のいらの時代 ~加藤九祚物語①~ | らくちゃんのタロット劇場

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加藤久祚物語

~掘った、奪った、逃げた

 

 

 

 以前、知り合いが言ったことがある。大昔からソグド人は、オアシスで待ちかまえていて、旅人の身ぐるみを剥ぐのをなりわいとしてきた。だから彼らの血を引く、現代のウズベク人は、あれだけ金品をたかるのが上手なのだ――。私はそれを聞いて、大笑いしたものだった。

 この説を私は先生に話したことがあるが、ぜんぜん受けなかった。それもそのはず、このテーマは先生にとって笑い事でない。

 お金に人々が群がるのは、ウズベクも日本も同じだ。ただ、ウズベクの方が露骨だ、ということは言えると思う。

 露骨であるからすぐ目に入るわけで、私は先生がボられたりタカられたり、ときには盗まれたりしているのを、傍らで数多く見てきた。数ドルから数千ドルまで金額はさまざまで、相手も赤の他人から友人から仕事仲間まで、ありとあらゆる範囲に及んでいた。

 その中から、今回は、ひとつの事件に焦点をあてようと思う。

 

 

 

 私が加藤九祚先生の仕事を手伝っていた時代、先生は年に二度ほど、発掘のためウズベキスタンを訪れていた。

 ただし、すぐに現地入りしたわけではない。発掘の前と終わった後の二度、先生は首都タシケントで数日を過ごすのが決まりであった。発掘の準備をしたり、書物を買いあさったり、友人たちと旧交をあたためたりするための期間だった。

 私がお供をしていた時期、先生はたいてい、あるウズベク人学者の家に泊まっていた。

 先生が訪ねていくのではない。先生がタシケントに着くと、空港に彼の息子が迎えに来ていて、そのまま学者の家まで荷物とともに運んでもらう。家に着けば奥さんの手によって、豪華な食事と寝床が用意されている。発掘に出発する日は、現場までの車が玄関にまわされるのである。発掘が終わったときも同様で、先生をコンベアーに乗せたように移動させ、世話をする手順ができあがっていた。

 先生はこのウズベク人学者一家に、文字通り、下にも置かないほど大切にされていた。

 ただ、うがった見方をしてよければ――この隙のないもてなしには「大事な大事な金の卵である先生をよそにやらないため」という意味合いがあったように思う。くだんの学者は先生の交友関係まで管理したがっていて、別の学者に先生が連絡をとったり、泊りがけで招待されたとなると、あまりいい顔をしなかった。

 当時、その学者の家は集合住宅が立ちならぶ区域にあり、三DKに夫婦と大きな子どもが三人の、五人家族で住んでいた。そこへ先生が私をつれて泊まるわけだから、実際のところ、かなり無理があった。私は何度もホテルに泊まりましょうと提案したが、先生は「用意してくれているのだから」と聞き入れなかった。なじみの場所だし、無理をしてでも世話しようというのだから受け入れたほうがよい、というのが先生の考え方だった。

 そのうちにその家の息子が結婚して、奥さんが同居するようになり、すぐに子どもができた。客が滞在するのは、無理を通りこして、物理的に不可能となった。

 もうさすがに先生を泊められない。しかし手元から離したくない。そこで一家のあるじは、もう一軒家を買うことを検討した。ちょうど近所に、手ごろな二DKが売りにでているのだと学者は語ったが、むろん、ただの相談でなく、先生も「出資」してくれという話だった。

 学者の家族はさしあたって住まないし、そのアパートを自由に使ってよい。そんな条件だったが、先生がタシケントで過ごすのは、年間合わせて二週間かそこらだ。ホテルでいいじゃないですかと言ったけれども、私の意見などよそに、先生は出資した。いくら出したかは聞いていないが、まとまった金額ではあったろう。先生はおまけに、上等な冷蔵庫も買ってやった。電気屋に行くとき私も付き合ったが、たしか八百ドルくらいだった。タシケント人の平均的な月収が百ドルか二百ドルの時分である。学者はおおいに喜び、「俺も冷蔵庫代を出すぞ!」と先生に百ドル渡していた。

 ひどいと思われるだろうか。しかし驚くなかれ、これは先生が彼に与えたものの、ほんの一部にすぎない。彼や彼の家族のために、先生が自腹を切って出す「思いやり予算」は、かなりの金額にのぼった。まあ、どうして彼が先生を独占したがったかという、参考にしてもらって、話を先に進めたいと思う。

 

 かくして学者はめでたく別宅を購入し、そこが先生のタシケントでの定宿となった。先生はときにはひとりで泊まったし、私とふたりで泊まることもあれば、先生が日本から連れてきた人たちとの合宿所にもなった。

 結果的に、先生は私たちお供にも宿を提供してくれたわけで、それには感謝しなければならない。なによりありがたいのは、充分なスペースとプライバシーが手に入ったことだった。私はタシケントで一人暮らしをしたことがあるから、バザールで買い物したり自炊したりするのは慣れっこだ。ついでに先生のお世話をするくらい、何でもない。いくら上げ膳据え膳でも、ウズベク人学者の家に詰めこまれるよりは、よほど快適だった。

 ただし夕食は、あいかわらず学者の家ですることになっていた。先生と私たちお供は、夕刻、指定された時間に家を出て、歩いて十分ほどの本宅に向かうのだった。

 

 

 

 忘れもしない、その夜のメインはマンティ(蒸し餃子)(だった。

 帰り際、奥さんは残ったマンティを持ちかえらせようとした。このとき別宅に泊まっていたのは先生と私だけだったので、マンティを大皿から景気よく袋に移す奥さんを、私はあわてて止めた。

 そんなに要らないと言ったが、奥さんは「大丈夫大丈夫」と取り合わない。「温めたらいつでも食べられるから」と言って、電気式のホットプレートまで出してきた。赤ん坊がその上で眠れるくらい大きな鉄板に、長いコードがついている。

「これで焼きなさい。すごくおいしいから」

「そうなんですか……」

 なんとか断れないかと私は頭を絞った。

 心づくしなのはよくわかるのだが、正直、ありがた迷惑だった。というのも、このころ先生はもう八十代半ば。足腰が弱ってきているうえに、帰り道は酔ってふらついたりしている。暗く、足場の悪いウズベクの夜道を、先生を見守りながら歩かなければならない私に、重い荷物はじゃまであった。

 こちらが思案しているうちに、先生は「よっしゃ、それは俺が持つ」と、横からマンティの袋に手を伸ばした。マンティなどそれほど好きでないくせに、「わあ、おいしそうだ、ありがとうね」などとはしゃぎ、奥さんと大げさな握手をしている。

 しかたなく私は、ホットプレートを受け取り、おやすみを告げた。

 帰りは、マンティを片手に下げて上機嫌の先生と、両手で鉄板を抱えた私の、のろのろとした道行だった。

 やっと別宅のある棟にたどりつき、エレベーターに乗りこむ。鉄板を抱えなおしたはずみに、電気コードがだらりと垂れて、閉まろうとする扉にはさまれた。

 いそいでコードを引っ張ると、ふたたび扉があいて、まるでコードの先にひっかかってきたように、ひとりのウズベク人がするすると入ってきた。身長も横幅もある大柄な男性だったので、エレベーターはいっぱいになった。彼は恐縮した様子で笑いながら、私たちに挨拶した。丸刈り頭の、三十前後くらいの若者だった。

 私たちの降りる階で、若者はいったん降りて先生と私を通した。そしてふたたびエレベーターに戻り、愛想よく手を振って昇って行った。

 部屋に入り、ホットプレートを置くとほっとした。私はもらってきたものを片付けたり、コップを洗ったりと、キッチンで雑用にとりかかった。

 すると玄関のブザーが鳴った。出てみると、さきほどのエレベーターの若者が立っていた。「この上の部屋の者だが、トイレが水漏りするので、おたくを調べさせてほしい」と言う。にこにこしながら、太った体を丸めて手もみをしている。まんまるの顔に、丸い鼻と丸い目がちんまりとついて、まるで体の大きなコメディアンといった感じであった。

 水漏れや断水は、集合住宅の日常的なトラブルだ。先生もあとから出てきた。私は作業の途中だったので、先生に応対を任せ、キッチンに戻った。先生はその若者をトイレに案内したようだった。

 すぐに、「おうおう、おうおう」という先生の声がした。人を呼ぶにしてはおかしな声だった。思わず手を止めると、また聞こえた。

「おうおう、おうおう」

 けげんに思ってキッチンから出てみると、先生はその若者に背後から抱きすくめられていた。

 否、若者は左手で先生をがっちりとつかまえ、右手に握ったナイフを、先生の喉に水平にあてていた。刃渡り十センチほどの果物ナイフであった。

 形相が変わるというのはこういうものか、さっきまで幼稚でさえあった若者の顔つきは、すっかり凶悪になっていた。仁王像のように顔をしかめ、くちびるを引き結び、鼻孔をひろげてフウフウと音を立てて呼吸していた。

 強盗なのだと理解するのにしばらくかかった。あまりに急激な展開に、脳がついて行かない。先生もまた、事態についていけておらず、強盗の腕に両手をかけ、目を左右におよがせながら「おうおう」と声をたてるばかりだった。

 強盗は、先生を人質にとったかっこうで私を睨みつけ、ドスをきかせた声で言った。

「ジーズニ・イリ・ジェンギ(命か金か)?(

 私はまだ頭がよく働かず、「ああ、強盗するときはロシア語でこう言うのだな」と、まるで見当違いなことを考えていた。

 彼がさらに声をはりあげた。「命か金か?」

 金という言葉に反応したのか、先生のようすが急にかわった。

先生は強盗に顔を向けて「シトシト(なんだなんだ)(」と問いかけた。最初は小さな声だったのが、興奮しはじめ、声が一気に甲高くなった。「なんだお前は! なんだ!」

 強盗は先生を黙らせようとしてゆすった。しかし先生は彼の腕の中で騒いでいる。強盗は唸り声をあげ、ナイフを握った手を振りあげた。

 おかげで私も金縛りが解けた。先生がこれ以上騒いだら殺されると思い、あわてて先生に飛びついて、先生の口を手でふさいだ。口をぱくぱくさせているうえに、口ひげがあるので、難しかった。先生の口ひげがブラシのように硬いということと、口ひげがある人間の口をふさぐのは容易でないということが、はじめてわかった。

 私は両手を使って夢中で先生の口を押さえ、強盗は胴体を抱きかかえ、ふたりがかりで先生を押さえつけた。

「先生、黙って! 黙って!」

 けんめいに訴えると、先生はやっと静かになった。

 私が手を離すと、強盗も身を引いたので、先生の拘束が解けた。先生はふらふらしながらなんとか立って、「はああ」とため息をついた。しょんぼりと肩を落とした姿は、無力な老人そのままで、それを傍らで強盗が睨みつけていた。

 私はようやく頭が働きはじめ、次に何をしたらいいかわかった。そこで強盗に「お金をあげる」と言って、回れ右しようとした。私たち三人は玄関を入ったところのホールにいて、私の背後にキッチンがある。そこに私の荷物が置いてあったので、行って自分のお金を取ってこようとしたのだった。

 すると先生は、心底おどろいたという顔をした。そして私に向かってぶんぶんと手を振って、日本語で叫んだのだった。

「おいっ、金は渡さないよ! 渡さないよ!」

 次いで先生は強盗に顔を向け、ロシア語で言った。

「若いの、俺を殺してもいいよ」

 私は、もう一度先生の口をふさごうかと迷った。けれど、強盗は先生の言葉に耳を貸さず、私をじっと見ている。お金を取ってくるべきと判断して、いそいで回れ右した。

 戻ってきて、ドルの入った封筒を渡すと彼は言った。「日本円もよこせ」

 私はまた自分のスーツケースのところに行って、今度は財布を持って戻り、日本円をぜんぶ引き出して渡した。「もっとよこせ」というので、また戻り、スム(現地通貨)()もかき集めてきた。

 彼は言った。「もっと出せ!」

「もうないよ!」私はウズベク語で叫び返した。

 ストックホルム症候群、というものがある。命にかかわるような事件の、犯人と被害者が互いに親近感を覚え、恋愛感情さえ持ってしまうというものだ。「そんなことがあるのだろうか」と問う人がいれば、私は自信を持って「あります」と言える。なぜならこの時、私はストックホルム症候群の、少なくとも予備軍ぐらいにはなっていた。自分の荷物のところに行き、お金を出しては渡すという行為をくり返すうちに、私は妙な気分になっていった。それは、どうしようもなく目の前の強盗に甘えてしまう気持ちだった。

 私はカラになった財布を見せながら、まくしたてた。他人相手でなく、家族と喧嘩するときの口調そのものだった。いくら強気に出ても大丈夫だ。この人なら、私の言うことをわかってくれるという確信があった。

「ほら、見てごらん、カラでしょう? ドルも、円も、スムもあげたじゃない! ぜんぶあげたの! わかった? ……なんなら、かばん持ってくるから、自分で見る?」

 強盗はひるんだように見えた。「ぜんぶあげたよ。もうお金がないよ」と私はくり返しながら歩み寄り、抱きつかんばかりにして彼の体を押した。いやもう、抱きついたのかもしれない。とにかく私は、玄関の扉を背にして立っている彼を、外に押し出そうとした。

 もうひとつ言えることがある。ストックホルム症候群になったからといって、調子に乗ってはいけない。なぜなら、症状はあくまで個人的なもので、相手もそうだとは限らないのだ。

 強盗は私に体を押されて、顔をしかめた。このとき私は、彼の大きな胴体に正面から寄りかかり、頭ひとつぶんは高い彼の顔を見上げていた。つまり、首を亀のように伸ばし、相手に差し出しているかっこうだった。彼は身をよじって私から離れると、「ウン」と気合を入れて、私の首にナイフの切っ先をあてた。

 こんな場面では、何が起こっても、どこまでも非現実的なものだ。私はナイフをよけようとは思わず、天井をながめて「ああ、私、死ぬんだな」と感慨にふけった。自分の首に、なんの抵抗もなくスッとナイフが入る光景が浮かぶ。「痛くないといいなあ……」

 しかし強盗は、じっとしている私をしばし眺めた後、ナイフを私の首から離した。

 彼は、私を殺す気がない。そのことに希望を託して、私はイスラム式に手を胸に当て、ウズベク語で哀願した。「ありがとう、ほんとうにありがとう。あなた、帰ってください、帰ってください、お願い、お願い……」

 強盗は無表情に私の訴えを聞いていた。ナイフは胸の前で構えたままだった。すると、その腕に向かって先生がひょこひょこと歩み出てきて、相手のひじに右手をかけた。引っ張ったとか払いのけたのではなく、ただ右手を置いたのである。この動作で、まさか、ナイフを奪おうとしたのではあるまい。いったいどうするつもりだったのか――あとで聞いたら、先生はこのときのことをぜんぜん覚えていなかった。先生なりに、無意識に体が動いたのかもしれない。「いやだねえ。もう、そんなものしまいなさいよ」という声が聞こえてきそうな、先生らしい動きであった。

 なんであれ、先生の行為は相手を刺激してしまった。強盗は勢いよく先生の手を振り放し、先生に向かって何か怒鳴った。

 私は反射的にふたりの間に割って入ろうとしたが、間に合わず、あっというまに先生は強盗に突き飛ばされた。先生はキッチンにまでふっとんで、床の上にあおむけに倒れた。間髪を容れず強盗は私も突き飛ばした。私も先生のところまで飛ばされ、ドラマチックなことに先生の胸に飛びこむ形となった。

 強盗が逃げていく音がした。

 先生はキッチンの床にあおむけに横たわり、私は先生に腕枕されたかっこうで、やっと静まり返った家の中でじっとしていた。

「危なかったですね」「そうね」といった、あたりさわりのない会話の後で、しばらくしてから先生が尋ねた。「いくら渡したの?」

 私は頭の中で勘定して、「ドルで千ドルと、日本円は八万です。スムは……たぶん百ドルぶんくらいですか」

「返すからね」

「先生が弁償するのは変じゃないですか」

 先生はしばらく考えて、「じゃあ半分返すよ。滞在中のあんたの生活費も出すから」

「ありがとうございます」

 私は文字通り一文無しになっていたので、ありがたく受け取ることにした。

 ひとつ問題が片付いて、先生は黙った。予定にない出費のことを考えていたのだろうか。私も私なりに考えた。合計二十万円ほどで、助かったということは……。

「ねえ先生、私たちの命って、ひとり十万でしょうか」

「そうかね」先生は乗ってこない。たしかにあんまり面白くないので、それをしおに「そろそろ起きましょうか」と私は提案した。あんな大事件のあとだから抱き合っているのもいいが、キッチンの床では冷たすぎる。

 起き上がり、手を貸そうとしたが、先生はじっと寝ころんだままだった。そして言った。

「ちょっと、おなか見てくれる……刺されてないか」

「えええっ!」

 私はふたたび肝をつぶした。あわてて先生のセーターをめくると、シャツに血がにじんでいる。下着もめくると、おへその斜め下に、三センチくらいの切り傷があった。ありがたいことに深く刺された傷ではなく、突き飛ばされたときにナイフが当たったような浅いものだった。しかし傷は傷であり、腹部である。

「先生、怪我してる! じっとしてて!」

 私はあわてて近くにあったタオルを手に取ったが、イヤイヤこれでは汚いと思い直し、生理用ナプキンをとってきてパッケージを破り、傷にあてた。出血はたいしたことなく、重傷でないように見えるが、先生は何も言わず、寝ころんだままじっと天井を見据えていた。

 これは救急車か、と思ったが、救急車の呼び方がわからない。私は部屋を飛び出し、廊下をはさんだ向かいの家のドアをたたいて助けを求めた。

「先生が怪我したんです、悪い男が来て」玄関に出てきた顔見知りの女性に訴えると、彼女はこう答えた。「家に電話をしてあげる」

 つまり彼女は、この部屋のオーナー、ウズベク人学者の電話番号を知っているから、そこに電話をするというのだった。「怪我」のことも「悪い男」のことも何も尋ねない。後ろにさがって私を横目でうかがっていて、関わりたくないようすがありありであった。

 しかたなく礼を言って部屋に戻り、寝ころんだままの先生に毛布を掛け、枕をさせて、助けを待った。

 学者の本宅からは、急げば五分の距離である。すぐに誰か来ると思っていたが、なかなか来ない。十五分くらいして、電話が鳴った。出ると学者の奥さんだった。彼女はぼそぼそとした声で、先生はどうなったかと訊いてきた。自分で見に来たらいいじゃないかと思ったが、とりあえず状況を説明すると、息子がすぐに行くからそれまでドアを開けてはいけないと言われ、電話を切られた。しかし息子が来たのは、そこから二十分後、一家の主人の到着はさらに半時間後だった。

 どうやら、息子も夫も夕食のあと外出しており、奥さんが連絡を取るのに時間がかかったようだった。それならそれで、家族以外の誰でも呼んだらよさそうなものだ。先生が怪我したというのに、どうしてこれだけ待たせるのか。……その理由は、最後に奥さんが到着したときに明らかになった。

 奥さんは、やってくるなり、先生でなく夫の名前を叫んだ。そしてわめいた。

「あなたが警察につかまっちゃう!」

 つまり、ウズベクでは、私たち外国人を届けも出さずに自宅に泊めるのは違法なのである。もちろん、見つからねばいいわけで、大勢の人がやっているのであるが。

 まずいことに、このときは、彼が出世したばかりであった。奥さんとしては、夫が逮捕され、名誉がはく奪され、一家が路頭に迷う悪夢を思い描いたのだろう。

 さらには、加藤先生は大統領友好勲章だの名誉市民だの、いろいろと授与されているウズベキスタンのVIPである。強盗殺人未遂となれば、どれくらいの罪になるか想像もつかない。したがって、この事件に他人を介入させるわけにはいかなかった。ましてや警察を呼ぼうとか、強盗をつかまえようといったことは、少しも念頭になかったのである。

 少し話を戻す。私は言われた通りドアに鍵をかけ、先生のそばで待機していた。

「薬、オロナインしかないけど塗りましょうか」と尋ねると、「いや、いい」と先生は小さく首を振った。いかにも、放っておいてくれという調子なので、私はそうした。

 息子がやってきても、先生は変わらず寝たままでいた。息子のほうも、口を半開きにして、毛布にくるまった先生を見下ろしているばかり。やっと気を取り直すと、携帯をとりだして、母親に電話をした。「先生はキッチンで寝転んでいる、目は開けている」といったことをながながと報告している。この悠長さに、襟首をつかんでゆすぶってやりたいくらいだった。

 しかし息子が電話を切って「もうすぐ父親が来る」と言うと、先生にスイッチがはいった。むっくり起き上がって、私にお茶の用意をするよう頼み、椅子に座って「やれやれ」と首に手を当てた。辛そうなので、私は先生の首や肩をしばらく揉んだ。その間「ベッドに行ったらどうですか」と再三言ったが、いっこうに先生は聞かなかった。

 けわしい顔でやってきた学者を、先生は笑顔で迎えた。「やあ、たいへんだったよ」と快活に呼びかける先生に、学者はどう応えてよいかわからぬ感じで目を白黒させた。それから気を取り直すと、横にいた息子に詰め寄って「お前は先生を送らなかったのか」などと凄むのだった。

 そうこうするうちに奥さんが来た。彼女は消毒薬やほうたいなどを持ってきていて、「いいから、いいから」と遠慮する先生を隣室に連れて行き、傷の手当てをした。

 私はキッチンに座ってぼんやりしていたが、学者がそばにきて私を見下ろし、尋ねた。「先生に何か食べさせたか?」

 おなかがすいていない、さっき夕食を食べたばかりだと言うと、彼は私をじろりと見て、「じゃあ、必ずあとで食べさせろ」と命じるのだった。

 手当が済むと、全員がキッチンに顔をそろえた。私がお茶をが配り、先生が事の顛末を語って聞かせた。私が「マルハマット(お願い)、マルハマット」と言いながら強盗を押したなどと、身振りを交えて再現する。それを親子三人が面白そうに聞いている。そのあと彼らは、先生とかわるがわる抱き合った。つまりこれは、死地から生還したギローイ(英雄)をたたえる、内輪の祝賀会なのだろう。先生はやたら張り切っているし、学者一家の喜びようも相当なものだった。私ひとりが、会を盛り上げることなく、その場で白けていた。

 学者が「今夜はここに泊まる」と宣言し、私は先生の部屋で寝ることになった。

 先生の部屋で着替えようとして、セーターが破れているのに気がついた。右腕が数センチ切られていたのだ。いったいいつ切られたのか、まるで覚えていない。

 おかしな話だが、私は傷を見つけてうれしかった。あれほどの経験をして、まったく無傷であるのは理屈に合わない。先生だっておなかを切られたのだから、私が負傷したのは正しい。そんなふうに思った。もう血は止まっていたし、痛くもないので、そのまま放っておくことにした。

 学者夫婦は私が助けを求めた、向かいに住む女性を呼び、居間でずいぶん長い間話をしていた。事情を聞くには長すぎる時間で、そもそも彼女はたいして知らないはずだ。口外しないよう説得したり嘆願したり、もしかすると口止め料の相談をしていたのかもしれない。

 

 ベッドに横になるとすぐ、先生はがあがあと鼾をかきはじめた。いつもに増して、さわがしい眠りだった。

 先生はときどき目覚めては、私に話しかけた。

 あるときは「いやだったねえ」としみじみ言った。「なんかねえ……うんちの海を泳ぐよりも、いやな経験だったねえ」

「そうですね、先生」と私は答えた。

 またあるときは、こう言った。「お金、盗られなくてよかったね」

「そうですね」

 先生は、自分が所持するお金を盗られないでよかった、と言っているのである。あのとき「金を渡すな」と叫んだのも、もちろん、自分の金を渡すなという意味だった。

 この夜、先生は現金で一万ドル以上は持っていたと思う。それはどうしても、守らなければならなかった。なぜなら、それは発掘に使う大切なお金であるから。――この夜に限らず、先生はいつだって、発掘のことを第一に考えていた。どんなときでも、それこそ強盗が目の前にいても、発掘ができるかどうかを考える、先生はそういう人であった。

 こんなことも言った。「あんたは、逃げなかったね」いったん言葉を切ってから付け加える。「あたりまえだけどね」さらに、誰に言っているのかわからない調子でつづけた。「あたりまえじゃないか。あんたが、逃げるわけないじゃないか」

「そうですね、先生」

 寝室にひとつしかないベッドに先生が寝て、私は段ボールと毛布を敷いて床に寝ていた。お互いの顔は見えなかった。ひとことふたことしゃべっては、すぐに鼾をかく先生に、私は機械的にあいづちを打っていた。

 目をつぶると、ナイフを振りかざした若者の姿があらわれる。私はまったく眠ることができなかった。暗闇の中で目を開けたまま考えるのは、しかし彼のことばかりで、強盗が今どこにいるのか、私のお金で何をしているのか、気になってしかたがなかった。

 

 先生と私は、行き当たりばったりに襲撃されたのではない。あの若者はこの建物のようすも、私たちが日本人であることも知っていた。エレベーターに乗るときのタイミングの良さからみても、私たちの行動パターンをちゃんとつかんでいて、待ちかまえていたようだった。

 計画的なだけではない。あの強盗は、若いにかかわらず自制心があった。勢いにまかせて私たちを刺したり殴ったりということはなく、「目的は金だけ」をつらぬいたプロフェッショナルだった。

 もしかして、あれが噂に聞く「マフィア」というやつだろうか。

 いや、それよりも、もと「警察」あるいは「軍人」ということはないか。ウズベク人たちは軍をこわがり、警察も信用しておらず、できるだけ関わるまいとする。私もタシケントに住んでいたとき、警官にいちゃもんをつけられたり、不当に金品をまきあげられたりした経験があるから、理解できる。先生は仕事で「軍」とも「警察」ともかかわっているし、それを考えれば、「もと」であるかどうかさえ、わかったものではない――。

 あれこれ考えながら、つい目を閉じると、強盗があらわれる。ナイフを構えた姿ならまだよいが、辛いのは、エレベーターの扉がひらいて入ってくる彼の姿だった。その光景が再現されるたびに、私は悲鳴をあげそうになった。

 私がコードを落とさなければ、扉は無事に閉まって、強盗は来なかったのだろうか。理不尽とはわかっていても、そう考えずにはいられない。何度も自問自答しながら、開閉するエレベーターの扉を見ているうちに、あの若者は警察とも軍とも関係ない、一般人だという気がしてきた。うまく説明できないが、鉄板やマンティと同じように、あの若者もごくごく庶民的で、身近なところからやってきたように思えた。

 単純に考えて――あの若者は、どこかで偶然私たちを知り、つけねらったのかもしれない。先生は人と会うのも買い物も好きで、タシケントのあちこちをせっせと回っているから、ありそうな話だ。しかし、偶然でないとしたら。単独犯でないとしたら。

 ウズベクは口コミ社会で、情報は人づてに伝わる。先生は友人が多いし、そのまた知り合いやら家族やらを含めたら、私たちが今日ここにいることを知っている者はタシケントだけでも百人くらいはいるだろう。その中の誰かが、あの若者とつながっているとしたら。

 あそこに、かねもちのにほんじんがいるよ。としよりとおんなだから、おかねをとるのはかんたんだ。でも、ぜったいに、ころしちゃだめだよ。たいへんなことになるからね。――もしこんなふうに、先生と私を「売った」のなら、その人物はきっとウズベク人だ。悪だくみは、おなじ人種間でなされるだろうから――。

 夜の闇が、私から、暗い思考をいくらでも引き出した。私は先生の知り合いをあれこれ思い浮かべた。「あの人ならやりかねない」と容疑者さえたてた。しょっちゅう顔を合わせる、先生の取り巻きのひとりなので、思わず身震いした。

 

 この集合住宅は、壁がやわで、互いの物音がつつぬけであった。ふつうの会話さえ聞こえるのだから、今夜の騒ぎは上下左右の部屋にライブ中継されたはずだ。しかし、住民たちは誰も助けに来なかった。強盗が去った後も、警察も呼ばず、ようすを見に来ることもなく、それぞれが家の中で息をひそめていた。動けばきっと、ろくなことにならない。そういう住民たちのおびえが、建物じゅうに充満している気がした。

 明け方になって、やっとウトウトしたとき、私は激しい腹痛と下痢におそわれた。先生が表現した「うんちの海」のごとき一夜に、ふさわしい幕引きだった。

 

 

あとがき

 

 この文章は、ウズベキスタンの国や人を批判するつもりで書いたものではありません。

 できるだけ詳しく書いたので生々しく感じられますが、ここに描かれている欲望、欲望に引きずられた行動、暴走、保身といった人の性質は日本でも見られるものです。

 

 私が書きたかったのは、私たちみんなの弱さと、そして加藤九祚先生の持つ「強さ」です。先生はいつも「他人のいいところを見ろ」と言っていました。実際に先生は、シベリア抑留の経験がありながらロシアを敬愛していましたし、この事件の後でもまったく変わらずに活動を続け、友好の姿勢を全力で保っていました。

 

 先生の中央アジアでの活動は、時として波風も立ちました。しかし先生は、譲るものは譲り、我慢するものは我慢して、常に目的に向かって歩いていました。どこに行っても人々と積極的に語り合い、乾杯し、大声で笑っていました。

 加藤久祚先生は大きな業績を残されましたが、ますます不穏で生きにくくなっていく現代において、先生の生き方もまた貴重な教えだと私は思っています。