Scene160 愛しさは、ただ一人の心へと一直線に向かう光だ | ALOHA STAR MUSIC DIARY ディレクターズ・カット

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80年代の湘南・・・アノ頃 ボクたちは煌めく太陽のなかで 風と歌い 波と踊った。


前回のストーリー




光と影が、八畳ばかりの空間を、斜めに切り分け陣地を奪い合っている。影の支配が色濃く勝る応接間北側に置かれた一台のピアノ。僕はその漆黒の艶(つや)めきに、幼き李(リ)メイの面影を見つめた。


一九八三年九月十四日(水)中学三年の二学期、午後四時前――


「シーナ君って、やっぱりスゴイんですねぇ……もうなに泣いてんの、メイってば……でも、私も感動しました。もったいないですよ。こんなに上手にピアノが弾けるのに全然弾いてないなんて。ねぇメイ?」

茶色いソファにもたれ掛かって、車椅子の少女、倉田ユカリは、まつ毛に涙を潤(うる)ませる李メイの真っ白な肩先を、人さし指でツンツン突付いた。

時折、扇風機が首を振り、その都度いちいち舞い踊る薄いレースのカーテンを、斜め上から透過する目映い西陽に、黒いワンピースの膝の辺りを染められて、メイは「そうね」と頷いた。

けれど演奏中、僕にはメロディなんて何も聴こえていなかった。

ただ、川澄マレンの面影をずっと見つめていただけだ。

「あぁ、そうだ」

と、大きく手を叩いた倉田ユカリは、さんざん悩んだクイズの答えがいきなりひらめいた顔つきになる。

「メイもシーナ君も、こんなにピアノが弾けるんだから、バンドやればいいんじゃないの? ううん、絶対やったほうがいいよ」

(えっバンド? まさかメイとロックバンドでも組めっていうのか)

「私、昔からずっと、バンドで演奏するのが夢だったんですよね。まぁ、歩けないのもあったんだろうけど、音楽なら私にもできると思ってたの。だからね。もしちょっとでも楽器が弾けるようになったら、絶対に一度でいいからステージで演奏してみたかったの」

ユカリは小さな唇のあたりに、ハァーッと大きなため息をまとわせた。

「でも結局、バンドの楽器とかなんて私には全然弾けないから、ピアノやギターを上手に弾ける人がすごい羨ましくて……だから二人が私の代わりに……ね?」

半袖のYシャツ姿が、いっそう幼さを強調させるユカリは小首をかしげ、隣でうつむくメイの横顔を覗いた。

「でも、バンドっていわれても……」

釣り上がった両目の端に困惑を滲(にじ)ませるメイも、それ以上の言葉がすぐには見つからなかった。

突然の閃(ひらめ)きを、躊躇(ちゅうちょ)なく言葉にしていくユカリには、僕もメイも置き去りにされっ放しだ。

「でもさぁ二人だけじゃぁ、バンドっていうよりピアノ・デュオになっちゃうけどね」

前髪をクルリと指でねじりつつ、僕は笑って誤魔化そうとした。

「ワタシ、バンドとかやったことないし、できないよ……無理だよ」

メイは困ったような笑顔のままにユカリを見返した。

「大丈夫だってメイ! 今の私たちにできないことなんて何もないでしょ? もし中学生の私たちが、いま『できない』とかっていってたら、絶対になにもやろうともしないで、なんとなく、なんにでも『できない』って思ったまま、ただ歳を取ってくだけだよ」

開襟(かいきん)シャツの透き間に、微かな風がそよぎ込むのを感じつつ、そんなユカリの言葉に、なんだか僕はショックを受けた。

「私たち、まだ中学生なんだから、ホントはできるかもしれないのに『できない』なんて簡単にいわないで。メイたちには私なんかよりずっとずっと可能性があるじゃない。ピアノだって、あんなに上手に弾けるじゃない……それなのに何もしないで『できない』なんて、簡単に諦めないでよ……」

倉田ユカリは語尾を儚(はかな)くビブラートさせた。残暑に色めく陽射しを映す窓ガラスの向こうでは、ヒグラシが金属質な音色を高く震わせていた。

「ユカ……」メイは、指し伸ばす白い指先で、そっとユカリの震わすYシャツの肩先に触れた。

僕はピアノの椅子に座ったままで腕を組み、「車椅子のスポークに挟まれて曲がらなくなった」と、さっきユカリのかざした、少し折れ曲がった中指を思い返した。

バンドねぇ。全然考えたことなんてなかったけど、本当に今からそんなものが作れるんだろうか? 卒業まで、あと半年しかないっていうのに…………



――――大人らが鞭(むち)のように口角をしならす戯言(ざれごと)に煽(あお)られ、この二年半、ただ逃避のための言い逃ればかり繰り返す癖を知らずに覚えてしまったヤツらを決して笑えやしない。

僕にしたって、もしあの日、倉田ユカリにいわれなければ、無気力を装い、何もせぬまま穏便(おんびん)に中学時代を終えようとしていたはずだ。

殊(こと)に川澄マレンを失って、心のパーツがすっかり欠落していた僕には、恋愛感情なんて、もう全く不要なものに思えていた。

夏休みが終わり、彼女らと出会うまでは……

もし自分にとって一番大切な人であるなら、それが誰かは明白だ。

けれど二番目に大切な人が誰かは、いつだって曖昧(あいまい)で、一番大切な人を失えば自動的に順位が繰り上がるとかって単純な仕組みでもない。

そもそも愛しさは、ただ一人の心へと一直線に向かう光だ。

その光はあまりに純粋で、疑いようのないほどの信念を不器用なまでにほとばしらせて、ほかの何をも見えなくさせる。

けれど愛しい照射の対象が、ある日、突然消えてしまったとすれば、行き先をなくした光は果たしてどこへ向かえばいいのだろうか――

少なくとも僕の場合、彼女らの翳(かげ)らす心の闇に導かれ、「慈愛」という名の、愛しさとよく似た光芒(こうぼう)で、彼女らが遠い記憶の道端に落としてしまった微笑みを照らし出そうとし始めたのは間違いない。

時間でさえも癒せぬ傷を心に抱えて生きて来た、たとえば小山ミチコや浅倉トモミに、どこか惹かれてしまうのは、おそらくマレンを傷つけてしまったことへの贖罪意識(しょくざいいしき)が根底にあるからなのは否定できない。

たとえ、それがどんなに些細な思い込みでも、どれだけいびつに歪んでようと、心がひとたび盲信(もうしん)すれば、吸い取る色素の色合いに真綿(まわた)が容易く染まるよう、自分でも不思議なほどに、彼女らを救おうとする使命感が生み出されていく。

けれど李メイに対する想いだけは、そういうものではない気がするんだ。

川澄マレンがいた頃は、ほとんど感じなかったけど、九月に課外授業でメイと初めて話して以降、胸の奥から津々と湧き上がる、純度の高い恋しさが、心の近くに絶えずメイの横顔を描き出そうとしては、それを無理やり消し去ってきたような、なんだかそんな気がしてならない…………


一九八三年九月十三日(火)中学三年の課外授業、午後四時過ぎ――


――俺、ちょっと稲村ヶ崎で降りてくから、みんなは先に帰っていいよ……

暮れゆく山影に抱かれた極楽寺駅のホームで、さっき僕がそう告げたとき、だったらワタシも一緒に行ってもいいかな? と李メイが呟いた。

淡い喜びもつかの間、だったらさぁ、みんなで行こうよ、と林ショウカは、即座に田代ミツオや小山ミチコらに同意を求めた。

まぁ、さすがに二人っきりにはさせてくれないだろうとは思ってたけどね……


――稲村ヶ崎の駅を過ぎると、江ノ電はゆるやかに右カーブを描いて海岸線へと向かう。

緑色の車両を横目に見送り、僕たちは潮風がしっとりそよめくモダンな家々の立ち並ぶ住宅街の路地を、線路に沿ってしばらく進んだ。

狭い十字路を左に折れ、国道一三四号線へ出た途端、藤色に染まりゆく波紋を岸辺へ寄せる夕暮れの稲村ヶ崎の海原が視界いっぱい広がった。

「きゃぁ、すごーい。キレイだね」

と、林ショウカが思わず感嘆の声を、心地よい潮の香りへ捧げた。

海岸線を並走する江ノ電が、内陸へ折れて行く小動岬(こゆるぎみさき)と、淡い墨色を海に浮かべる江ノ島の、ちょうどそのあいだには、美しいほどシンメトリックなシルエットを濃密に充たした夕富士が、奇跡のように描かれていた。

琥珀(こはく)に黄昏(たそがれ)ゆく海の向こう、そんな幻想的な風景を見つめ、「本当にすごくキレイ……」とミチコも溢れる感銘の想いを夕風にそよがせた。

僕たちは砂浜には降りず、国道沿いの歩道を歩いた。

綿菓子に葡萄(ぶどう)の果汁を浸したような積乱雲の透き間からは、直線状の神々しい光の柱が無数に地上へ降り注いでいた。

気付けば僕の左隣に李メイが並んでいた。

――天使のはしご――

ふいにメイが金色(こんじき)の空へとささやく。

えっ、と僕は彼女の横顔を見やった。

まどろむ寝息のように穏やかな波音を湛(たた)えて揺らぐ薄紫の海を背景に、白い頬を夕影に染められて、メイはフッと唇を微笑ませた。

「あの光の筋はね、そういわれてるの。『天使のはしご』って」

「へぇ、なんだかいい響きだね」

彼女の見つめる瞳の先を見上げて僕も微笑んだ。

「あの光が照らし出す場所にね、子供の頃から、いつか立ってみたいってずっと思ってたの。あの光を、おもいっきりカラダじゅうに浴びてみたいな、ってね。そうすれば、きっと願い事が叶うんじゃないかなって信じてたから」

「えっ、李さんの願い事ってなにさ?」

優しい言葉の余韻に僕が問うと、メイは恥ずかしそうに目を閉じ、少しはにかんだ。

「シイナ君、ノストラダムスの予言って知ってる?」

「えっ、ノストラダムス? あぁ、一九九九年に人類が滅ぶとかっていうヤツね」

僕は一瞬首をかしげ、けれどすぐさま思い出したように笑って、夕映えに彩られるメイの横顔を見つめた。

メイは琥珀(こはく)に染まった横髪を長い指先でそっと後ろへ流すと、はにかんだままの瞳をふいに僕へ向けた。

「一九九九年って、ワタシたちがちょうど三十歳くらいでしょ? ワタシね、そのとき別に人類が本当に滅んでも構わないって思ってるの。けれどね……」

江ノ島の灯台には、キャンドルみたいに燈色(とういろ)の灯火がぼうっと浮かび上がり、瑠璃色(るりいろ)の海には、ほんのりと街明りが揺らめいている。

メイは灯火が一周するのを待ってから、途切れた言葉を紡ぎ合わせた。


――その瞬間だけは、絶対に好きな人と一緒にいたいの――


考えてみれば、彼女はまだ中学三年の女の子なのだ。

そうしたロマンティックな願い事を持ってたからって、何も特別驚くような話ではない。

けれど普段は、透き通るほどの涼やかさをその身にまとい、別の世界にでもいるような彼女から、そんな言葉を聞くだなんて思ってもみなかった。

そのとき僕がどんな顔をしてたかはわからない。けれど、きっとメイがおかしい? って質問したくなるような顔だったのだろう。

ふと気付けば、微笑むメイの向こう側を、七里ガ浜の穏やかな潮騒(しおさい)が浜辺に淡く揺らいでいた。

あの日、僕は勇気を出して、川澄マレンの大きなセーブルカラーの色味を帯びた瞳の中へ、最大級の告白をしたはずだったのに――

(最期の瞬間、いちばん一緒にいたい人か……)

僕の口からは自然と言葉が滑り落ちていった。

「俺の願いはね、もう一度、二ヶ月前のこの場所に戻ること、かな」

おそらくはさっきの僕と同じよう、少し不思議そうな顔をして、メイは涼やかな視線をチラッと向けた。

もし失ったものの大切さに気付かなかったあの日に、もう一度戻れるならば、もう決して手放したりはしないだろう。

川澄マレンも……そしてマレンと過ごすことになる、ずっとその先の未来も……きっと……

唇に街の明りを反射させ、静かにメイは僕を見つめた。

「マキコから聞いたんだけど、もしかしたら鎌倉に転校した彼女のこと?」

滔々(とうとう)と江ノ島の影を移ろう風に、あの日の光景を重ね合わせてぼんやり僕は呟いた。

「後悔ってね、時間とともに消えてくもんだと思ってたけど、なんだか違うみたいだね。別にそれ以上大きくもならない、けれど決して小さくもなってくれない。いつだって勝手に心を連れ戻そうとばかりするんだ。それが生み出されてしまった時間と場所まで」

「もう暗いからさぁ、とりあえず駅に向かうよ?」

ショウカが振り返って僕らにそう訊ねる。

「あぁ、もう帰ろう」

大きな声で僕は答えた。そして小さく呟いた。

「思い出をいくら探しに来たところで、結局何も変わりやしないんだけどね」

気付くと、メイの右手が僕の背中にそっと触れていた。

西のほうから秋めく夕暮れの風が海辺を吹き抜けてゆく。

いたわるように目を薄めてメイは訊ねた。

「彼女とは、もう完全に別れてしまったの?」

「そうだね。もし正しくいうんなら、離れてしまったんだろうね。きっとお互いの距離が……そして、たぶん心も」

薄暗い駅前通りに灯された、水銀灯の淡白い明りが生み出す林ショウカと小山ミチコの華奢(きゃしゃ)な影。数メートル先の路面にたゆたう二つの細いシルエットを踏まぬよう、僕らは同時に速度をゆるめ、ゆったり歩調を合わせていった。

「距離も、心も……」

メイがそっと繰り返した。

「まぁ俺が悪いんだけどね。実は彼女のお母さん、ずっと鎌倉の病院に入院してたんだ。そしたら、なんだか昏睡状態になっちゃったみたいで、意識が戻らなく なってね。そんなお母さんを毎日看病して、辛くて悲しい気持ちをひとりっきりで抱え込んでた彼女のことなんて、俺が一番わかってたはずなのに」

僕は口許に嘲笑(ちょうしょう)を浮かべた。

「彼女をどうにかしてあげたいって本気で思っていたはずなのに、俺ね、全然いいたくもない言葉ばかりを彼女に吐き出してしまったんだよ。本当にいいたかっ た言葉のほうはすべて心に残したままで、全然いわなくてもいいような、絶対いっちゃいけないような言葉ばかりを彼女にいってしまったんだ……」

ふいにメイが聞き取れないほどの小声で何かを呟いた。

えっ、と僕は確かめるよう振り返った。

「よかった。最後にシイナ君の悩みが聞けて」

そういってメイは優しく微笑んだ。

「そりゃさぁ、悩みくらい俺にもあるよ」

僕もフッと笑ってメイを見つめた――――


一九八三年十二月二十六日(月)中学三年の冬休み、午後七時半過ぎ――

雑木林に囲まれた薄暗がりの駐車場、林(リン)ショウカが、アニメ声を甲高く震わせた。

「もう無理だよ。お兄さんには勝てっこないよ、シーナ君」

腕立て伏せで地面を押しやり、海老のように腰を丸めて僕はどうにか立ち上がる。

黒いTシャツの肩越しに、僕は二人へ頬を歪(ゆが)めながらも、にっこり笑顔を作って見せた。

「お兄さんには勝てなくたって、絶対に守ってみせるよ。約束も……李さんも……」

そう呟くと、僕はリケンに視線を戻した。

「スイマセンねぇ、ちょっと考え事をしていたもので。いまのダウンもノーカウントでお願いします」

リケンは細いまぶたを見開いて、呆然と僕を見ていた…………


二発目でモロに食らった右ストレートの後遺症が、至るところを痺(しび)れさせ、拘束衣でも着ているのかと思わすほどに、身体がずっしり重かった。

力なく握った左手の甲で、冷えた唇の端を押さえる。そこにねっとり転写した血の色を眺めた僕は、さっきまでの僕とは違った。

すでに二つの拳そのものが鉄塊の凶器とさして変わらぬリケンの打撃を、もう一度受けたなら、僕は即座に意識を失くしてしまうだろう。

「ねぇシーナ君、もうやめときなって」

林(リン)ショウカの不安げな声をふたたび背中に聞いた。

たしかに傍目(はため)には、ただ一方的にリケンの攻撃を受けているだけにも映るだろう。

けれど僕は、この壮絶な痛みの深奥(しんおう)に、幼い彼らが、これまで長年に渡ってひたすら耐え続けてきた、不条理な世の中の残虐さを垣間見る思いがした。

この程度の痛みに耐えられなければ、これから先、李メイを絶対守れやしないんだって、なんだか勝手に思えてしまった。

そうした想いが愛であろうと、慈愛であろうと関係なく、僕がメイを……

「バカみたい……」

右肩の後ろのほうから、心をギュッと押し潰す、そんな沈痛な声色が微風にそよいた。

「お兄ちゃんもシイナ君もバカみたい。なんですぐに暴力で解決しようとするの。キエ姉ちゃんが死んだ日に、なんでムキになって殴り合わなきゃならないの」

僕の揺らめく前髪は、うつむく瞳を合わせてくれないメイの吐き出す白い吐息と同じほうへ流れて行った。

メイは青ざめた唇を昂(たか)ぶる感情に震わせていた。それが憤(いきどお)りなのか哀しみなのかは、月明かりを彼女が背負っているせいで、深々と影が隠した。

「ワタシを守る覚悟なんて……強さなんて……そんなもの要らない。ワタシのことなんか、もう守ってくれなくてもいい。だからシイナ君も、そんなものをわざわざ証明なんてする必要ないんだよ……」

「けどさぁ、シーナ君はメイのために……」

林ショウカが心配そうに、僕のPコートを肩に羽織った李メイの背中に右手を差し伸べた。

けれど横目でメイに見つめられ、ショウカの小さな掌は、紺色のコートに触れずに動きをピタリと止めた。

「ワタシなんかのために無抵抗で殴られ続けるなんてバカみたい。シイナ君も結局、お兄ちゃんと何も変わらないわ。暴力をすぐにそうやって受け入れて、それを全然否定しようともしない」

メイは口許を和(やわ)らがせ、平静を装うと、涼やかな眼差しを僕へ作って見せた。

「シイナ君、あのときの約束覚えてる?……『何があっても、絶対に誰かを傷つけたりしないから。ずっと普段通りの俺のままでいるから』って、そういったのよ。そうワタシとユカに約束してくれたのよ。殴られて傷ついている今の姿が、普段通りのシイナ君だっていうつもりなの? それに……そんな姿を見ているワタシが、こんなにも傷ついているんだって、なんでわかってくれないの……」

唇が震えるのを精一杯こらえながら、メイは微笑みを絶やさずリケンに目を向けた。

「もう心配しないでお兄ちゃん。ワタシはシイナ君となんか付き合ったりしないから」

けれど純白の頬を伝った涙ばかりは正直だった。

「ワタシはシイナ君なんて好きじゃないんだから……」

「李さん……俺は、そんなつもりじゃ」

僕が一歩近づこうとしたとき、メイは羽織っていた僕のコートを肩から脱いで隣のショウカにそっと手渡した。

そしてふたたび僕を見つめた。

それは潔(いさぎよ)く立ち去る側のものではなく、大切だった人の去り際を、じっと陰で見送る刹那さと虚しさを、隠しもしない置き去られた人の目だった。

――シイナ君なんて……もう全然好きなんかじゃない――

感情を押し殺したままにそういうと、突然激しく嗚咽(おえつ)を漏らしたメイは、僕とリケンの脇をすり抜け、両手で顔を覆ったまま制服姿で走り去った。

「あっ、ちょっと待ってよメイ!」

すぐ後を、僕のPコートを抱きかかえ、林ショウカが慌てて追い掛けた。

僕は駐車場の入り口を白々照らす街灯に、溶け込む李メイの後ろ姿を黙って見送り続けた。

メイは、僕と同じ苦しみを選ぶつもりなのだろうか。本当の気持ちと真逆の言葉を伝えてしまった後悔を……そんな後悔を無理やり心に押し込んで、キミも僕から離れて行ってしまうというのか…………


一九八三年九月十三日(火)中学三年の鎌倉への課外授業、午後五時半頃――

林ショウカと小山ミチコ、さらに田代ミツオが江ノ電の改札を抜け、藤沢方面のホームの先へと歩いて行った。

「ワタシのお父さんね……」

しなやかな曲線を描いた薄い唇を李メイはそっと開いた。

「ワタシが生まれる前から、いろんな仕事をしてたみたいなんだけど、何をしてたのかは、お母さんもあまり詳しく教えてくれなかった。ワタシが子供の頃から ね、ウチはずっと生活が苦しかったの。だから誕生日にどれだけ欲しいものがあったとしても『別に欲しいものなんてない』って、気付いたときには毎年ワタシ、そう答えるようになってた」

僕たちは駅員のいない七里ヶ浜駅の改札の手前で立ち止まった。

「けれど本当はワタシ、小学校に入った頃から、ずっとピアノが欲しかった。でも、そんなもの買ってもらえるはずがないことなんてわかってたの。小学二年生のとき、学校で七夕の短冊に願い事を書かされてね。そのとき、生まれて初めて自分の本当の気持ちを……ずっと抱き続けていた夢をね、その短冊に込めることができた」

ホームを照らす蛍光灯が、向こうのほうでこちらを振り返ったショウカやミチコの小さな顔を映し出している。

――その七夕の願い事が、文集になって授業参観日のとき配られてね、ワタシ、本当はお母さんにそんなのなんて見られたくなかったんだけど、結局、見られてしまったの。次の日、お父さんが仕事から帰ってくるとすぐ、ワタシを応接間に呼んで、『お前にピアノを買ってあげる』って、いきなりそういってくれたの。

最初は全然信じられなくって、何度も繰り返し『本当なの?』ってお父さんに確かめた。お父さんは笑いながらそのたびに『本当だよ』っていってくれた。ワタシね、その日はものすごく嬉しくて全然眠れなかった――

メイは一瞬黙り込んだ。

僕は懐かしそうに笑う彼女の横顔にそっと視線を向けた。

――二週間くらいして、ウチにピアノが届いた。ワタシ、本当に嬉しくって、お父さんに抱きついて『ありがとう、お父さん』って何度もお礼をいってね、お父さん、『お前には、今まで何も買ってやれなかったからな』ってね、そういってくれたの。

でも、それから数日後、朝早く、男の人たちが三人、家に訪ねて来て、お父さん、その人たちと一緒に家を出て行った。お父さんね、すぐ戻ってくるからって、玄関でワタシのあたまを撫でながら笑ってた。

お母さんはね、今度、お父さんは外国船で働くことになったっていったの。ワタシも学校の友達に、お父さんは外国で働いてるのよ、って最初の頃は自慢してたの。でもそれっきり、もうお父さんは一度も家には戻って来なかった――

憂いに沈んだメイの心を引き上げられないもどかしさが、歯痒く思えてならなかった。

――あのとき『ピアノが欲しい』だなんて、七夕の短冊に書いてしまったのをワタシ、ずっと後悔し続けてきたの。お父さんがいなくなってしまったのも、きっとそれが原因だったんだって思い込んでしまったのよ。

ワタシはね、本心じゃない気持ちをいってしまって後悔し続けてるシイナ君とはまったく逆でね、本当の気持ちを言葉にしちゃった自分をずっと責め続けてきた。ワタシはもう、欲しいものなんて何も望んじゃいけないんだって、そのとき決心したの。それにね――

僕は無言で藍色に染まる空を見上げた。

メイは、まるで群れをはぐれた子羊が、孤独に生きていくことを無理やり決意したような、儚いため息を吐き出した。

――ある日の夜、ワタシが勉強してるとき、普段、あまり使ってない机の引き出しの奥に、茶色い封筒があるのに気付いたの。なかには七十万円くらい、お金が入ってた。

その封筒にはね、お金と一緒にお父さんからのメッセージも入っててね、『このお金は、いつかメイが本当に欲しいものを見つけたときに使いなさい』って、そうひと言だけ書かれてた。

ワタシ、きっと何か良くないことして稼いだお金なんだろうなって、何となくわかってた。だけどお父さんがね……必死になってワタシのために手に入れてくれたお金なんだとも思えてしまったの。

だから誰にもいうことができなかった。警察にも、お母さんにも、今まで誰にもいえなかったの。だから共犯なのよ。ワタシもお父さんの……ね――

メイは閉ざし続けた想いのすべてを星の明りに打ち明けた。

「欲しいものなんて……もしお父さんがいてくれるなら、欲しいものなんて全部我慢できたのに……お父さんがいてくれるなら、ワタシ、ピアノなんていらなかったのに……」

そう、彼女のほうが僕なんかより、遥かに深い哀しみを抱え続けて生きて来たんだ。

あまりに深い哀しみは、時折、不条理なほど魅惑を伴う。

だからこそメイが湛(たた)える瞳の色の儚(はかな)さに、ドキッとするばかりの美しさを、時々感じてしまうのだろう。

「だったら俺も共犯じゃん」

そんな予想に反する僕の軽さに思わずメイが振り返る。

彼女は茶色い髪の毛は、あえかにそよぐ夕暮れの南風に揺らめいた。

「だって、その秘密を知っちゃったんだしさぁ」

僕はさらに悪戯っぽく声をひそめた。

「じゃぁ今度、そのお金で何か食べに行こうよ。そうすりゃ俺も完璧に仲間入りだろ」

ずっと近づけなかった光に、やっとしがみつけたような安らぎをメイは瞳に湛(たた)えた。

「心強いな。そんな仲間がたったひとりでも近くにいてくれると」

「せっかくだからさぁ、絶対美味しいものを食べようね。それに、きっともう……」

僕は七里ガ浜の夜空を煌(きら)めく星々に微笑み掛けた。

「きっと赦(ゆる)してもらえたはずだよ。だって、さっきちゃんと女神様が姿を見せてくれたんだから……」