あっついですなぁ。
先日、親父の姉の旦那さんの葬式に出席しました。
宗派は真言宗。
開祖は弘法大師・空海。
密教系だけあってお経もサンスクリット語が多かった。
印(指を器用に組むやつ)もたくさん結んでました。
流石にお経界の最高傑作・般若心経は外せませんな。
仏教の教えが結構な勢いで網羅されています。
素晴らしい。
私は小学校の高学年のとき
般若心経を覚えて
風呂のシャワーで水に打たれながら
お経を唱えていたとゆう
極めてチャーミングなお子様だったのです。
えらいもんで
子供のとき覚えたことってのは
なかなか忘れんもんですな。
今でも全部言えます。
脳の中の海馬って領域のシナプスが
よほど強固に結合しているんでしょうなぁ。
そんな記憶力も今では見る影もありません。
記憶ってのは昔のことを思い出すのではなく
思い出したときに再度瞬間的に形作られる
とゆう説があります。
だから何回も思い出すコトってのは
カタチをちょっとづつ変えながら
脳の中で神経の結びつきが強くなっていきます。
脳の性質上、完璧に正確に記憶することは不可能です。
まぁ、それがいいとこなんだけどね。
忘れることも大事です。
私は自他共に認める仏教好きなんですが
仏陀の頃の原始仏教が好きなわけで
今の葬式仏教は嫌いです。
今の檀家制度は江戸時代に形作られたもんで
戸籍を管理する役所的な存在でした。
したがってありがたみもなんもないのです。
戒名をもらうだけでウン十万もかかったり
意味がよく分からん。
戒名にはレベルがあって
レベルアップするほど
値段も飛躍的にアップします。
死んでからの名前に市場価値が発生するのです。
驚異的に意味が不明です。
母がなくなったら
密葬にして、戒名も私がつけることにしています。
職業的な坊さんにつけてもらうより
息子がつけた方がよっぽど供養になると思うのです。
今ではネットで検索すれば戒名も出てきます。
母も考え方は私に似てて賛同してくれるのですが
死んだらそこで終了です。
後は残された者の自己満足でしかない。
盛大な葬式をして満足する人もいるでしょうが
私は死んでしまってから豪華にしても
意味は無いと考えます。
人それぞれです。
自分が良いと思うことをやればいいのです。
どうせなら生きているうちに孝行しなきゃね。
しかし、こんな考え方は
津山ではおそらくかなり異端的な考えなので
周りの社会風習も考慮に入れんといかん。
うっとおしいけどしょうがないな。
私も死んだら葬式は不要。
死にかけてたら延命も不要。
脳死判定が出た段階ですべての使用可能な臓器は
提供したいと思います。
遺骨も置いときたかったら置いときゃいいし
いらんかたっら川にでも流してもらってもいい。
なんでもいいので
残された人が良いと思うようにしていただきたい。
仏陀も死後のことについては
何も語っていません。
むしろ苦行で死んだり
即身仏(断食でミイラ化)になることには
なんの意味も無いと説いています。
生きているうちにいかに苦しみから
開放されるのかを説いています。
素晴らしい。
私は極楽浄土、輪廻転生なんてものはアトヅケで
時の権力者が
戦で死んでも生まれ変われるぜ
念仏唱えたら極楽にいけるぜ、みたいに
死への恐怖を紛らせるためだったり
悪いことしたらイモ虫に生まれ変わっちゃうぞ、みたいに
脅して治安を安定させるために考えたものだと思っています。
昔の政治は仏教と密接に結びついていたのです。
まぁ、なんだかんだいっても
死んだことがないのでなんとも言えんな。
生きていることを一心不乱に楽しむべし。
最後の楽しみは死ぬことだな。
死にたくはないけど
ほっといてもそのうち死んじゃうからね。
死んだらどんな世界が待っているのか。
たぶんなんもないんだろうなぁ。
先日、親父の姉の旦那さんの葬式に出席しました。
宗派は真言宗。
開祖は弘法大師・空海。
密教系だけあってお経もサンスクリット語が多かった。
印(指を器用に組むやつ)もたくさん結んでました。
流石にお経界の最高傑作・般若心経は外せませんな。
仏教の教えが結構な勢いで網羅されています。
素晴らしい。
私は小学校の高学年のとき
般若心経を覚えて
風呂のシャワーで水に打たれながら
お経を唱えていたとゆう
極めてチャーミングなお子様だったのです。
えらいもんで
子供のとき覚えたことってのは
なかなか忘れんもんですな。
今でも全部言えます。
脳の中の海馬って領域のシナプスが
よほど強固に結合しているんでしょうなぁ。
そんな記憶力も今では見る影もありません。
記憶ってのは昔のことを思い出すのではなく
思い出したときに再度瞬間的に形作られる
とゆう説があります。
だから何回も思い出すコトってのは
カタチをちょっとづつ変えながら
脳の中で神経の結びつきが強くなっていきます。
脳の性質上、完璧に正確に記憶することは不可能です。
まぁ、それがいいとこなんだけどね。
忘れることも大事です。
私は自他共に認める仏教好きなんですが
仏陀の頃の原始仏教が好きなわけで
今の葬式仏教は嫌いです。
今の檀家制度は江戸時代に形作られたもんで
戸籍を管理する役所的な存在でした。
したがってありがたみもなんもないのです。
戒名をもらうだけでウン十万もかかったり
意味がよく分からん。
戒名にはレベルがあって
レベルアップするほど
値段も飛躍的にアップします。
死んでからの名前に市場価値が発生するのです。
驚異的に意味が不明です。
母がなくなったら
密葬にして、戒名も私がつけることにしています。
職業的な坊さんにつけてもらうより
息子がつけた方がよっぽど供養になると思うのです。
今ではネットで検索すれば戒名も出てきます。
母も考え方は私に似てて賛同してくれるのですが
死んだらそこで終了です。
後は残された者の自己満足でしかない。
盛大な葬式をして満足する人もいるでしょうが
私は死んでしまってから豪華にしても
意味は無いと考えます。
人それぞれです。
自分が良いと思うことをやればいいのです。
どうせなら生きているうちに孝行しなきゃね。
しかし、こんな考え方は
津山ではおそらくかなり異端的な考えなので
周りの社会風習も考慮に入れんといかん。
うっとおしいけどしょうがないな。
私も死んだら葬式は不要。
死にかけてたら延命も不要。
脳死判定が出た段階ですべての使用可能な臓器は
提供したいと思います。
遺骨も置いときたかったら置いときゃいいし
いらんかたっら川にでも流してもらってもいい。
なんでもいいので
残された人が良いと思うようにしていただきたい。
仏陀も死後のことについては
何も語っていません。
むしろ苦行で死んだり
即身仏(断食でミイラ化)になることには
なんの意味も無いと説いています。
生きているうちにいかに苦しみから
開放されるのかを説いています。
素晴らしい。
私は極楽浄土、輪廻転生なんてものはアトヅケで
時の権力者が
戦で死んでも生まれ変われるぜ
念仏唱えたら極楽にいけるぜ、みたいに
死への恐怖を紛らせるためだったり
悪いことしたらイモ虫に生まれ変わっちゃうぞ、みたいに
脅して治安を安定させるために考えたものだと思っています。
昔の政治は仏教と密接に結びついていたのです。
まぁ、なんだかんだいっても
死んだことがないのでなんとも言えんな。
生きていることを一心不乱に楽しむべし。
最後の楽しみは死ぬことだな。
死にたくはないけど
ほっといてもそのうち死んじゃうからね。
死んだらどんな世界が待っているのか。
たぶんなんもないんだろうなぁ。

