改めて、苫米地博士の本は、読み直すと得られるものが違いますね。

個人的には、「従空入仮、従仮入空」「自己の徹底肯定」「巨大な煩悩」というところが、なかなか面白かったです。

自己の徹底肯定とは、「煩悩の肯定」であり、「心や身体、今のありのままのその情報の肯定」のことだと思いました。

釈迦が、巨大なエゴイズムを持っていたという話も深いです。
たまたまこの方の



釈迦のエピソードなんかも聞いてると、「釈迦は案外煩悩あるな笑」とも思いました。


また、いわゆる「弱い自己」というのも、肯定する事で、「弱くない」と感じます。

言い方を変えれば、そこにエネルギー源や、進化のきっかけがあります。


心の闇や、いわゆるトラウマについても、僕はそう感じます。


それがあるからこそ、その人なりに「進化したい」「克服したい」と思うものもあると思います。


言い方を変えれば、それはエネルギー源です。

あとは、その闇に呑まれるか、呑まれないか。


本当のwant toをやってれば、関係ないとは思いますが。


あとは、それを娯楽にできるかどうかだと思います。


結論として言いたいのは、「闇、または地には、それだけのエネルギーがある」という事です。


あとは、使い様なのかな、と思います。

闇じゃなくシンプルに地なら、それは他者から見れば「信頼感」や「強さ」に繋がると思いますしね。



また、ボーッとすることで、want toが見えてくるという意味も、自己流ではありますが、少し理由の予測が浮かんできました。


これは、従空入仮、従仮入空の事だな、と思います。


苫米地博士は中観の事を「ほどほどに」と仰いますが、実は、中観って「巨大な」ものなんじゃないか、と今は思います。


この関数も持ちながら、また自分、ひいてはこの宇宙を楽しんでいこうかな、と思います。