森田雄三さんとわたし。《矢田くん》 | 楽ちん堂、STUDIO GORRON、すたじおごろん二子玉川ブログ〜NPO法人ら・ら・ら〜

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24時間鍵が開いている全世代コミュニティーカフェ。子ども食堂は365日3食開催中!
元森田オフィスはお芝居の稽古場でもありました。だから今も芝居も歌もダンスも小説も絵も創作しながら子供預かりやお泊まり、いつもドッタバタのグッチャグチャカフェ。


雄三さんと私

雄三と初めて会ったのは、
高3の時だった。

学校の掲示板に貼ってた
イッセー尾形の作り方ワークショップの案内。
なんで応募したかははっきりと覚えてない。
ただなんとなく面白そうだな的な感じ
だったと思う。

8月くらいにワークショップはあって、
昼間のワークショップに行った。

いきなり車座になって
松葉杖の雄三が中心に座布団引いて
座りこんで「何か言ってよ。」が始まる。
「違う!」
今になればいつもの感じと思えるけど、
その時はビックリした。

とりあえず毎日通って、
数学の先生の真似をしたり、
お盆の家族の風景とかをした。

宮崎弁は神話が生きてるとのことで
お盆がテーマになり、
神楽のような芝居達があれよあれよと
出来ていった。面白いと思った。

それから芝居というもの興味を持って
富良野塾に行った。

でも、雄三さんと全然言われることが違うし、
雪で真っ白過ぎて参って、脱走。

東京の大学に行ったけど
その間は雄三さんに会いに行けず、
宮崎に帰ろうと思う前くらいから
再び楽ちん堂に通い始めて稽古をしだした。
失敗談をする度、嬉しそうに
「馬鹿だねー。」て言われてなんか安心した。

宮崎帰ろうと思うんですよねー。って
言ったとき何て言われたか覚えてない。

でも、高校の時のワークショップで
東京行くけど
ほとんどが負けて地元に帰ってくるのね。って
言ってたのを今、思い出した。

その通りだ。
宮崎に帰って、福祉の仕事を始めた。
何年か経って雄三さんが倒れた。
それからたまに楽ちん堂に行くようになった。

雄三さんと2人きりになり
どうしたらいいか分からないで
内心どうしようと思うも、
雄三さんはいつものように
何か言えとジェスチャーをする。
セリフを言う。もっと。
セリフを言う。もっと。
机を叩いて怒ってどっかに行った。
そんな感じだった。


最後に雄三さんに会ったのは
亡くなる1ヶ月前くらいの9月初め。

相変わらず稽古をする。
タエシマさんと稽古中に
訪問入浴のひとが来るも怒って追い返し、
稽古。

本番出来ずに宮崎に帰ろうと思うも、
便を間違えてもう一泊させてもらう事になり、
清子さんの提案で
朝1番に本番をすることに。

いざ、本番。2人が降りて来た。
夏の朝の光の中で、
身だしなみを整えた雄三さんと清子さんは
輝いてただ美しかった。


《矢田》