のいらの時代 ~第2話 踊り子~ | らくちゃんのタロット劇場

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【のいらの時代】

第2話 踊り子

 

 

 ウズベキスタンの名舞踏家に、ヴィロヤット・アキロヴァという女性がいる。彼女の両親もきょうだいも有名なウズベクダンサーであり、たいていのウズベク人が彼女の名前を知っている。

 私が2002年に首都タシケントに住んでいたとき、彼女はとうに現役を退き、歩くにも苦労するほど太ってしまっていた。そのため、自分ではほとんど踊らず、たまにテレビのインタビューを受けたり、かつての教え子を集めて、自宅でウズベクダンスの発表会を開いたりしていた。

 その年6月のある日、タシケント在住の外国人を20人ほど招き、彼女の自宅で発表会が開かれた。少し遅れてテレビ・クルーも到着するという。集められた教え子ダンサーは4人、臨時の楽屋となったアキロヴァ先生の寝室で、支度におおわらわだった。

 ウズベクダンスの衣装は、金糸銀糸の刺繍をほどこし、スパンコールを散りばめた、たいへん派手なしろものだ。重ねて、これでもかこれでもかと全身にアクセサリーをつける。衣装に負けないほどの厚化粧もしなければならない。

 さて、私はどこにいたのか? ……なんとまあ、楽屋にいたのである。それも、踊り子のひとりとして。一体全体、どうしてこんなはめになったのか、話は数か月前にさかのぼる。

 

 ウズベク人は踊りが好きな民族だ。日常の一部といってよく、パーティはもちろんのこと、親しい人間が集まれば自宅でも音楽をがんがんかけて踊る。私もその場に居合わせれば踊らされるのだが、うまく踊れず、ずいぶん恥ずかしい思いをした。そこで私は、タシケントに住んだついでに上手に踊れるようになってやろうと、知り合いのウズベク人にダンスの先生を紹介してくれるように頼んだところ、アキロヴァ先生のところに送りこまれたというわけだった。

 けれど、彼女が百科事典にも名が載るようなダンサーだと知ったのは後のことだ。私はただ、ダンスの先生が見つかったからと言われて会いに行ったのだった。

 

 

アキロヴァ先生と私(2002年)

 

 

 アキロヴァ先生のアパートは、都合のいいことに、私のアパートから歩いて15分ほどのところにあった。

 初めてこちらから電話をかけたとき、同時にアパートから出てプーシキン通りを歩いてきましょう、そうすれば途中で会えるから、と先生が提案した。で、私は言われたとおりに先生のアパートの方角へ歩いていったのだが――先生のほうから「ショーコ?」と声をかけてくれなければ、気づかず通り過ぎるところだった。

 アキロヴァ先生は、私が想像していた女性とは全く違っていた。ダンサーというからには細くてすらりとしているとばかり思っていたのに、実際はウズベクでよく見かける「太ったおばちゃん」タイプそのままだった。丸々とした体をウズベクの鮮やかなコイラック(ワンピース)でつつんでいる。近寄ると思った以上に背が低く、頭が私のあごのあたりまでしかない。彼女はヨチヨチした足取りで近づくと、笑いながら私に抱きついてきた。慌てて私も、ボリュームある体に腕をまわし、キスを返したのだが、これが私とアキロヴァ先生の出会いだった。

 

 先生はそのまま私を自分のアパートに連れて行った。先生のご主人はとうに亡くなり、ひとり娘は結婚して家を出ていて、一人暮らしということだった。

 先生のアパートは、玄関を入るとすぐに、広々とした空間があった。ダンスの練習場にもなれば、発表会の舞台ともなる居間だ。四方の壁は先生の過去の栄光を示すポスターや家族の肖像画で飾られていた。

 昨夜は遅くまでパーティがあったとかで、テーブルの上には食べ物が散乱していた。先生は残ったゆで卵や、鶏のもも肉をお皿に盛り付けなおして、私にすすめた。

 先生の食欲は旺盛だった。食べる合間に、昨日は忙しかったとか、ろくに寝ていないとかぶつぶつ言うばかりである。何も尋ねられないのもかえって居心地が悪いもので、私が自分から自己紹介をはじめると、先生はさえぎって言った。

「私は40を過ぎた女性にはダンスを教えない。でもあなたには教える」

 私は外国人だから「別格」だ、それに頼まれたからね、という意味だと私は解釈した。

 

 この日はそんなふうにして終わり、翌週からレッスンが始まった。

私は当時タシケントの大学に留学をしていて、授業のない火曜と金曜の朝10時から12時までの2時間、レッスンをすることになった。しかし、いざレッスンが始まってみると、先生はレッスンの時間割をまったく守ろうとしなかった。

 アキロヴァ先生は気が向けば、レッスンの途中で衣装を縫いはじめることがあった。

「私はね、きれいなものが好きなの。きれいな布やアクセサリーで、女の子たちを着飾ってあげるのが大好きなのよ」そんなことを言いながら、眼鏡をかけ、ちくちくと針を動かすのだった。

 そのまま、お茶の時間になることもあったし、牛乳が要るといって買いに行ったことさえある。あまり中休みが長いので、こっちは教わったばかりの振り付けを忘れてしまって、練習が再開してもまたはじめからやりなおしとなったりした。そのうえ先生はレッスン後に私と一緒に食事をすると決めていて、レッスンに行くと既にスープやら何やらが用意してある。結局私は朝から夕方まで先生と過ごすことになった。

 

 ちなみに、レッスン代はマンツーマンで1時間5,000スム(2002年8月のレートで1ドルは約1,200スム)だった。私が先生の家に何時間いても、実際のレッスン時間がどれくらいであっても、先生はつねに2時間分だけ受け取った。また、先生の指示で踊りの衣装を3種類そろえたのだが、ひとそろいに100ドル以上かかった。

 

 どうして3種類かというと、ウズベク伝統舞踊は三つに分類され、それぞれ衣装が違うからだ。すなわち、ブハラダンス、フェルガナダンス、ホラズムダンスである。ウズベクにはロシア支配以前に、ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国(フェルガナ) 、ヒヴァ・ハン国(ホラズム)の三つの国があった。それぞれのハン国の伝統舞踊が今に受け継がれているのである。

 三つの中で、ブハラダンスが最も古い。規則正しいリズムにのせ、きっぱりとした動作の繰り返しが多いので、初心者にとっては一番わかりやすい。私がはじめて習ったダンスもブハラダンスだった。体形がすっかり隠れるほど衣装を重ね着し、さらに胸飾りやら腕輪やらじゃらじゃらとアクセサリーをつける。

 これに比べると、フェルガナダンスは繊細な踊りだ。情感あふれたゆるやかな動きが中心で、女性がお化粧したり縫い物をしたりするパントマイムがあって面白い。衣装はたいてい、伝統的なアトラス(ウズベクの絣模様)の薄いワンピースにガウンを羽織り、刺繍した帽子をかぶる。

 ホラズムダンスは、手や足を激しく振ったり目まぐるしくターンしたりする、もっとも軽快な踊りだ。衣服にも帽子にも細かい金属の飾りがたくさんついていて、動きに合わせてシャラシャラ鳴る。おへそを出した衣装で腰を振る、ベリーダンスもある。私は習わなかったが、とうてい踊れるとは思えないので、先生がホラズムをやると言い出さないよう祈るばかりだった。

 

 私がはじめに習ったのは『夢』というブハラダンス、次いで『フェルガナの青い草』というフェルガナダンスを一曲教わった。

 実のところ、私は4カ月ほどしかレッスンを受けなかった。しかしそれでもお腹いっぱいになるほどに、ウズベクダンスの世界は私にとって未知のものだった。

 なかでも、最大の驚きであったのは、アキロヴァ先生その人だった。

 これが芸術家気質と言うのだろうか、先生にはとても子どもじみたところがあった。看護師が定期的に往診に来ていたが、注射をするときはさんざん嫌がった。ぐずぐず言いながら横になり、お尻にブスリとやられると、「ニ・マグー(我慢できない)」と泣き声をあげた。

 また、こんなことがあった。私が化粧をしているとき、先生は「これ、頂戴!」と言うやいなや、横から眉墨をさっと取り上げた。そして「もらった」エスティ・ローダーの眉墨をしまうため、そそくさと寝室に向かう。私は唖然として先生の背中を見送った。

 話は眉墨だけにとどまらない。先生は私の衣装をそろえるとき、自分のお古を譲ってくれた。けれど、先生の値段の付けかたは、まるでバナナのたたき売りを逆でいくようだった。例えば、ザンギ(手首につける鈴)を出して、「これは2ドルかしら、いいえ3ドルはするわね、ええと、ふたつだから6ドル……違う違う、やっぱり10ドルよ、いいえ15ドルもらっておくわ!」といった調子なのだった。

 こういうとき、きまって私を睨みつけ、不機嫌な口調になったのは、私が「高い」と言い出すのを恐れていたのだと思う。けれど私は一度も値切らなかった。どれもたいして高くないし、アキロヴァ先生が現役時代に使ったものだから、むしろ私は欲しかったのだ。

 それにしても、ウズベクでこんな下手な「値段交渉」をするのは先生くらいのものだろう。世知に長けたウズベク人なら、最初から「この鈴は大切な品だけれど、あなたなら、ひとつ50ドルで譲ってあげる」とかなんとか、しれっと口にするべき場面であった。

 

 こんなエピソードもある。当時、先生は私からお金を受け取るとき、スムで払えと言ったり、ドルにしろと言ったりした。スムのレートが激しく上下していたので、「今日はどの紙幣でもらうと得か」をいちいち考えていたようだ。で、私が先生から100ドル以上の買い物をしたときのことだ。二日ほどして先生は私の家に電話をかけてきて、「ドルが下がった! すごく下がったのよ!」とわめき散らした。私はひたすら興奮する先生に向かって、「そのまま持っていれば、また上がりますよ。大丈夫ですよ」となだめたのだった。

 

 かくして、「金儲け」にいまひとつ不得手なアキロヴァ先生は、つましい暮らしをしていた。あれほど有名なダンサーであっても、本人の生活はどこをどう見ても、ウズベク人の標準を超えるものではなかった。

 ウズベクでもっとも社会的地位の高い芸術家は詩人だ。そして残念ながら、踊り子の地位はもっとも低い。イスラム社会ではもともと女が人前で踊るべきではないという考え方がある。パーティに来た母親が、こっそりダンサーを指し、連れてきた娘に「あんなふうになってはいけないよ」と言うのだと聞いたことがある。

 ウズベクでは、祭りでも、結婚式でも、あらゆるイベントに踊りは欠かせない。歌手がいれば、きまって踊り子がついている。ウズベキスタンを紹介する本にだって、パンフレットにだって、美しい踊り子たちが必ず微笑んでいる。このようにさまざまな場面で座を盛り上げ、華を添える踊り子たちが、その実ウズベク社会で冷遇されているというのは、どうにも納得しがたい。

 あるとき、先生はレッスン中、かかってきた電話の相手にさんざん怒鳴り散らしたあと、電話を切って泣き出した。どうしたのかとあわてて尋ねると、「お前は病気だ。レモンを食べろと言われたのよ」などと、泣き声で訴える。どうも仕事をキャンセルされたうえ侮辱されたらしい。事情はよくわからないが、目の前で泣いているものを知らん顔もできず、私は彼女の背中を撫でながらなぐさめた。すると先生は泣き顔で私の手を取って、「ダラガーヤ(愛しい人)」と呼ぶのだった。

 

 かくして、すばらしい師弟愛がはぐくまれ、私は毎回のレッスンが楽しみだった――と書けるといいのだが、残念ながら、現実はそう甘くない。アキロヴァ先生のレッスンは、火曜と金曜がゆううつな日になるほど、厳しかったのである。

 たとえば私の習ったブハラダンスは、音楽が始まると同時にベールをかぶって登場する。はじめの10拍で舞台をぐるっと回って中央に立ち、11拍でおじぎをし、12拍めでベールを後ろに跳ね上げる。ところが、ウズベクの曲は拍子が分かりにくく、なかなか動作が曲と合わない。おかげで、最初のおじぎの段階から、早いの、遅いのと、私はさんざん怒られた。椅子から太い腰を浮かせて、「サナイ(数えろ)、ショーコ、サナイ!」と金切り声をあげる先生の姿は今も目に焼きついている。

 なんとかここをクリアしても、次なる「山場」が待ち受けていた。ベールを跳ね上げた瞬間、私は満面の笑みを浮かべていなければならないのだ。

 私が振り付けと同じくらい苦労したのは「表情」だった。

 女性のダンサーは、踊っている間じゅう、これ以上うれしいことはないというふうに歯を見せて笑っていなければならない。同時に、「どう、いい女でしょう」と、観客に向けて目で秋波を送り続けろと先生は言うのである。

  10年以上笑いヨガをしてきた今なら、笑顔だけなら作れると思う。しかし当時の私は、笑顔を「見せる」のがたいへん苦手だった。ましてや眼前では先生が睨んでいる。結局、踊っている間じゅう、数分ごとに「ショーコ、笑え!」と先生の怒声がとぶ始末であった。

 

 先生は足が悪いので、一連の動きを踊ってみせてくれるときは、一度きりだった。それでは覚えきれないのだが、少し踊っただけでぜいぜいあえいでいるような相手に、くり返してくれとはとても頼めない。

 私はステップも手の動きも、何もかもを一度で覚えようと必死で先生の動きを見つめた。一連の振りが済むと、先生は椅子にどっかりと座りこみ、「さあ踊れ」とテープレコーダーのスイッチを入れた。「スナチャーラ(最初から)!」と声がかかることもしばしばで、登場するところから今のところまでを通しでやれというのである。私は引きつった顔にあわててベールをかぶせ、開始地点に向かって走った。

 

 先生が目当てか私なのか知らないが、先生の隣人や友人が、ときどき練習を見に来た。しかし私が怒鳴られまくっているのを見て、最初は楽しそうにしていた彼らも、やがて居心地悪そうにしたり、気の毒がったりするのだった。ある女性など、先生が席をはずした隙に、私に「すごく上手ね」と、とってつけたお世辞でなぐさめてくれた。

 

 アキロヴァ先生が厳しかったのは私にたいしてだけではない。私が習いはじめてからしばらくして、先生のところに外国人の教え子がもうひとり現われた。30歳くらいのイラン系アメリカ人の女性ダンサーで、どういういきさつか、ウズベクダンスを習うためにアメリカからやってきて、先生の家にひと月の間ホームステイしていた。

 彼女がアメリカに帰ったあと、レッスン中に先生が、「私のレッスンは厳しい?」と突然質問したことがあった。

 そうですとも言えず黙っていたら、先生は続けた。あのアメリカ人ったら、レッスンのとき泣き出したのよ。だってねえ、あの日は暑かったし、こっちも頭が痛かったしねえと、先生は顔をしかめて、言い訳を並べ立てた。先生は私に否定してもらいたかっただろうけど、やはり私は「そうですか」としか言えなかった。実を言えば、私だって、あまりの言われように涙をこらえながら踊ったことが幾度もあった。

 言っておかなければならないが、それほど厳しいレッスンだったのは、先生の性格がきついからではない。おそらく先生自身、幼い頃からそうやってダンスを教わってきたし、他の教え方については考えたこともないのだろう。それに、本格的なウズベクダンスなどハナから無理な私に、なんとか踊らせようとけんめいだったのだ。

 

 

 出番を待つホラズムダンサー

 

 

 さて、このへんで、とっておきの裏話にとりかかろう。

 踊りを習いはじめてしばらくしたころ、私が師事していた加藤九祚先生が、発掘のためウズベキスタンにやってきた。

 私はタシケントでの歓迎会に呼ばれ、その席で、テルメズの先生の家で大々的な誕生パーティをするのだと聞かされた。

 ――もう、おわかりであろう。私はその場で、自分がアキロヴァ先生にダンスを習っていることを話し、「私が踊りましょうか」と言ってしまった。まったく、調子に乗るにもほどがあるというものだ。その場にいたウズベク人たちは大喜びであった。ウズベク語で話しているので先生には伝わっておらず、サプライズにしようと話がまとまった。

 もう後には引けず、加藤先生の誕生会当日、私はタシケントからテルメズまでタクシーをとばした。数時間の道のりだが、知り合いの運転手に頼んだので安く上がり、片道50ドルくらいだったと思う。

 タクシーなどという贅沢なことをしたのは、道中にダンスの振りの練習をしたいからだった。後部座席でああしてこうしてと身をくねらせる私の傍らには、愛用のボストンバッグがあり、ダンスの衣装一式が詰めこまれていた。

 

 先生の家は、おおぜいの人がパーティの準備に出入りし、けたたましいくらいだった。ただし加藤先生だけは、ずっと自室にこもって勉強していた。

 やがてパーティの時間になって、先生が外から呼ばれて出て行ったあと、私は急いで着替えをした。ダンサーの衣装に身を包み、ラジカセのスイッチを入れ、文字通り中庭に踊り出た。

 ウズベク人たちは歓声を上げた。競って私のまわりに集まり、あっというまに人垣ができた。先生と親しい考古学者のトルグノフ氏などはビデオカメラを用意していて、最前列に陣取り、最初から最後まで私の踊りを撮っていた。

 言っておくが、パーティに踊り子がいるのはあたりまえである。これほどウケたのは、とりもなおさず私が日本人女性だったからに他ならない。

 おじぎをし、かぶっていたベールを跳ね上げたあと、私は踊りながら先生を探した。

 さぞ目を丸くしているだろうと思っていたら――先生は驚いておらず、なんということだろう、私を見てもいなかった。人垣の向こうで発掘チームの運転手となにやら打ち合わせをしてから、屋内に入っていった。私のすぐ横をすり抜けていったのだから、気がつかなかったのではない。私は加藤先生に見事に無視されたのだった。

 

 翌月、タシケントでの発表会がおこなわれた後、私は帰国し、アキロヴァ先生とのレッスンが終わった。

 それ以後、私はアキロヴァ先生に一度も会っていない。

 どの年だったか、一緒に撮った写真やプレゼントを用意して行ったのだがお留守だったこともあった。そのうち私はタジキスタンに興味を持ち、そちらに活動の場を移したので、ますます会う機会がなくなった。

 

 

地方空港で「客人」を出迎えるダンサーたち

 

 

 かくして、あっというまに5年が過ぎた。

 2007年の秋、私は帰国の飛行機便待ちでタシケントに何日か滞在することになった。今度こそアキロヴァ先生に会おうと思ったが、先生の自宅に何度電話をかけても、誰も出ない。留守電にメッセージも残したが、折り返し電話がかかってくることはなかった。

 昼間ならともかく、朝や晩に電話しても同様なので、私は心配になった。先生はもう60代、ウズベクなら「年寄」の部類である。レッスンをしていた当時から病気でもあった。もしかして、私がぐずぐずしているうちに「手遅れ」になったのではないかしら。

 私は思い切って、先生の消息を調べることにした。芸術アカデミーに行き、加藤先生の関係で知り合っていた総裁のクジエフ氏(当時)に面会したのだ。

 私はアキロヴァ先生が息災であると聞かされ、ほっとした。ただし、連絡がつかないことに関しては「そうですか」と一蹴されてしまった。たしかに、ウズベクでは、誰かと連絡を取れないことは格別変わったことではない。親戚の家に行ったか、別の町に招待され仕事をしているか、あるいは転地療養など、長期間留守にする理由はいくらでもある。

 しかし、さすがアカデミーである。クジエフ氏は、アキロヴァ先生があの有名な「ブハラのユダヤ人」のひとりである、と教えてくれた。

 あの有名な、と言っても、歴史家や中央アジア研究者の間で有名なだけなので、ごく簡単に説明しておこう。

 かつて、紀元前6世紀に、バビロニアの王ネブカドネザル二世がユディアJudea(エルサレムを首都とする、古代パレスティナの南部地域)を占領した。そしてユダヤ人の捕虜をバルフやメルヴ(どちらも現在のトルクメニスタンにある古代都市)に住まわせた。これが中央アジアに住んだはじめてのユダヤ人だ。やがて彼らは、数も増えて、サマルカンドやブハラといったシルクロード沿いの都市に大量のユダヤ人が住むことになった。

 とくにブハラに入ったユダヤ人たちは、何世紀もの間をかけ、イスラム世界の中で独特のコミュニティーをつくりあげた。彼らは世界中に散らばり、シナゴーグに通い、今でも自分たちのルーツを自覚している。例えるなら中国の客家(ハッカ)みたいなもので、これがいわゆる「ブハラのユダヤ人」である。

 近年になって、「ブハラのユダヤ人」の多くがイスラエルに移住(帰国というべきか)してしまい、今ではウズベクでも少数の人々しか残っていない。アキロヴァ先生のきょうだいや親戚もまた、イスラエルに行ってしまったが、先生自身はウズベクに残る道を選んだそうである。

 

 芸術アカデミーをあとにした私は、次なる目的地に向かった。アキロヴァ先生を探すに当たって、もうひとつ心当たりがあったのだ。

 それは日本大使館で働いているシャフリゾーダという若い女性だった。元ウズベクのプロダンサーであり、アキロヴァ先生の率いるアンサンブル(舞踏団)にも参加していたことがある。彼女に訊けば、アキロヴァ先生がどこにいるかわかるだろうと思いついたのだった。

 しかし、シャフリゾーダさんはとうにダンスの世界から引退していて、アキロヴァ先生とも長い間会っておらず、先生の近況は全く知らなかった。連絡が取れないと話しても、クジエフ氏同様、「どこかに行っているのでしょう」と片付けられてしまった。

 ここに至って、私の「アキロヴァ先生探し」は完全に行き詰った。私は帰国を翌日に控えていて、あきらめるほかないようだった。

 がっかりしたけれど、せっかく会いに来たのだからと、私は彼女に「いくつか質問させて欲しい」と頼んだ。実際、彼女とは、一度話をしてみたいと思っていたのだ。

 

シャフリゾーダさん

 

 シャフリゾーダさんは私を知らなかったが、私は彼女を以前から知っている。アキロヴァ先生のところで彼女のポスターやビデオを見たことがあるが、それだけではない。

 かつて、私がサマルカンドで日本語教師をしていたとき、シャフリゾーダさんはタシケントの東洋学大学で日本語を学んでいた。彼女は人気あるダンサーで映画にも出ていたから、私の教え子もみんな彼女のことを知っていた。

 そして、私が教え子を引き連れてタシケントの日本語弁論大会に出たとき、彼女もまた大会に出場していた。彼女は壇上から、自分がウズベクのダンサーであったと言い、国の伝統を担っているダンサーが人々に賤しまれるのは悲しい、と訴えた。そのスピーチで、彼女は見事優勝したのだった。

 このとき私は審査員のひとりだった。

 私は彼女にどんな点を与えたか覚えていないが、評価は良かったはずだ。日本語が本当に上手であっただけでなく、彼女の主張は、常々私が感じていたこととまったく同じだったからだ。この翌年に自分自身が同じ世界に関わるとは、しかも同じ先生の手ほどきを受けるとは、夢にも思っていなかったけれど。

 ちなみにシャフリゾーダさんは1980年生まれ、「目が覚めるほどの美女」とはこういうのをいうのだろう、と思うほどの美形である。

 彼女は10歳からダンスを始め、14歳で舞台に立った。ダンスを始めた理由は、母親がウズベクダンスを好きだったことと、彼女の姉もプロのダンサーであったからだ。

 マクタブ(日本でいう小中学校)を終えた後は、タシケントにある舞踏高校に進んだ。これは中央アジアで唯一のダンスの専門学校で、バレエとウズベクダンスのふたつの専門コースがあり、五年制である。また、テレビ番組で見たのだが、ここには90歳になるバレエ・ダンスの教師(ロシア人女性)がいるのだという。

 シャフリゾーダさんは、姉とともにアキロヴァ先生の舞踏団に加わり、16歳のときから3年間活躍した。彼女は映画にも4本出演し、有名になった。芸名は、ディルムラド・キジという苗字を使った。

 やがて彼女は、日本の能や歌舞伎に興味を持ったのをきっかけに、東洋学大学の日本語学部に進学した。このときをもってダンスをやめた。

 シャフリゾーダさんは、弁論大会で優勝した翌年、文部科学省の試験に合格し、上智大学に一年間留学した。その後、同じ頃に早稲田大学に留学していたウズベク人男性と結婚し、今はタシケントの日本大使館で働いている。

 彼女の経歴を聞いた後、私たちは少しばかり、アキロヴァ先生の思い出を語り合った。なかでも彼女が、「先生は別の世界の人みたいだった」と言ったのは面白かった。彼女にそう言われるくらいだから、アキロヴァ先生はやはり変人、いやいや、個性的だと私が感じたのは間違いなかった。

 最後に私は、シャフリゾーダさんに向かって、もう踊る気はないのかと訊いた。彼女はキッパリと「ない」と答えた。

「それが、どんなにいい仕事でも? もう一度舞台に立ってみたくない?」私は追及した。

「たとえ私が踊りたいとしても」とシャフリゾーダさんは言った。「私が踊れば、主人が親戚から責められるでしょう。なぜ私を踊らせるのかと」

 彼女の言葉に、私は「やっぱりそうか」と嘆かずにいられなかった。思えばタシケントの発表会でも、ダンサーのひとりが、夫が反対するなか強引に来たと言っていた。

 

 ここで付け加えれば――加藤先生も、私が踊ることに反対だった。

 誕生会のあと、どうして私の踊りを見なかったのかと尋ねたとき、先生は「あんたはタシケントで勉強していると思っていたのに」と冷ややかな目を私に向けた。

 ダンスは趣味ですと抗弁したが、耳を貸さなかった。私は勉強をさぼって遊んでいると思われただけではない。先生は、ほとんどのウズベク人と同じように、ちゃんとした女性ならダンサーを目指すべきでないという考えの持ち主だった。

 先生はその話をするのさえ嫌そうだった。それ以後は、私がレッスンをやめてしまったこともあり、先生との間で話がむしかえされたことはない。私はパーティで写真を撮らなかったので、先生の誕生日にウズベクダンスを踊ったのは、記憶の遥か彼方にだけ残っている。

 

 舞台を日本大使館に戻そう。

「どうしてそんなに、否定されるのかしら? シャフリゾーダさんが踊る姿は、あんなにきれいなのに」

 私は、アキロヴァ先生のところで見たビデオを思い出しながら続けた。彼女は、あでやかな赤い民族衣装を身につけ、軽やかに踊っていた。踊りを通して、そこにいる自分自身を存分に表現していた。女性に生まれて、あんなふうになりたい、一度でいいからあんなふうに踊ってみたいと誰だって思うはずだ。

 しかしシャフリゾーダさんは首を振った。

「いいえ、きれいだと口では言いながら、人は心の中で、あれは遊んでいる女だと思っています」

 たしかに、プロといっても、いろんなダンサーがいる。少しばかり踊りが得意で、アルバイトとして結婚式やレストランなどで踊って日銭を稼ぐ、というだけの人もいる。そんなダンサーのなかには、「遊んでいる」女性もいるかもしれない。しかし、だからといって。

「シャフリゾーダさんがそういう、いいかげんなダンサーではなく、本物のダンサーであることは、みんな知っているじゃありませんか。悪口を言う人は、嫉妬しているだけですよ。気にすることはないでしょう」

「いいえ、いいえ」

 シャフリゾーダさんは手を振って、私を黙らせた。それから、長いまつげをしばたきながら、つぶやいた。

「私は、今でも……」

 彼女は、形のいい眉をひそめ、しばらく考えこんでいた。私は彼女のせりふを想像しながら待った。あの頃がなつかしい? 思い切り、踊ってみたい? まさか、独身だったら踊れるのに、とでも言うのだろうか?

 ほどなく、彼女は言葉を探し当てた。そして私をまっすぐ見据えて、こう言ったのだった。

「……自分がダンサーであったことを、恥ずかしいと思うときがあります」