先日知人との会話でこんなことがありました
「うちの嫁って言っちゃいけない時代なんだよね?」と聞かれ
まぁ、世間的にはそういう風潮がありますよねとお答えしましたが
実は私も内心あまり好きではありません
パートナーに『うちの嫁』と言われてもなんとも思わないけど
誰かがそう言っているのを耳にすると
”あんたの嫁かい!”って思ったりしています
その違いはなんだろうと考えてみると
パートナーは、私を、自分のものだとは思っていないんですね
でも『うちの~』とつける人というのは、その奥に自分のものとしてのニュアンスを含んでいます
あ~、私は自分のものとして囲われることが嫌なんだなと思ったわけです
言葉を変えると『所有すること、されること』です
これをもってパートナーとそのことについて語り
言葉って難しいねということになったんですが
『うちの~』とか『私の~』とか
会話として必ず使うじゃないですか
英語で言っても『my~』『your~』
使わないと、誰なのか、どんなポジションなのかわからないし
でも、その言葉使っていると、心もそのようになるのかなと
じゃあ、いつからそう思うようになるんだろうと思い出してみると
子供の頃からそのように育てられるじゃないですか
これはあなたのお椀だよ、とか
そこで既に所有が出てきます
教育として必要だし
私自身で言うと、
所有に関して拒否感があった一番古い記憶は
保育園のころ、おもちゃを自分のものとして、同級生とけんかしていた人を見て、嫌だなと思いました
あとは、小学一年生の頃、近所の6年生に、大好きなうまい棒をとられそうになって、『これ私の!!!』って思ってあげられなかった自分がとてもケチで嫌だなと思いました
所有って深いな~と思うんです
所有という概念のポジティブな側面は
所有することによって、責任や、他人との境界線をしっかり持つこと、忍耐や自律、他人を大切にすること、などなど多くの事を学ぶことができると思う
逆にネガティブな側面は
所有することによって、自分の幸せが叶うという錯覚に陥ること
それを失う怖れが生じること
お嫁さんが来て家族が増えて、楽しいことが増えて幸せ、、、
となってしまうと、お嫁さんが来ないことは不幸、となる可能性があるじゃないですか
現代の物質社会ではその感覚が加速していると感じます
実際は、お嫁さんが来ても幸せかどうかはわからないことは、みんな根底で知っているのに
どうしてもその思い込みを手放せない
所有とはなんなんだろうと思います
実際に、本当に所有するって
自分、といっているこの肉体でさえ、本当に自分のものと言えるのか
哲学的になってしまうけど
この世に自分のものと言えるものなんて一つもないんじゃないかな
そう考えているこの思考や心だって、自分といっていいものか
そもそも、自分と他人、と分けている時点で二極化が始まっている
そりゃー敵も味方もできるわ
そんなこんなで
大事なことに気が付きました
私は、所有したいという人間の本質的な欲求を、ずーっと否定していたな~と
所有することで生じる心の痛みが、想像以上に根深かった
認めてはいたけど
許していなかった
だから、そういう人を見ると、認めるけど、許してない
私はその考えは受け入れられません!とどこかで思ってた
だから、なにかにこだわることや執着することがとことん嫌いだった
おかげで、それらを早々に手放すことを覚えたから、人からは「生きるの楽そう」って言われるけど
所有することで幸せを感じる
所有することで学べる
という思考パターンとか
所有することの恐れ
あるねー
(これから自分で処理します・・・)
そのことに気が付いたら
なんだかとても軽くなって、力が抜けた感じ
広島で、一人一人の平和をと言われたばかりです
なんとなく理解できたかな
自分の中の二極化がまた一つほどけていった気がします
パートナーのことも、
自分が叶えたいことのために
所有している感覚である部分がありました
所有する喜びや学びを受け取りながらも
そこに依存せずに生きるということを
また改めて実践していきたいなと思います
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川中島Hiroba
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