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経済現象については、様々な説明ができるため、説明の仕方によっては、それぞれ違った認識になってしまう場合があります(経済学の右回り左回り)。国債発行という一つの行動も、様々に説明できるがゆえに、肝心なことが分からなくなってしまうこともあります。今回再度国債発行の結果の意味を考え直してみます。

 

政府が国債を発行し、財政出動するプロセスを再掲します。何度も書いていますので、簡単にその流れを書くと、①銀行の日銀当座預金を政府預金へ振り替え、②政府は政府小切手で企業に支払いし、③企業は政府小切手を銀行に持ち込み、銀行預金に変え、④銀行は政府小切手を日銀に持ち込み日銀当座預金を回復する。と説明されています。しかし、この説明を何度聞いても、狐につままれたようで、いつの間にか銀行預金が増え、いつの間にか銀行の日銀当座預金が戻っているという、いつの間に感のみが印象に残って理解をむしろ妨げてしまうのではないでしょうか。とりあえず結果だけ考えてみましょう。

 

結果、日銀当座預金に動きはありません。銀行の資産に国債が出現し、負債に銀行預金が発生します。この結果だけみれば、我々民間の貸し出しと何ら変わらないことが分かります。我々は、銀行のローンを組む際など、借用証書と引き換えに、銀行預金の新規発行が行われます。銀行に政府の口座はないと思いますが、国債も同じで、政府の借用証書である国債を銀行に入れて、銀行預金を新規発行したのと全く変わりません。上記、国債発行財政出動のプロセスを説明する際、「政府は、銀行から日銀当座預金を借りる」という言葉が非常に気になっていましたが、何のことはありません、結果だけ見れば、政府は銀行から、銀行預金を借りているのです。日銀当座預金を借りるの「借りる」は、本当に借りていて、日銀当座預金が増えているわけではありませんが、結果からの銀行預金を借りるの「借りる」は、明らかに「信用創造」であり、銀行預金の新規発行を意味します。つまり、国債発行財政出動のプロセスを次のようにも説明できます。

 

政府は、国債を銀行に提出することで、銀行預金を新規発行してもらい、企業に支払いをする。・・・A

 

この説明だと、いつの間に感は無く、国債発行とは、銀行預金の新規発行であることが意識できます。

 

以前にも書いたのですが、別の説明の仕方もできます。スペンディングファースト的な説明です。と言いますか、これが現実の流れではないかと考えるのですが。簡単に再掲しますと、①政府短期証券の発行により、政府預金を新規発行し、②政府は政府小切手で企業に支払いし、③企業は政府小切手を銀行に持ち込み、銀行預金に変え、④銀行は政府小切手を日銀に持ち込み日銀当座預金が政府預金から振り替えられる。この時点で、銀行預金と、日銀当座預金の両方が創造され増えています。⑤この増えた日銀当座預金で、銀行は国債を購入し、政府は日銀当座預金を政府短期証券の償還に使って消してしまえば、結果は同じです。前回記事に書いたのですが、この流れで説明すると次のようになります。

 

政府は新規に銀行預金と日銀当座預金(MS,MB)を発行し、企業に支払いをする。銀行は増えたMBで国債を購入する(MBは政府短期証券の償還に使われ消える)。・・・B

 

Aの説明とBの説明と、結果は全く同じなのですが、全く違う印象を持ちます。Bから見えてきたことは、「国債とは増えたMBを減らす行為である」という事実です。と言いますか、AもBも同じですが、この国債を日銀が買い取ればMBが元に戻って増え(Aだと新規発行)、再度銀行が買い戻せばMBがまた減る・・・というわけで、「銀行所有の国債=日銀当座預金=MB」に他ならないという事実です。ということで、AとBを融合しますと、

 

国債発行とは、銀行預金の発行であり、かつ日銀当座預金の発行と同義である。

 

と言えそうです。ものすごく当たり前になりますが、政府がお札を刷って企業へ支払っているのとも同義となります。ここまで理解したうえで、「国債発行とは新規貨幣発行と同義」だと理解している人はいるのでしょうか。もしいるのであれば、はっきりと言いたいのですが、前回、前々回の私の記事にある疑義です。

 

日銀による国債買い取りは、おカネを増やしたと言えるのですか??

 

私はどう見ても、政府が支出をした時点、或いは国債を発行した時点ですでにおカネは発行され増えており、国債か、日銀当座預金かという形を変えただけとしか見えませんが。

 

ということで、おカネとは何かが見えてきたような気がします。

最近の考察から、MMTとリフレ理論を融合し、出した結論を書いていきます。

 

おカネが増える瞬間はいつか?→政府が予算を執行した瞬間におカネは増える。増える=おカネの新規発行。

(民間の信用創造によるMSの増加は今回の論考外)

 

どれだけのおカネが増えるのか→「予算-税収」がおカネの新規発行額。

 

増えたおカネとは何か?→銀行預金と日銀当座預金(MSとMB)両方が新規発行され増えている。

 

→イメージとしては、政府が新規にお札を刷って、そのお札で民間への支払いを行っているのと同義。税金で回収されたお札はシュレッダーにかけて燃やす。「予算-税収」がおカネの新規発行額ということもイメージできる。

 

国債とは何か?→上記で増えたおカネを国債へ変換している(変換=おカネは減る)。個人向け国債であれば、銀行預金、日銀当座預金の両方が国債へ変換されている。銀行による国債購入は、日銀当座預金が変換されている。増えたおカネを国債に変換しているので、予算執行前のおカネの量へ戻る。ただし、多くは銀行による国債購入のため、MSは増えたまま減らず、MBが減って予算執行前にもどる。

 

つまり、国債の発行とは?→一度増やしたおカネを元の量へ調節する(減少させる)ために発行されている。と言える。

 

日銀による金融緩和策とは?→国債によって減少させていたおカネを元に戻す政策。国債を銀行から買い取っているため、MBが数字上増える。国債を定期預金とすれば、定期預金を解約して、普通預金に戻している行為。MSはもともと増えているので、変わらない。

 

日銀による金融緩和策についての私の疑義→政府の予算執行で、「予算-税収」分のおカネは、元々増えている。それを、国債に変えていただけ。その国債を元のおカネに戻す行為が、おカネを増やしたことになるのか?上記の通り、定期預金を解約したにすぎず、おカネの量を全く変えていないとは言えないのか?しかも、すでにMSは増えていて、MBしか変わらないが。

 

国債を日銀当座預金に戻す行為が、どのような効果があり、インフレをもたらすのか?→あえて言えば、放っておいても利息収入のある国債が、利息のない日銀当座預金へ変わるため、一生懸命貸し出しを増やさないといけないという方向性をうむかもしれない。手っ取り早い金融市場へのおカネの流入につながった可能性はある。ただ、ここは議論の余地があるかもしれない。

 

国債を元の日銀当座預金に戻すことが大きな効果を生むというのであれば・・・→そもそも国債を発行しなければいい。おカネを増やすのが目的なのに、おカネを減らす目的の国債発行は必要ない。予算執行時に、日銀に政府紙幣とか高額コインを入れれば、国債を発行する必要は無く、その場で日銀当座預金が増える。あるいは、日銀による国債直接買い入れも同じである。金融緩和を進めながら(おカネを増やしながら)、年間30兆円以上の国債を発行する(おカネを減らす)意味は全くない。矛盾した政策ではないだろうか。

 

おカネを増やす方法とは?→「予算-税収」がおカネの新規発行量であり、予算規模を増やし、かつ減税をすることでおカネは増える。上記でも書いたように、日銀には政府紙幣などを入れて、国債は発行しない。そうすればリフレ派の言うおカネの増加はできる。ただ個人的には、国債はおカネの発行と同義と考えているため、日銀の金融緩和策=国債を日銀当座預金に戻す行為そのものがおカネを増やしたわけではないと考えている。そのため、おカネを増やすためには、普通に国債を発行し、適宜日銀が買い取りすればいいと考えている。

 

リフレ派の「デフレは貨幣現象」という意見は?→上記考えで、「デフレは需要不足」と言う意見につなげることができる(同じ意味)。予算規模の増大、減税ともに、需要創出であり、また、景気刺激策でもある。それは、おカネの新規発行と同義ということになる。

 

J氏などは、まだまだ金融緩和が足りないようなことを言っているが・・・→金融緩和=おカネの新規発行、おカネを増やすという意味であれば、正しいと思われる。が、J氏が言っているのは国債を日銀当座預金に戻す行為をさしているため、おカネは増えていないというのが私の意見。予算規模の増大、減税で、真におカネを増やす必要があると思われる。繰り返すが、もちろんそれは、需要創出と同義である。

 

現在の財務省は・・・・→新規貨幣発行量を増やそうとしておらず、さらに、国債の償還というおカネを減らす行為をしている。さらに消費税増税で、民間の需要増加を阻害している。完全な反リフレ政策である。日銀の「異次元金融緩和」を隠れ蓑に使ったか、或いは共謀の可能性すらある。

 

以上、書きなぐり、間違いご指摘望む。

 日銀の金融緩和の目的は、おカネを増やすことにあったと思われます。おカネが増えることで、インフレに誘導しようという政策ですが、諸々考えているうちに、本当におカネは増えたのか?というのが疑問になってきました。

 

 日銀の金融緩和政策とは、日銀が市中銀行から国債を買い取り、日銀当座預金を新規発行して支払うことですから、当然数字上、日銀当座預金は非常に増えました。だから、おカネが増えたといえば増えています。さてここで、この状態を私なりに解釈して、もしかして増えていないのでは?という話を説明します。いろいろ反論はあろうかと思いますが、これは「経済学の右回り左回り」であり、結局同じことを言っているという話です。なので、現実をしっかり判断いただきたいと思います。

 

 銀行による国債購入と、それによる政府の財政出動は次のように説明されています。

①銀行が国債を購入する代金として、日銀当座預金が政府預金へ振り替えられる。

②政府の事業を請け負った企業に、政府小切手による支払いが行われる。

③企業は政府小切手を銀行に持ち込み、銀行預金が新規発行される。

④銀行は政府小切手を日銀に持ち込み、政府預金から、銀行へ日銀当座預金が戻る。

 

 このプロセスで、新規に銀行預金が発生し、MS(マネーストック)は増加しますが、日銀当座預金(MB マネタリーベース)は横滑りしているだけで変化ありません。日銀当座預金の額に変化がないため、全くピンとこず素通りしてしまうのですが、銀行にとっては、国債という資産が上澄みされているのがわかるでしょうか。もちろんその代わりに、銀行預金という負債を抱えたというバランスになっています。「国債発行は銀行から日銀当座預金を借りる」という表現のイメージから、銀行の「日銀当座預金+国債」は一定(国債を買い増せば、その分日銀当座預金が減る)と勘違いしてしまいますが、日銀当座預金はそのままに、国債分が増えているのです。

 

 銀行は、日銀当座預金と引き換えに国債を買ったはずなのに、なぜか、日銀当座預金はそのまま戻ってきて、国債が増えている・・・ということで、銀行は、戻ってきた日銀当座預金を使えば無限に国債を買うことが可能と説明されていますが、この説明の中身に疑問を持たなかったことが問題でした。

 

 前出の国債発行と財政出動のプロセスをどう眺めても、上記の疑問に答えるいい説明を、頭の悪い私にはできないので、MMTのスペンディングファースト的に考えてみます。

①政府は日銀に政府短期証券を持ち込み、政府の日銀当座預金(政府預金)を新規発行する。

②政府の事業を請け負った企業に、政府小切手による支払いが行われる。

③企業は政府小切手を銀行に持ち込み、銀行預金が新規発行される。

④銀行は政府小切手を日銀に持ち込み、政府預金から、銀行へ日銀当座預金が振り替えられる。

⑤政府が国債を発行し、銀行が購入する。銀行の日銀当座預金が政府預金に振り替えられる。

⑥振り替えられた日銀当座預金で、政府短期証券を償還する。(償還分の日銀当座預金が消える。)

 

 このプロセスも、前出のプロセスも、同じことをしているので、当然結果は全く同じことです。結果、日銀当座預金の額は変わらず、銀行の国債が増えています。この後出のプロセスを眺めていただくとイメージしやすいと思うのですが、国債発行のプロセスにおいて、最初から日銀当座預金は日銀によって新規に発行されて増えているのです。銀行にとっては、その増えた日銀当座預金を使って、④で国債を購入しているということになります。購入代金の日銀当座預金は消えてしまうため、日銀当座預金の総額は変わりませんが、銀行に国債が増えると言うことになります。何のことはありません。国債発行財政出動のプロセスとは、日銀が日銀当座預金を増やし、それを国債に変えているだけという結論になります。

 

 別の説明の仕方を紹介しましょう。これが一番理解しやすいです。本当はいけませんが、日銀の国債直接受け入れです。

①政府は日銀に国債を持ち込み、政府の日銀当座預金(政府預金)を新規発行する。

②政府の事業を請け負った企業に、政府小切手による支払いが行われる。

③企業は政府小切手を銀行に持ち込み、銀行預金が新規発行される。

④銀行は政府小切手を日銀に持ち込み、政府預金から、銀行へ日銀当座預金が振り替えられる。

⑤この増えた日銀当座預金を使って(残高を減らして)、日銀から国債を買い取る。

 

 これで、前出2つのプロセスと全く同じ結果になります。ですから、結論的に、国債発行財政出動プロセスとは、日銀による日銀当座預金の新規発行であり、その増えた分を国債に変えているだけと言うことになります。その上で、上の⑤ですが、銀行に増えた国債を日銀が買い取れば日銀当座預金が元に戻り、また銀行が国債を買い取れば、日銀当座預金が減るだけのことです。これわかるでしょうか。いわゆるリフレ派は、日銀による国債買い取りでおカネを増やしたつもりですが、すでに増えていたのです。その形を変えただけ。国債を定期預金だとすれば、それを解約して普通預金に戻しただけ。効果があったとしたら、ほっといても利息収入がある国債がなくなってしまったため、一生懸命貸し出しを行わないとダメだという効果のみです。おそらく、その影響で金融市場にはおカネが流れ、儲かるかどうか不確実な実体経済には余りおカネが流れなかった可能性があります。

 

 この考察を通じて再確認できることは、貨幣発行量=予算―税収 であり、当然おカネが増える瞬間は予算を執行した瞬間と言うことになります。リフレ派は、予算を増やし、減税しなければおカネが増えないと言わなければならないところ、ただの定期預金の解約を増えていると錯覚していたようです。財務省あたりは、それを十分理解していて増税を進めたかもしれません。

最近MMTを考えてきてひらめきました。そもそも、我々庶民の借金は返す必要はないのではないかと。まあ、某評論家によりますと、このようなピッカーン、ひらめいた!的な発言はしない方が良いそうですが、ひらめいてしまうと、ついつい話をしたくなるというものです。

 

MMTというわけではありませんが、基本的に自国通貨建ての国債はデフォルトしないのは当然で、デフレで需要が少ない時は、国債発行による財政出動が必要でしょう。私的にはこの話に何の違和感もありませんが、世間的には、超絶的なアレルギーをもって拒絶されます。未だに、「国債はいわゆる国の借金であり、返さなくてはならない。返さない、或いは新規にどんどん発行するということは、将来ににつけを残すこと」と信じられています。なぜこのように信じられているかというと、私は「借金は返して当然」という概念があるからと感じています。だから、国の借金(正確には政府の借金)も当然返さなくてはならないと無条件に考えるのはある意味当然かもしれません。したがって、この概念を覆すためには、民間の「借金は返して当然」という概念を覆さなくてはならないと考えた次第です。とは言っても、結論は「民間の借金は返さないとだめ」ですので、安心してください。

 

我々が、例えば住宅ローン等でお金を借りる場合、そのお金はどこから調達されるのでしょうか。このあたり解説している時間はないので、結論だけ言うと、どこからも調達はしていない、「銀行による銀行預金の新規発行」ということになります。つまり、誰かの預金に大穴をあけて、密かに持ってくるわけではなく、お金を作って我々に貸しているわけです。従って、誰にも迷惑をかけないので、「返さなくていい」のですよ。ただし条件があります。MMT的に言えば、「インフレにならない範囲で」という条件付きで、返さなくてよいということになります。

 

ちなみに、銀行からお金を借りて、返さなくていいということになったらどうなるでしょうか。私だったら、遠慮気味に、とりあえず100億円銀行から借りて、いろんなものを買いまくりますね。もちろん、十分お金があるので、仕事はしない・・・・。ということで、とんでもない需要増と、とんでもない供給低下を招くと考えられ、超絶的なハイパーインフレーションになることは明らかです。

 

だから、借金は返さなくてはならないのです。倫理的に「借りたものは返さなくてはならない」ではありません。インフレ対策として、身の丈に合った額しか借りられませんし、少しずつでも返済するという歯止めが必要なわけです。

 

MMT批判の中に、政府はインフレ時に対応できない的なものがありますが、これは民間の話でしょう。民間は借金を返さなくてもいいと言われたら、無制限にインフレを起こし制御不能ですが、政府はコントロール可能です。現実に、このデフレ期にもかかわらず緊縮財政という完璧なインフレ対策ができるほど政府は制御可能です。

 

といくら力説しても、やはり、借金は返さなくてはならないという信仰は変えられないかな。

私は、MMT(現代貨幣理論)支持者なわけですが(支持というよりは、MMTが提示している事実を事実として認めているだけ)、様々な人からこのMMTは批判されております。主な批判者は、主流派経済学者ということになるかと思いますが、といいつつ、私のような門外漢が、その主流派経済学者の理屈を明確に理解しているわけではありません。とりあえず、アベノミクスというか、日銀による国債買取でベースマネーを増やすとインフレになる、という理屈が現実経済では通用しなかったという事実は理解しています。

 

ということで、MMT的な事実と、主流派的リフレ派的な貨幣数量仮説的なデフレは幣現象的な考え方を融合してみて、それぞれの論者が仲良くなってほしい(大笑)と考えたのが本日のエントリーです。

 

まず、国債発行の意味を確認します。年度予算100兆円、税収60兆円のため、政府が40兆円の国債を発行し、市中銀行がすべて買い取ったと仮定します。おカネの流れは以下の通りです。

 

①市中銀行の日銀当座預金40兆円が政府預金に入金される。

 

②政府の事業を請け負った企業に対し、政府小切手が40兆円分発行される(この時信用創造されている=マネーストックMSが増える)。

 

③企業は政府小切手を市中銀行へ持ち込み、企業の口座に40兆円の銀行預金が発行される。

 

④市中銀行は政府小切手を日銀に持ち込み、市中銀行の日銀当座預金が政府預金から振り替えられる。

 

ということですので、国債発行自体、銀行預金(MS)すなわち“おカネを増やす”行為と同義であることがわかります。さらに日銀が国債を買い取った場合、

 

⑤日銀が新規に日銀当座預金40兆円を市中銀行へ発行する(=マネタリーベースMBが増える)。

 

となり、国債発行から、日銀の国債買取までで、MSとMBのペア40兆円分の「おカネの発行」ということになります。大事なのでもう一度書きます。国債発行から国債買取の流れは「おカネの発行」と同義となります。

 

実際にはスペンディングファースト(支払いが先)とのことで、MMT的には上記の流れは全く逆かもしれません。現実の手続き(政府短期証券の実際の発行額、償還する?しない?等手続きについて)の理解がないため、あくまで私のイメージを下記に記載します。政府の年度予算すべてスペンディングファーストし、あとから税金と国債で政府短期証券を全額償還すると仮定した(そんなことするかどうかも知りません)イメージです。先ほどの例と同様、年度予算100兆円、税収60兆円と仮定します。

 

①政府短期証券100兆円を日銀に持ち込み、政府預金100兆円を発行する。

 

②政府の事業を請け負った企業に対し、政府小切手が発行される(100兆円のMSの増加)。

 

③企業は政府小切手を市中銀行へ持ち込み、企業の口座に銀行預金が発行される。

 

④市中銀行は政府小切手を日銀に持ち込み、市中銀行の日銀当座預金が政府預金から振り替えられる(100兆円のMBの増加)。

 

⑤税収60兆円で60兆円分の政府短期証券を償還する(60兆円のMBとMSの減少、最初から考えるとこの時点で、差し引き40兆円のMB、MSの増加)。

 

⑥残り40兆円分の政府短期証券を償還するため、40兆円分の国債を発行する。

 

⑦市中銀行が40兆円分の国債を買い取る。市中銀行の40兆円の日銀当座預金が政府預金へ入金され、40兆円分の政府短期証券が償還される。(40兆円のMBの減少、最初から考えるとこの時点で、差し引き40兆円のMSの増加、MBはプラスマイナスゼロ)

 

⑧日銀が、市中銀行から40兆円分の国債を買い取る。市中銀行に新規に40兆円の日銀当座預金が発行される(40兆円のMBの増加、最初から考えると、差し引き40兆円のMB、MSの増加)。

 

という大変面倒くさい経過をたどった結果、40兆円のMBとMSの増加つまりMBとMSのペアの「おカネの発行」となります。これは、最初に書いた国債発行から日銀買取までの結果と全く同じです。もちろんそれは前提が同じだから同じに決まっているという話ですが、国債発行はおカネの発行と同義ということを、最初におカネを発行し引き算していくMMT的事実と同じということで再証明していると考えてもいいでしょう。そして、MMT的にいうと、予算額から税収を差し引いた額が、「おカネの発行額」という結果になるわけです。その分国債発行で賄われるとしたら、これも当たり前の話ですが。

 

さらにMMT的にこの経過を考えると、そもそも国債なんて発行する必要性はないことが予想できます。なぜなら、⑤までの結果と、⑧の結果がMBとMSのペア40兆円の増加で全く同じだからです。残りの政府短期証券を、40兆円硬貨とか、政府紙幣とか、永久無利子国債とかで置き換えてしまえば、国債を発行して銀行を絡ませる必要はなさそうです。

 

やっとここまで来て、貨幣数量仮説的なお話とMMT的な話を統合してみましょう。といいつつ、貨幣数量仮説の真の意味をよく分かっておりませんが、仮に、「デフレは貨幣現象であり、おカネを発行すればインフレ傾向になる」という明快な言葉に置き換えてみます。残念ながら、国債買取によるMBの増加だけでは、インフレは起きないということが証明されてしまいました。リフレ派的には、期待インフレ率の上昇から、投資が増えることを想定(MSが増える)していたと思うのですが、民間の自由な経済活動だけではMS増加が起きない環境下にあるということでしょう。ですので、MSもMBも両方できるだけたくさん増加しうる方法を考えてみましょう。

 

上記、MMT的(とわざわざ言うまでもありませんが)には「予算額-税収=貨幣発行額」となりますので、貨幣発行を増加させるためには2つの方法があります。

 

すなわち、予算規模を大きくするか、減税して税収を減らすか、どちらかか、両方です。

 

これは、予算規模の増額も、減税も、ともに景気を刺激する(需要を高める)という点で合目的であることはもちろん、貨幣創出によるインフレ傾向という理屈にも合致するということです。最低限、現在行われている、或いは行われようとしている、

 

緊縮財政+国債の償還+消費税増税

 

というのは、おカネを増やさない、或いは減らす方策です。リフレ派を含めた、デフレは貨幣現象という主流派経済学者からも本来反対すべき内容ではないのでしょうか。

 

上記かなり内容に誤りは多いかもしれませんが、とりあえず、書きなぐりました。

 元ブログ「彰の介の証言」から記事の転載をしています。衆愚政治とは言いますが、本当に悪いのは民主的手続きの担い手である国民なのでしょうか。なかなかそこに責任を押し付けるのはどうかなあ?と考えている私です。



 民意とは何か。わかりやすく、国民の多数決の結果であると多くの人が思っていますが、果たしてそうでしょうか。(以前のエリート論と民意がわけのわからない文章になったため、ある意味書き直しです。)  

 例えば、私が、「消費税増税絶対反対、アンケート結果からも増税反対が過半数を超えている。政府は民意を聞け!」と意見発信した場合、その文章はいかにもそれらしいわけです。しかし、そのアンケートに答えた国民というのは、日本の税制、財政、経済、その他を熟知したうえで、そう答えているわけではありません。それこそ、「日本の財政は火の車である。増税に反対というのはただ税金を取られるのが嫌なだけ。そんな内容のないアンケート結果を民意とは何事!」と言われれば、確かにそうかも・・・なんて思う方もいるでしょう。  

 私の民意に関する考えはこうです。国民の大半は、難しいことはわからないか、無関心です。馬鹿にしているわけではありません。過去のエリート論に述べてきたとおりです。すべての国民が例えば日本の政治や財政や経済についてペラペラ話し出したら、その方が気持ち悪いというものです。よく、国民はもっと政治について関心を持って、政策について考えるべきだなどとそれらしい意見を言う人がいますが、むしろ、そういう意見を発信する人間が、国民の中の少数派の政治マニア(エリート)であって、多くの国民は政治マニアではありません。そんな政治マニアでない大多数の国民にアンケートなどを取れば、なんとなく賛成か、なんとなく反対か、よくわからないと答えるにすぎないわけです。  

 したがって、それこそ消費税率を上げるべきでない、いや上げるべきだと言い合っているのは、国民のごく少数派の政治マニアがさらに2つに割れて論争しているだけであり、その定義が国民の多数決の意見とするならば、民意などとはとても言えない代物であると私は考えているのです。  敢えて私なりに民意というものを定義するのであれば、現在使われている文脈で民意というものを考えるのであれば、
私の意見、それが民意
としか、言いようがないと考えています。    
 
 例えば、私自身は、消費税の増税はするべきではないと考えています。したがって、私にとって、消費税増税反対というのが民意です。なぜなら、私なりに勉強して、それが正しいと信じているからです。増税するとさらに国民の格差拡大、貧困化につながると信じているからです。消費増税に賛成することは絶対に間違いだと信じていますから、アンケート結果がひっくり返ったとしてもそれを民意とは認めません。    

 という意見なので、本当は書きたくないのですが、その流れで消費税増税賛成の方にとっては、消費税率を上げることが民意です。消費税を上げないと、財政が成り立たない等々と信じているわけですから、それが日本の未来にとって良くないと信じているわけですから、それこそが民意なわけです。アンケート結果がどうであっても消費税増税反対を民意とは認めないでしょう。    

 少数の政治マニア(エリート)の論争が「民意だ!民意だ!」と叫びながら言論空間で戦われ、国民全体の多数決という定義での民意の奪い合いを起こします。そして、勝った方は「民意の勝利」「民主主義の勝利」「国民は正しい判断をした」等とそれらしく勝ち誇り、負けた方は、「衆愚政治だ(馬鹿な国民が誤った判断をした)」等と嘆くことになるのでしょう。民主主義の限界を、或いは、ポピュリズム的な政治動向を「衆愚政治」と大昔の偉人の時代から言ってきたと思うのですが、それはその実、上記のようなエリートによるただの敗者の弁に過ぎないというのが私の意見です。    

 しかも、自分の意見が正しいと思えば思うほど、いかなる方法を使ってでも民意を奪い、政治経済等をより良い方向に向かわせたいと思うものです。しかし、実は、全く正しくなく、どんどん国民を不幸のどん底へ陥れることもあるわけです。つまり衆愚政治の犯人は、衆愚たる国民ではなく、間違った自分の意見を強弁し強要する一部のエリートということになるのではないでしょうか。    

 昨今、自分の意見が正しいと思えば、あのヘイトスピーチも真っ青の暴言を平気で書き綴る人たちがいます。しかし、実際には私の意見も含めて、自分の意見が正しいのか、間違っているのか、それは神様しかわからないのですから(ある種の曖昧論)、もう少し謙虚になるべきとも思いますし、この駄文が謙虚にかこつけて攻めるだけの方々に対する批判になればと思います。
元ブログ「彰の介の証言」から曖昧論を転載しています。
信教の自由に対する私の屁理屈をご堪能ください。


 言論の自由と曖昧論言論の自由と曖昧論(2)の中の、「言論の自由を振りかざすな」とか「自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき」という言論も言論の自由は保障しているが、言論のレベルを下げている・・・とか、そんな私の屁理屈についてこられなかった方に、今度は、「信教の自由」にもひとコネして説明し、より偏屈な世界へ皆様方をお連れしたいと思います。  

 信教の自由は、日本国憲法第20条で、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する(後略)」とされています。  例えば、オウム真理教が世間からバッシングを受けていた時を考えてみます。麻原教祖の髪の毛1本1万円、ふろの残り水2万円、ヘッドギア100万円(具体的値段忘れましたので、たぶんこんな感じですみません)など、強引な金集めが世間から非難されることがありました。 この非難に対し、ああいえば上祐氏などは、

我々には信教の自由がある」・・・一段ロケット
そして「仏教だって戒名にいくら払っているのか?」・・・二段ロケット

という、二段ロケットで、世間をけむに巻いておりました。多くのコメンテーター・評論家などは、常識で非難するのですが、信教の自由があるといわれれば、基本的に反論できません。鰯の頭も信心と言われればそれまでで、基本的に自由とされているからです。さらに二段目のロケットを食らって、何も反論できていませんでした。  

 ただ、この一段目のロケット、屁理屈屋の私にかかるといろいろと疑問がわいてきます。  
信教の自由??、なにそれ??。

 信教の自由は、日本においては前述の日本国憲法で保障されています。ですが、当然、オウム真理教の内部に信教の自由などないではありませんか。

 わかります?  

 オウム真理教はオウム真理教という教えを守っていく宗教団体であって、オウム真理教の中で、「私、仏教がいいなあ・・」という信教の自由は存在しません。また、宗教はその性質上、布教活動をするわけですが、当然オウム真理教の信者になることを勧めるのであって、「信教の自由だから、仏教でもいいよ」という布教はありえません。またWikipediaによれば、信教の自由とは、信仰を変える自由も含みます。オウム真理教が信者の脱会や批判、それに絡む教団批判に寛容どころか、(無関係の人まで)殺人を犯したことはご存知の通りです。  

 つまり、オウム真理教そのものに、「信教の自由」等という概念は存在しないのです。わかりやすくオウム真理教を例にしましたが、一般論として、信者が明確な宗教に関して(オウム真理教と比べるのはなんですが)その程度の差はあれ、その内部で「信教の自由」は同様に存在しないのは当然です。  

 であれば、信教の自由とは何か。 それを規定する日本国憲法を、日本、あるいは世間と置き換えてみましょうか。日本において、日本国内において、「あなた方が、特定の宗教を信じて生活することを認めますよ」ということですから、信教の自由とは、本来、世間様(日本国民)の元にあり、世間様(日本国民)こそが発する言葉ではないでしょうか。「ちょっとあの人たちおかしなことをやっているけど、「信教の自由」があるんですから、認めてあげましょうよ」という使い方が正しいのではないかというのが私の意見です。発言主は世間様(日本国民)であって、決して、宗教団体自体ではなく、自発的に「俺達には信教の自由がある!!」と叫ぶための言葉ではないのではないでしょうか。  

 そう考えると、信教の自由というのも、日本国憲法には明確に「何人に対してもこれを保証する」と極めて明確に書かれておりますが、実に曖昧な概念であることが分かります。鰯の頭を含め本来どんな宗教活動も認められるはずですが、先ほどの世間様の言葉の中の、「おかしなことやっているけど・・・」の程度、線引きによっては、当然認められない場合があるということを含有しているのが「信教の自由」と私は考えるのです。  

 もちろんそれが行き過ぎて、権力が線引きを大きく変えることにより、様々な宗教を弾圧することもあるでしょう。そんな時こそ、「信教の自由があるはずだ」と世間様(日本国民)が立ち上がり、線引きの見直しを迫る必要があるのです。  

 ということで、宗教団体が、たやすく「信教の自由」を叫ぶのは、(本当の弾圧を除き)世間様(日本国民)に見放されつつあるのに、「俺たちの活動を認めろや!この野郎!」的なわがまま野郎の発言と同等だというのが私の意見です。残念ながら話の流れ上、このわがまま野郎的発言も、「言論の自由」が許してしまっておりますが・・・。  

 ちなみに、ああいえば上祐氏の2段目のロケットも私の屁理屈を使えば簡単に論破できます。過去記事に何度も書いてきましたが、これは駐禁症候群と呼ばれる(私の造語)批判テクニックです。仏教で戒名に何十万円も払うという事実を本人は批判的に話しているのですから、それと同様に、麻原の髪の毛に値段をつけること自体よくないことだと本人自身が認めている墓穴発言に過ぎません。「上祐さん、あなたのおっしゃる通り、仏教の金集めはおかしいですね。それと同様にあなた方の資金集めもおかしいですね。それを自らお認めになる上祐さんはすばらしい」と褒め殺して終了です。  

 私の屁理屈は宗教に近いのでしょうか。世間から、「お前の屁理屈はわからん!ネットから消えろ!!」と言われたら、「私にだって信教の自由と言論の自由があるぞ!」と反論させていただきましょう。
元ブログ「彰の介の証言」から、曖昧論の一部を転載します。
言論の自由に対する私の屁理屈をどうぞ!。

 敢えて問題発言調で話を始めたいと思います。  
言論の自由、これは日本国憲法第21条において保障されております。集会を開くのも自由、言論の名のもとに何を言っても自由、表現の自由は憲法が保障しています。  ということは、あの見るに耐えない、ヘイトスピーチ的なものも、憲法で保障されているのでしょうか?。表現の自由、言論の自由をことあるごとに訴えているメディア関係者は、特にヘイトスピーチに対して強く批判されているように思いますが、これって、何か矛盾していないでしょうか?。

 自分たちの表現は憲法が保障しているはずだが、ある種の考え方を持つ人たちの表現は規制されるべきだというわけですから。  もちろん、私的には矛盾しているなどと考えていません。憲法よりも優先されるものは、常識や慣習のはずです。法律論的にこういう考え方が正しいのかどうかは全く知りませんが、あの見るに耐えない行動としてのヘイトスピーチが、常識的に正しいこととは思えず、憲法の保障するものとは別物であると考えるからです。  

 ということになると、憲法の条文自体、「一切の表現の自由はこれを保証する」と実に明確に書かれているのにもかかわらず、そこには「日本や世界の常識、慣習、価値観等により一概に保証しない」という言外の「表現の規制」を内包していると考えることもできます。となると、常識?慣習?価値観?なんてものは、人により、国により、年代により、立場により、そして、その人の思想により、宗教により、人種により??、微妙に違うわけですから、明確な文面とは裏腹に線引きが難しく、実に曖昧で、結局運用次第としか言いようがないものだと言わざるを得ないわけです。  

 で、何が言いたいかといえば、あの明らかなヘイトスピーチならともかくも、あるいは逆にそれをも含めて、たやすく「言論の自由」などという言葉を発してはいけないのではないかと思うことです。言論の自由を害されると感じた場合、自分の言論が間違いなく常識に照らし合わせて常識なのか、公共の害になっていないのかどうかをちゃんと判断できるかどうか。言論の自由から明らかに逸脱していると感じたとき、間違いなくその言論が常識を超越して公共の害になっていると判断できるかどうか。あまりにひどい言論を見たとき、それをたやすく言論という土俵から追い出そうとしていいのかどうか。  

 昨今のいろいろな議論を見るに、言論弾圧だ、言論の自由だという言葉がよく飛び交っているのですが、私から言わせれば、結局のところ多くの場合は、
自分の言論は守られるべき、反対者の意見は規制されるべき
という文脈で使われていることが、あまりに多いと感じるのです。どちらかが正しい、どちらかがおかしいというわけではありません。自分なりにあまりにもおかしい言論だと思っても、あまりにひどすぎると思っても、言論の土俵から追い出さず、ただただ言論によって戦うしかないのではないかというのが私の考えです。そうでなければ、真の言論の自由は守られないはずです。普通の言論が、実は大いなる誤りで、ひどいと思われる言論の中に、本当の答えがあったらどうなのでしょうか。  

 無論、私の持っている答えは、言論の自由の線引きなど曖昧で正解がないということであり、より良い言論をもたらすための方策を持ち合わせるわけではありません。ただただ、自分の言論とも呼べない世迷言を、言論から追い出してほしくないがために、自分と意見が違っても、だからと言って言論から追い出すことはしてならないと感じるばかりです。
 元ブログ「彰の介の証言」から、記事を転載しています。デフレの時代というのが、無駄を省くという意味での人件費抑制圧力であることは明らかですが、現実には最も大事な商品やサービスの低下を招いているのかなあ?と感じています。でも、そんなことあまり感じなくなってマヒしているのがデフレ時代ということでしょうか?

  

 ブラック企業なんていう言葉が聞かれ始めてもうずいぶんな日にちが流れているような気がしますが、先日、今の世の中ってこういうものなのかなあ?と考えしまうことがあったため、いろいろと私の勝手な解釈も含めてご報告まで。  

 私はお金持ちなので(笑)、滅多にチェーン店的なお店や、ファミレス的なところに入って食事をしたりすることはないのですが(その手のお店の全てが私の口に合わないわけではありませんが・・・(笑、大見栄))、妻と、とあるショッピングセンター的なところへ行った時のお昼に、そこに出店している、とあるその手のラーメン店に入ることになりました。  

 日曜日ではあったものの、少し時間がずれているのに、結構な人だかりで、順番であれこれ30分くらい待たされたでしょうか。ただ、入る前から、私は、店のなかをのぞき込んでいて、気になったことがあったのです。何十人も入れるお店なのに、どうも働いている、いわゆるウェイトレスさんが一人しかいないのです。  

 順番が回ってきて、やっと店内へご案内となったのですが、そこで、あれ??っと思うことがありました。はいどうぞと指さされた、我々の座る席の隣の席も、一個離れた席も、ちょっと離れた席も、食事が終わったどんぶりやら何やらが、全く片付けられることなく、そのまんまになっているではありませんか。もちろん我々が案内された席は片付けられているのは当然ですが、何とも気分の悪さを感じてしまいました。  

 店内に座ってみて、客の見える範囲内で(厨房を除き)働いているのは、さっきのウェイトレスさんだけではなく、もう一人、できたラーメンなどを運んでくる人がいるのはわかりました。  

 基本的なウェイトレスさんの動きを見ていると・・・、次に呼ぶべき客が2人だとすると、2人席にそのままになっているどんぶりを片付ける、客を呼び込む、水を汲んで置く、会計の人がいたら会計する、注文をとる、またどこかの席のどんぶりなどを片付けて、客を呼び込む・・・の繰り返し。と、文字にして書けばたいしたことはなさそうですが、それぞれの作業にそれ相応の時間はかかるので、確かに客が去った席のどんぶりを片付ける時間なさそうです。その、もう一人の、ラーメン運んでくる人も、少しは片付けなどをやるのですが、すぐに見えないところに入ってしまっていたところをみると、もしかして、ラーメンづくりもしているのか、ご飯をよそったり、汁物や餃子の準備等の作業もしたりしているのかもしれません。まあ、よく働く二人だと感心してみていました。

 しかし、感心ばかりしていられません。先ほども書いたように、片付けるべき物がそのまんま、待ち時間も長い。だからウェイトレスさんもう一人雇って仕事を分担すれば、もっと回転するし、サービスも良くなると思うのだけど、こうやって少人数で人件費を抑えるのが当たり前の世の中になってしまったのでしょうか。あくまで余計な邪推ですが、このウェイトレスさんもただのアルバイトで、決して高い時給をもらっているわけではないでしょう。よく働くからといって、時給が相場の1.5倍、2倍ということも残念ながらなさそうです。  

 デフレの時代で何が起きているかと言えば・・・、お客は安くないと来てくれないので、単価を下げる。そのために経費を削減する。すなわち、人件費を削り、多少のサービスの低下も目をつぶる。どんぶりそのままなんて言うのは、基本的に客には関係ないので放置し、アルバイトのウェイトレスさんの仕事量当たりのお給金は下げる。給料が下がっている人が多ければ、安い物しか売れないので、さらなる人件費とサービス低下を引き起こす・・・。  

 私は経済学者でも経済評論家でもないので、そんな私の理屈に信憑性はありませんが、当たらずとも遠からずではないでしょうか。ところが、そんな風に、ウェイトレスさん仕事大変で可哀想的な物の見方でこの店を眺めていた私に、衝撃の事実が突きつけられたのです。  

 私はラーメン屋に入ったのにも関わらず、新メニューという豚生姜焼き定食を頼んだのですが、出てきた生姜焼きに愕然としてしまいました・・・・。  

 確かに私はお金持ちなので(笑)、そもそも普段から良いものしか食べていないわけですが(笑)、その生姜焼きの豚肉、もう残念としか言いようがない、切れ端の切れ端みたいな肉で作ってあって、添えられたキャベツは、シャキシャキならぬ、カピカピ?カヒカヒ?だったのです。味は・・・、味は決して悪くないですよ、若干私は味覚のストライクゾーンが広いこともありますが、食えないとか、不味いなんてことはありません。でも、生姜焼きという言葉から頭の中で想像していた物とは別物の、いかにも残念な物が目の前に出てきた時、ウェイトレスさんの時給の低下?、片付けもされないような店内環境?、いやいやそんなものではなく、商品そのものこそ経費削減の中心であって、口に入れた時の不快感さえなければ、それが一体どんな材料を使っていようが、どんな化学物質を使って味付けをしてあろうが、安さこそが最優先される世の中になってしまったのかなあということを、思い知らされてしまったというわけです。  

 デフレの時代と言われて久しいわけですが、給金が下がる、格差が広がる(特に新自由主義的施策を進めれば)、ブラックな職場が増える、等の問題が指摘されています。が、もう一つ、安さが第一の目的になるために、商品やサービスの質が落ちていくということが挙げられそうです。しかし、一見するとそれは、まるで無駄を省いたような、見た目は変らないような、味は決してまずくないような物だったりするわけで、つまり、まがい物や手抜きの横行を許しているような気がしてなりません。  

 それって、日本の物作りの歴史からはどんどん遠く離れてしまっているような、そんな思いにふけってしまっている私は、ただの贅沢な人間ということなのでしょうか??
 元ブログ「彰の介の証言」からエリート論の記事を転載しています。民主主義は民意の奪い合いです。しかし、民意とは何か。多くの場合、自分の主張が「民意」であって、国民全体の意見でも何でもないのですが、しかし、民主主義である以上、「民意」という言葉の奪い合いがおきます。エリートは無意識のうちに民意を奪うために、民意というウソを持って、民意を獲得しようとする。そんな民意を民意といって良いのやら、必要なのやら・・・・。




 昨今、原発再稼働中止や安保法案反対などのデモが各地で行われているようです。基本的に政府は、原発を再稼働する方向ですし(というか再稼働させた)、安保法案も通すつもりで審議しているのですから、これらデモを行うということは、当たり前ですが政府の方針に反対ということになります。そして、新聞やらテレビやらでは、このデモに対し「届かぬ民意」と表題を打っているところもあります。    

 民意・・・それを国民の意思とするならば、そして、デモ隊の訴えを、「届かぬ民意」と評するのであれば、デモ隊の訴えは、国民の声を凝縮したものということになります。むむむ・・・、でも原発再稼働や安保法案に賛成の人もいると思うのですが、その方々の民意は民意ではないのでしょうか。また、そもそも原発のことや安全保障についてよくわからない方もいっぱいいると思うのですが、それらを無視して「民意」としてしまっていいものなのでしょうか。デモをすることが民意とするならば、原発再稼働賛成派や、安保法案賛成派が、政府の応援のために大規模にデモを打った場合、「民意が届こうとしている」と評されるのでしょうか。    

 いやいやいや、たとえば、原発再稼働に関するアンケート調査によれば、再稼働反対の方が賛成の方を上回っているのだから、再稼働反対のデモを民意と評していいと考える方もいるでしょう。私がちょっと検索して出てきた毎日新聞のアンケート調査によると下記結果とのことです(リンク切れ)。  

  本社(毎日新聞)調査:川内再稼働に反対57% 毎日新聞は8、9両日、全国世論調査を実施した。11日に再稼働する見通しの九州電力川内(せんだい)原発(鹿児島県薩摩川内市)について、再稼働に「反対」との回答は57%で、「賛成」の30%を上回った。毎日新聞 2015年08月09日 22時32分(最終更新 08月09日 22時55分)  

 とりあえずわかりやすく、民主主義の原則にのっとり、賛成派の民意は無視して過半数をとった再稼働反対を「民意」としましょう。私が問題にしたいのは、再稼働反対と答えた過半数の人々のうち、一体何%の人が、原発について十分な知識を持ったうえでそう答えたかということです。原発の仕組みについてどれだけ勉強し、電力についてどれだけ勉強し、放射線についてどれだけ勉強し、自然災害についてどれだけ勉強し、多くの意見の違う専門家の話を十分理解して自分の頭でそれらを統合して結論を出した方が何%いるのか。    

 上記のような原発再稼働に関して猛勉強したうえで自分の意見を持っている方がどのくらいいるのか、もしこれが少ないとなると、根拠のない反対ということになり、賛成派の意見を聞いていないだけで、なんとなく流されている結果ととらえられても仕方ありません。数字には全く根拠はありませんが、想像するに、十分な知識を得たうえで反対している方は、どんなに多く見積もっても1%未満でしょう。それ相応に新聞やネットで知識を得たり、信頼できる知識を持った誰かの意見に賛同しているなどを含めても、これまた根拠はありませんが、せいぜい10%がいいとこだと思います。低すぎるという意見があるかもしれないので、勝手に倍したとしても、真剣に勉強して反対している方2割、なんとなく反対している方8割というのが現実ではないでしょうか。    

 私は思うのです。本来、原発を稼働させる、させないというような類の話は、極めて専門的であり、それを一般人に考え理解させて判断させるなど到底無理な話だと思うのです。基本的に福島であれだけの事故が起きたのですから、また同じことが起きてはいけないと思う人が多いのは普通に想定されるわけで、再稼働に関する考察なしに反対する人が当然多いでしょう。そんな専門性の高い問題における考察のない意見を「民意」という言葉に置き換え、あたかも「民意は正しい」という前提を作り上げてもいいのでしょうか。「届かぬ民意」・・・、非常にいい言葉ですが、残念ながら体制反対派のプロパガンダにしかなっていない言葉です・・・・    

 ・・・・・、まあ、ここまで我慢してこの文章を読んでいただいた方、申し訳ありませんが、以上トリック記事でございます。どうでしょう、もし原発再稼働反対派の方がこの文章を読んだら、「彰の介というのは、再稼働賛成派で、屁理屈をこねて反対派を攻撃している」と感じ、反論を考えながら読まれたでしょうし、再稼働賛成派の方が読んだら、「そうだそうだ、勝手に民意を語るな!!」と感じながら読まれたでしょう。再稼働賛成派の方には残念なお知らせですが、上記、私の考察が正しいとすると、アンケートにおける再稼働賛成に票を投じた方々の多くもさほど原発の知識を持って危険性について考察されている方は少ないでしょうから、反対派を批判できるものでもないし、まして再稼働が正しいという結果は全く導かれませんのであしからず。  

  ということで、所詮言葉の問題だと思うのです。 「民意」とは正しいことであるという思い込み、イメージがあり、「民意」によって政治は行われるという民主主義の前提があります。だから、賛成派も反対派も、「民意」という言葉を奪い合うのです。アンケート結果=民意であるとするならば、それを持って反対派は民意であるといい、賛成派は民意に根拠なしと反論し、さらにあくまで民意はアンケート結果ではなく選挙だと主張し、現政権を選んだのも民意だ!!・・・などということになるのです。    

 私が言いたいのは、上記のように専門性をもって賛成反対を声高く訴えている言論人たち、あるいは、デモのような行為に出る、行動力豊かな人たちを、ある種のエリートと考えているわけですが、このエリートの皆様方は、自分の意見の専門的レベルでの正当性がすべての国民に伝わるはずだ・・・と信じてしまっているということです。そして、アンケートのような曖昧なものであっても、賛同してくれた人々はすべてこのエリートと同じレベルで、専門的知識を共有できていいると錯覚しています。反対の意見の人々には、知識もなく、なんとなく流れに流されただけ、もっと勉強しろ、あの言論人のデマに乗りやがって・・・的な発想に至るのですが、そんな姿を最近よく見ますね・・・。    

 しかし、実際には、多くの人にその専門性は届いていないどころか、無関心の人も大勢いるわけです。それは、エリート以外の人が勉強しないからいけないのでしょうか。無関心だからいけないのでしょうか。私はそう思いません。社会とはそういう人間構成で出来ているものであり、全員をエリートと同じレベルに上げるなど100%無理です。そして、全ての人をエリートと同じレベルに上げることを前提で事を進めることを全体主義と呼ぶのです(私論)。    

 私は、言論人は言論人で、みんなの見える言論空間で戦えばいいと考えており、その現場を見せることで、ほんの少しの人でも、知識を持ったり関心を持ったりすればいいと思っています。その中で、少しでも自分の意見をエリート以外に広めようと思えば、民主主義が民意の奪い合いである以上、それらしい、「いい言葉」を使って多少だましてエリート以外の人の賛同を得るのも、それはそれで許されると思っています。だからこそ、社会の代表層たる言論人は、責任が重大どころか、いつでも腹をかき切る覚悟で自分の意見を発しなくてはならないと考えているのです。    

 ということで、結論が自分でもよくわかりませんが(笑)、一つの結論は、私彰の介は、言論人ではない・・・ということで・・・。良い政策は、いい言葉、いいイメージのみから行われるものではないのに、民主主義ではそんなそれらしい、いい言葉を前面いだして宣伝し、エリート以外の票を囲い込むことが許されるという矛盾。私にこの矛盾を解くことはできません。人間社会は、どこまでも曖昧であるというのが結論でしょうか。