寝られればいいや」と思って予約したホテルが、
想像以上に狭くて驚いた
——昨日話をした知人がそんな話をしていました。
期待していないつもりでも、
どこかで“自分の思い通り”になることを望んでしまうこと、
ありますよね。
そもそも期待って、結果次第で一喜一憂してしまうことで、
自分の心を少しずつ疲れさせてしまうものなのです。
寝られればいいやと思っていたのに——想定外の狭さに愕然とする
マラソン大会に出場するため、
知人は前泊用にホテルを予約したそうです。
「寝られればいいや」と、そこまで期待もせずに選んだとのこと。
そして当日、
ホテルに着いてみると外観は綺麗で、
フロントの対応も丁寧。
「思ったより良いかも」と、少し安心したそうです。
ところが、部屋のドアを開けると、
部屋の大部分をベッドが占めていて、
荷物を広げるスペースもなく、
着替えも荷解きもすべてベッドの上で行うしかないほどの狭さ。
「もともと期待してなかったけど、まさかここまでとは思わなかった」と
知人は苦笑いをしていました。
この話を聞いて、こういうこと、私もあるなぁと思いました。
「寝られればいい」と期待していないつもりだったけど、
心のどこかで「せめて荷物整理するくらいのスペースは必要でしょ」という
期待があったのだと思います。
その“密かな期待”が裏切られたとき、
私たちは、心の奥に小さな波を立ててしまうものです。
「期待していなかったのに傷つく」のはなぜ?
「期待してなかったのに、がっかりした」。
この矛盾した気持ちは、誰でも経験があると思います。
実は期待していないようでいて、
私たちは
「これくらいは大丈夫だろう」
「これくらいは伝わるだろう」という
“最低限のライン”を自分の中に設定しています。
そのラインを下回った瞬間、
心は一気に不安定になり、
その落差が“がっかり”という感情を生み出します。
つまり、“がっかりした”ということは、
本当は
「期待していないつもりでも、どこかで密かに期待していた」
ということなのです。
期待は、相手に映した“自分の理想”
心理学的に見ると、期待とは多くの場合、
自分の理想を他人や出来事に投影している状態です。
たとえば、
「上司にはもっと理解してほしい」
「友人なら、察してくれるはず」
「パートナーなら、気づいてくれると思った」
それはどれも、“自分がそうありたい姿”でもあります。
裏切られたと感じるとき、
私たちが本当に傷ついているのは、
相手の言動ではなく、
自分の中で期待していた理想が崩れたからなのかもしれません。
期待を手放すとは、
他人に委ねた理想を、
もう一度自分のもとに取り戻すことです。
「こうであってほしい」を、
「私はこうありたい」に気づくことです。
結果をジャッジしないという生き方
「うまくいった」「失敗した」と、
私たちはついラベルを貼ってしまいがちです。
けれど本当は、どんな結果にも良い点と悪い点が含まれています。
どちらもあるのが真実です。
結果をすぐに良し悪しで判断せずに、
「自分はなぜネガティブに受け取ったのだろう」と考えてみると、
自分の思考の癖に気づくことができます。
そして、自分には見えていなかった、
ポジティブな側面が隠れていることにも気づきます。
どんな結果になっても受け入れられるのは、
“すべての出来事に良し悪しはない”という確信があるからです。
それは、あきらめではなく、
出来事のありのままを受け入れる力なのだと思います。
私たちは、思いがけない出来事に出会うたびに、
どんなふうに私は受け取るのか知ることができます。
そして、そのたびに、
自分がどんな期待をしていたのかに気づくことができます。
期待を手放すことは、
あきらめることでも、
何も感じなくなることではなく、
起きた出来事を、自分なりにありのまま受け入れようとすることです。
今日もまた、淡い期待をしていた自分に気づきながら、
少しずつ私自身を整えていけたらと思います。


