刹那か。
測りかねる時間が流れ、やがて彼女が口を開く。
「これって友情のキスですか? それとも愛情の?」
「鈴乃くんの想像にまかせる」
「ま、奥様も子供もいらっしゃるのに」
「キスやハグは不倫には該当しないよ」
「たとえそうだとしても……、嬉しいです」
「ありがとう」
*
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
宮田史郎が自宅に戻る。
すっかり日は暮れていた。
「お盛んなことですね」
「なんの話だい?」
「遊んでいらしたんでしょう?」
「いや、事務所からすっ飛んで帰ってきたんだ」
「嘘ばっかり、鏡をみてごらんなさい」
「え? あ!」
玄関に掛けられた鏡を覗いて宮田史郎は失敗を恥じる。
唇が異常に赤い。つまり口紅を拭き忘れたのだった。
ぞの前後妻の手痛い平手打ちが見舞われた。
「言い訳はいりません。まずお風呂に入るんでしょう?」
宮田史郎の妻が笑顔の時は最高に機嫌が悪い。
彼はそっと天井を見上げた。
了