今日友人がふとこんなことを言った。「なんでしまじろうは次男ではないのにじろうなのかなぁ」
それに対して自分はしまいちろうだと語呂が悪いからではないかと、とりあえず答えた。

しかし哲学を学ぶものとしてこんな答えは許されない。
やはりその問いに入り込み、内在的に批判しなくてはならない。

そこでまずwikipediaへ……
まぁ当然しまじろうは長男だった。(てか、しまじろうの名字って“しまの“なんだ………)
ではなぜしまじろうは長男なのに次男であることを(一般的に)表す“じろう“という名が付いたのか。
絶対に自己紹介したときに、「お兄さんいるんですか」と尋ねられるパターンである。
物心つく頃にはしまじろうは自分の名の不思議さ、異質さに気づくだろう。
そうしてしまじろうは以下のことを考えるようになるのではないか……

1) しまじろうの前に実は長男となるべき子がいたが………(この後は想像におまかせします)

2) “じろう”には次男ということ以外になにか他の意味がある

3) しま+じろうではなく、しまじ(色々な文字や意味の組み合わせ)+ろう
(例えば、死+馬路+ろう、や、詩+魔+辞+ろうなど)

ざっとこの3つである。

なんか面倒くさくなってきたので、続きは次回。
哲学についてはほぼ無知の状況(哲学専攻としてはかなり情けないが)を少しでも打破しようと夏休みに入って哲学書を読んでいるのだが、全然読めず、先に進まない。
何を言ってるのかわからないと思う以前に、読んでる途中で集中力が切れて、ただ文字を追ってるというダメなパターンに陥ってる今日この頃。
ここでは哲学書を読んだ感想や思ったことを徒然なるままに書いていこうと思います。
因みに今読んでるのは
純粋理性批判(カント)
時間と自由(ベルグソン)
時間の非実在性(マクタガート)
対話の哲学(村岡晋一:中央大学教授)
です。
集中力が切れ次第、他の本へ移行するという方法で、ちまちま読んでます。
大学も夏休みに入って、暇なのでマクタガートの時間の非実在性を読んでます。(もちろん原書で)今んとこ6~7割読み終わりました。
読了後には全訳を載せたいなと思ってます。
(まぁめんどくさいのでやらないかも)