生命とは「法」-南無妙法蓮華経と名付けられた「法則」-その自然科学的解析と、真の日蓮仏法の視点 | ラケットちゃんのつぶやき

ラケットちゃんのつぶやき

ブルセラコスチュームで、あちらこちらに出かけてます。
最近は、主に富士山麓の山に登ったときの、雄大な富士山と、自身の写真をつけてます。
ブルセラアイドルの夢を見ながら、日常の現実に対するいろんな思いを綴ります。


記事内の私のコスプレ画像は、富士山を望む雪頭ヶ岳で、セーラー服にヒットユニオンのエンジブルマです。

 

はじめに

 

自分は、死んだらどうなるんだろう。
みんな、死んだあとは、いなくなる。
どうなっちゃうのだろう。
だから、死ぬのは怖い、恐ろしい。

しかし、いかに生前に幸福を掴み、満足な人生だったと言い張っても、結局最後は死んでしまうのである。
この認識って、結果として不幸なのではないだろうか。

人だけでなく、蝶やバッタ、カブトムシ、
金魚や、犬、猫、生き物は皆、死んだら腐っちゃうしウジがわいたりする。
ウジ虫もハエになって、人に叩かれて死ぬ。
動物だけでなく、草や木も、花を咲かせて実を結んだあと、枯れてしまう。
死んでから、帰ってきた生き物は、見たことがない。

あなたも私も、生きとし生けるものは、どこからきて、どこへ消えていこうとするのか。

みんな、かけがえのない命。

そして、私たちはみんな、生きるために、他の生き物を殺して食べている。、
「いただきます」と「ごちそうさま」、
私が生きるために犠牲となったかけがえのない生き物に、祈りと感謝をしながら。

それなのに、
TVや新聞等では、世界各国で紛争や殺戮、自国でも人の死亡がほぼ毎日掲載され、食べ物も粗末に扱われ、我が国では年間数百万トンもの食料が破棄されているという。

すさまじい生命軽視の現状である。

言うまでもないことだが、生命とは何ぞや?とともに、死の解明・克服こそが、幸福への前提となる必要条件なのであり、これは人類史上、古今東西様々な先人が知恵を絞り云々されてきている命題でもある。

以下、解説・補足・追加などのコメント部分(*)を前記事にまとめております。
両記事を開いて、ご覧いただければ幸いです。

【第一章】

 

 生物学的には、一個の人間の肉体は、精子と卵子の結合により始まる。
授精卵が子宮に着床して妊娠が成立する。
母体から栄養を受けながら細胞分裂を繰りかえし、やがて胎児として出産となる。
その後も親から栄養を与えられ、新陳代謝を繰りかえし成長する。
同時に順次様々な教育を受け、社会的に適応しながら精神的にも成長して成人となる。
肉体・精神・社会的有様等、独自の在り方(個性や信念など)を貫き、思うがままに生命活動を営む。
やがて肉体は新陳代謝が低下するとともに次第に衰え、様々な事故に遭遇したり病気にかかりやすくなり、どこかの時点で肉体的、または精神的、または社会的、およびこれらが複合して、全体として適応できなくなった時点で、活動を停止する。これが人の死である。

 生涯を通じて生物学的に構成する物質も精神活動も常時変動しているが、一個の生命としての一貫性が貫かれている。

 更に詳細にみれば、
肉体は呼吸や新陳代謝にとって常に新しい物質に入れ替わっている。
原子レベルでは、一か月でほぼすべての細胞の中の物質が入れ替わる。
電子・素粒子レベルでは、一瞬一瞬入れ替わっている。
自分の肉体の物質は一か月たてば別人になっているが命は自分のまま。
肉体が変化しても、生命としての独自性は一貫している。

 思考や感情といった精神活動も、喜怒哀楽や学習・忘却などで、一瞬一瞬変わっている。
なのに、幼児のころからの性格や傾向性は年老いてもみられたり、自分自身という生命としての独自性は一貫している。

 つまりは、生涯を通じて肉体や精神の構成内容が何度も入れ替わり変遷してはいるが、一個の生命としての法則性が貫かれている。

 生命とはなんだろうか。
巷の霊魂不滅説は非科学的迷信であろう。

 確実に存在するといえるものがある。
受精前後や臨終前後では、質量の変化は一切なく、現象として見える活動は止まったりするが、「自分という法則」なら、確実に存在する。
自分を取り巻く環境から宇宙全体にわたり、確実に前後において存在し続ける。
つまりは、続いてきて続いていく唯一は「法則」である。
仏法では、この概念を「法身」という。

 自身と周囲を切り離して捉えること自体が間違っているのか。
自身と環境を一つの実態・一つの法則とみなすと、すべての現象をうまく説明できる。
目に見える現象世界から消えるものもあり現れるものもある。
これはすべてが原因として元から存在しているからこそである。
生まれるか死ぬかというのは、環境も一体として見た自分個人という法則が現象世界に現れるか立ち去るかという現象。
水面を境にすると、浮き出るか潜るかだけのことではないか。
全体としては元から存在しているということ。
これは、仏法でいう「生死不二」「依正不二」という概念である。

 現在の量子力学がこれを裏打ちする。
その生命を構成するモノはすべて、命あるものの肉体も、あたりに転がった石ころも、すべては空間であって、その中をすり抜ける大きさゼロの素粒子や光子・電子等の在り方だけで、形作られているだけである。
法則に基づいた重力・磁力などの場やエネルギーで占められているのみである。

 つまりは、そこには法則だけが存在し、すべては「法則のおりなす有様」なのである。(*1)(*2)


 一瞬の時点において、万物や生命を個別詳細に観察するに
素粒子から原子、分子化合物、DNA、単細胞生物、植物、動物、人類(文化的生物)、地球環境、ビッグバン宇宙、光や電波で観測できない範囲の宇宙まで、全ての万物について、各々に、
a)表面の観察様相
b)独自の性質
c)観察され得ない状態や性質も含んだ実体
d)内在する力やエネルギー
e)d)が内外に及ぼす作用
f)以上6つが次の瞬間の状態につながる内的原因
g)外部からの原因
h)以上2つによる内部への結果
i)以上2つによる表面化した結果
j)以上9つの要素が瞬間瞬間に常に同等に一貫して過去から未来へ続いていく。

 そして、それぞれの実体が自己および周囲とのかかわるあり方は
k)個別の内的世界の様相
l)周囲の自然環境の様相
m)周囲の集団としての環境(社会的環境)の様相

 こうした要素に分析すると、全存在は科学的な因果の法則に則って変わっていく、まさに仏法でいう諸行無常・因果応報である。
しかも、物体の内的作用と、外部に現れる現象作用は、見方は二方面だが実は一つの実態を見ている。
さらに、物体本体と、その周りの環境は、見方は二方面だが一つの実態を見ている。
そして、原因と結果が同時に一瞬に具わっていて、次の一瞬への因果へと続く。
これが過去から際限なく続いてきて、未来へも際限なく続く。
こうして、地球も宇宙も、一個の生物も人間も、現象世界に浮き出ては潜んでいく。


 原因のないところに結果はなく、結果があることは必ず原因がある。
モノの始まりを根源とするとそれ以前の因果を、終わりを設定するとそれ以降の因果を、それぞれ否定することになり、科学的道理に反する矛盾となる。

 これを帰納的に分析したら、
因果の法則は不変だから、物質については消滅してもまた発生する。(量子力学などで証明済)(*2)
自分という一個の生命は、生まれる前に原因があったからこそ、その結果としてこの世に生を受けたことになる。生があるから死ぬ、死ぬから生がある。死ぬ前にも生きていたという原因が厳然として存在するから死後も再び何らかの形(人間であるとは限らない)で生を発することになる。

 一個の生命が複数で発現することもない。
分離した時点で、各々別個の生命の発生である。

 試みて、因果を過去に遡ると、人類の発生、生命の発生、地球の誕生、ビッグバン宇宙の誕生、そしてそれ以前の発生していた無数の宇宙…
マイナス無限大(-∞)の過去に遡っても、その時点を観測すれば、現在と同じ法則に基づいた結果があって、さらにその因果はプラス無限大(+∞)に遡ることができる。
どこまでいっても∞
もし、こうでなければ、自然法則とはいえない。(誰かや何かにとって都合の良いコジツケである。)
つまりは、元々から、それらも個別の法則として存在し、-∞から+∞まで、因果を繰り返して存続していく実体なのである。(*4)(*6)

 私という生命も、私という法則、その有様。
私も、あなたも、単細胞生物も、分子化合物も、素粒子もすべて、天文学的過去の時点で無数の宇宙のどこかに存在し、ひょっとしたら縁をしていたかもしれない。
そして、その時点でも、-∞に過去があって、今は+∞にいく途中なのだ。(*4~*6)

なぜに私は私なのか。
なぜにあなたはあなたなのか。
なぜに人間は人間なのか。
なぜにゴキブリはゴキブリなのか。
(なぜに私の買った宝くじが当たらないのか…)
こうした万物の、現在における様々な差異・差別は、すべてこの因果の法則で説明が完結する。
すべてこの、-∞からの因果の現れであるから。
そして各々の未来も同様、すべてこの因果の法則で予測が完了するのである。
どれ一つとして同じものは存在しない。
何一つとして未来の結果は同じものはない。
だからこそ、すべてが尊厳なのである。
究極の生命の尊厳の法則。

これが、現象面での厳然とした科学的法則である。


何のために生まれてきたのか。
何のために、この因果を繰り返すのか。

 こうした意義、哲学的意味を考える上で、今再び万物のそれぞれを見ると、
一瞬の時点において、一個一個の素粒子から生命体は、以下のような感じ方・共鳴状態があることが分かる。

o)周囲や自身によって、縛られ圧迫され切り刻まれ焼かれ飛ばされ破壊され・・・など、無限のカオスの状態。純粋に熱力学の法則に従っているカオス。
p)自身の赴く先や周囲の行く末への道や営みが未だ達成されず軋んでいる状態
q)自身の赴く先や周囲の行く末へ、何の向上もなく、赴くままに流れを任せて運動・行動している状態
r)自身の赴く先が周囲の行く末よりも優位になろうと運動・行動している状態
s)自身の赴く先が周囲の行く末と摩擦がほとんどない状態
t)自身の赴く先が一時的に達成された状態
u)自身の赴く先の意義を求めようとする状態
x)自身の赴く先の、部分的な意義を洞察した状態
y)自身の赴く先を、周囲の目的や利益の為に方向転換して運動・行動している状態。これは同時に最高に自身を潤し成長させる。
z)自身が宇宙一切と完全に調和し、共振・共鳴・共感した状態で、すべてが完全に円くて滑らかで何の障りも摩擦もなく、それ自体で独自の、最高に充実した状態。

 これらの状態は、古典物理学でいうと、その瞬間の物体の速度に譬えることができる。
その状態は周囲から刺激を受けることによって瞬間瞬間移り変わる。
一瞬も止まる事なくo)~z)の間を変遷しゆく。
ただ、z)に至るのは稀である。
この一瞬の状態の各々につき、次の瞬間に移る「傾向性」がある。
o)~z)という傾向性である。
同じ刺激を受けても次の瞬間になる傾向性によって、同じ範疇の中で増強・減弱、また違った状態に移行する。

 これらはその瞬間の物体の加速度に譬えられ、未来の志向である。

 その積分は過去∞の因果の積み重ね(業)である。
その積分値は全結果を含んだ∞であるが、しかも今の一瞬という瞬間に表現されている。
そして、その一瞬の状態が次の瞬間への微分値も示し、それらが「因」となって、未来へ「果」が結びつつ、妙なる変化を続けていく。
この一瞬の状態に、-∞の因果と+∞への可能性が、全て在る。
これが観察上の時空を超えた、宇宙一切根源の法則である。

 奇跡と思える地球の、平和な日本に、人間として生まれ、元気に生きていられるのもすべて、
また、不幸な境涯に生まれたり天災地変や地域紛争に巻き込まれたり努力が見える形で実らない、また、身近では宝くじが当たらない、人から裏切られたりするのも、すべて、
積分値である果報が厳然として現れた結果なのである。
これらすべては素粒子のレベルで厳然と記録され、∞バイトメモリーとなっている。(*6)(*7)

 都合の悪いことはすべて、偶然・遺伝・不運・理不尽等々といって嘆き悲しみ、同情し慰め合うことで、一時的に癒し癒され忘れ去ることも可能だろう。
だか、それだけでは、永遠+∞にわたってこの流れのループから抜け出すことはないだろう。
すべては自身が積んだ果報が厳然として現れた結果であると、正しく受け入れてこそ、未来への一歩となるべき、現実に即した最適行動を起こすことができる。
否定・見込み違い・期待や落胆だけでは、未来の現実を変えられない。

 そして、その要点が「z)自身が宇宙一切と完全に調和し、最高に充実した状態」があるかぎり、-∞から+∞のどの瞬間でいかなる状態にあっても、その瞬間に適した最高の行動があるはずであり、その行動こそ生命として最高の状態(真の幸福というべき状態)である点なのだ。



 実は、仏法において、上記のa)~j)は十如是、k)~m)は三世間、n)~z)は十界であり、十界互具のことである。
以上は、一念三千の生命状態を、科学的な表現にしたものである。

 以下、一瞬に具わる一念の種類=一念三千を、仏法用語で再表現する。
一瞬の時点、全ての素粒子から原子、分子化合物、DNA、単細胞生物、植物、動物、人類(文化的生物)、地球環境、ビッグバン宇宙、観測不可能の宇宙、すべての万物について、各々に、
a)如是相:表面に現れた姿・形・振舞い
b)如是性:性質・性分
c)如是体:実体・本体
d)如是力:内在する力やエネルギー・潜在的能力
e)如是作:外に現れる作用・動作
f)如是因:内的原因
g)如是縁:外部からの原因
h)如是果:内部への結果
i)如是報:表面化した結果
j)如是本末究竟等:a)~i)が常に同等で一貫して過去から未来へ続いていく。
これらを十如是という。

 そして、各々の実体が自己および周囲との関係は
k)五蘊世間:個別の内的(肉体的精神的)世界
l)国土世間:周囲の自然環境
m)衆生世間:周囲の集団としての個人と環境(社会的な個人と環境)
これらを三世間という。

 生命それぞれの一瞬の境涯は、
o)地獄界:苦しみ悩む状態、周囲や自身によって、縛られ圧迫され切り刻まれ焼かれ飛ばされ破壊され…
p)餓鬼界:欲望が満たされないで苦しむ状態、営みが未だ達成されず軋んでいる状態
q)畜生界:本能の赴くままに行動する状態、何の向上もなく、赴くままに流れを任せて運動・行動している状態
r)修羅界:つねに勝他の念に捉われ、しかもそれが達成されないで蔑み卑屈になっている状態、自身の赴く先が周囲の行く末よりも優位になろうと運動・行動している状態
s)人界:生命として穏やかな状態、周囲と摩擦がほとんどない状態
t)天界:欲や目的が一時的に満たされた状態、一時的な自身の赴く先が達成された状態
u)声聞界:真理を求めようとして、他の教えを取り入れようとする状態
x)縁覚界:部分的な真理を得た状態、自身の赴く先の、部分的な意義を洞察した状態
y)菩薩界:他の生命の価値や利益のために自身の行動をする状態、自身の赴く先を、周囲の目的や利益の為に方向転換して運動・行動している状態。これは同時に最高に自身を潤し成長させることになる。
z)仏界:自身が宇宙一切と完全に調和し、共振・共鳴・共感した状態で、すべてが完全に円くて滑らかで何の障りも摩擦もなく、それ自体で独自の、最高に充実した状態。
以上を十界という。(*8)

 十界それぞれに十界が具わっている。
これを十界互具という。
そして十界x十界x十如是x三世間=三千世界が、一瞬の生命(一念)に具わっていることを、一念三千という。

一瞬の一念の中に永遠の因果と可能性を洞察し展開した、万物を貫く生命法則である。

十如是・三世間は、色心不二・依正不二・因果俱時を含んでいる。

全存在およびすべての生命はそれぞれ科学的な因果の法則に則って移り変わっていく、諸行無常・因果応報である。
肉体・物体の精神・内的作用と、その外部に現れる現象作用は、見方は二方面だが実は一つの実態を見ていて、これを色心不二という。
肉体・物体本体と、その周りの環境は、見方は二方面だが実は一つの実態を見ていて、これを依正不二という。
原因と結果が同時に一瞬に具わっていて、次の一瞬への因果へと続く。これを因果俱時という。


 一瞬の時点の境涯について、数学的に見れば、
十界は、それぞれの生命の速度であり勢いを示す。
十界互具は、速度の微分で加速度に相当し、噴出するエネルギーであろう。
その積分値は、過去の宿業の積み重ねとしての、現在に現れている厳然とした結果に相当する。
o)地獄界~r)修羅界は悪業の蓄積、
y)菩薩界は善業の蓄積。
おまけもなければ割引もなし、棚ぼたもなければ搾取もなし
すべて自身の行為の結果。
悪業は現世で報いきれなければ来世に持ち越し。
現世で恵まれるのは、過去世~現在までの善業の福運。
現世の不運・逆境は、すべて過去世から現在までの行為の結果そのもの(悪業)であること
だからこそ、利他行動によって善業を積むことが必要となる。
そのためのy)菩薩界である。

 生老病死の流れで、たえず肉体も精神も更新し続け、生死生死と永遠に流転、過去の宿業も未来の成仏も、三世永遠に更新する。
その独自の生命体は、一つとして同じものはなし。
それぞれに仏界を具えるからこそ、最高に尊厳なる生命なのだ。

 こうした自然科学的解析と境涯(幸・不幸という観点から)の解析は、
今世を超える範囲が科学的解析の範疇を超えるため、現実をすべて受け入れながら、純粋な科学的理論による法則を「信じる」しかない。
だからこそ、ここに、幸福を志向する宗教本来の意義がある。



 以上は厳密には、天台大師が解釈した理論上での展開である。
最高の生命状態(絶対的幸福)であるz)仏界に至るのは、現実には極めて困難である。天台大師は、理屈上では分かっていたが、観念観法によってこの困難を乗り越えて仏界に至ったと言われている。

 実は、-∞の途上の過去において、元々は一般の流転する生命状態だったが、最高の生命状態に至っていた生命が、たった一人ではなく無数にいた。(仮に、無数にいなかったとしたら、この法則は自然法則とはいえなくなる)

 この最高の生命状態・生命法則を、それから未来へ+∞の途上にあるこの宇宙の、この地球・人類史上で、インドの釈尊がこの法則を部分的に達観できる期間限定・対象者限定の法を説いた。これが原始仏教である。(*9)
その法の期限が尽きた時代(末法という)になると、地涌の菩薩が出現して、無期限・全ての対象者に有効なこの最高の生命法則を直に説くと予言された。

 その末法で日本の鎌倉時代に出現して、この最高の生命法則を単刀直入に説いたのが日蓮大聖人であった。先に広まった仏法を用いながらの展開となった。
説いた法則は日蓮大聖人によって「南無妙法蓮華経」と名付けられた。(*10)~(*16)

 「南無妙法蓮華経」という名の宇宙一切根源の自然法則を、両手を合わせて唱えることによって、一般人なら誰でも自身が前述のz)の状態・すなわち生命として最高の状態(真の幸福というべき状態=仏界)となり(即身成仏という)、次の瞬間がその瞬間に適した最高の行動へ結びついていく。
これはz)を基盤・背景としたo)~y)の境涯となるため、大宇宙の流れ・智慧・慈悲などのあらゆる価値的な情報と瞬間瞬間で結びついている。

 日蓮大聖人は凡夫の身分のままで、語るのは「最高の法則」原理である。
そもそも周囲は信じ難く理解し難い。(*17)
だから、煩悩の染まりのある周囲や国から、死に及ぶ迫害を何度も受けた。
その中で何度も何度も凡夫の身のままでこの法則を実践して即身成仏を繰り返し、その身に本仏の姿を顕されながら、「最高の法則」=「南無妙法蓮華経」という修行法を、弟子・檀那・煩悩に汚れた一般人に説いていった。

それは、闘病の途上、最後の最期までなされた。
池上邸の柱に衰弱した身を支えながらも、立正安国論を門下に講義されたという。

 大聖人滅後は、様々な日蓮門下が後継した。
だがその多くは、釈迦や大聖人を奉るあまり、釈迦もしくは日蓮大聖人のみが本仏であり、一般人は本仏を拝まないと成仏(この最高の生命法則)に至れないという、根本的に間違った外道の教えであった。(*18)
正しく受け継いだ日興門流でも、日寛上人以降は教学的に誤った血脈観が流れてきた。
その(日蓮正宗の)中から創価学会が出現し、創価ルネサンスを得て、再び真の理解に辿り着き、現在伝えていると思われる。
これを真の日蓮仏法といい、池田大作先生は○○本仏論に対して「人間主義」とも言っている。
しかしながら、創価学会にしても、教学的な再構築が完成しているとはいえない。
「日蓮大聖人に南無し…」というご観念文に、端的に表れている。(*19)
「仏敵」という言葉も、「仏」に特定の人物を想定しているからこそ、結果として暴力が生まれる。
会員の中には、たとえ中堅幹部であっても、未だ旧来的な日蓮大聖人本仏・マンダラ御本尊本仏と崇めて祈るだけ(救済を求める他力本願)で、具体的な現実行動を自力で十分起こさない人が多く、日本の創価学会組織としても伸び悩んでいるのが現実と言えまいか。


 

改めて言うと、この最高の生命法則は、崇める対象が、特定の本仏や本尊といった絶対者や創造主などではない。
あくまで「南無妙法蓮華経」と名付けられた「宇宙一切根源の法」を唱えることによって、一般人なら誰でも最高の生命状態(前述の仏界の生命)に至る(即身成仏)という法則である。
対象は御本尊というマンダラであるが、それは、仮想現実として説かれた法華経の虚空会の儀式の様子を、日蓮大聖人が「宇宙一切根源の法」と意義付けして描いたものである。

それは確かに、最高の生命状態・生命法則が描かれたマンダラであるが、あくまで自身の最高の生命状態を写す「鏡」の作用をするものであり、最高の生命状態(仏界=御本尊)は、前述のごとく元々自分自身に具わっているものである。(*20)
最高の生命状態が前面に出て具体的な行動を起こすと、現実が内外ともにその時点で最高に価値的なものに、科学的に変わっていく。(科学的にあり得ない事が起こるのではない)
これを、九界即仏界、凡夫即本仏、煩悩即菩提、信心即生活等という。

マンダラ本尊は、前記事でも指摘したが、この意味を理解した上なら、相貌に合ったように、いつだれがどのようにどんな方法で書き描いてもいいのであり、宇宙一切根源の法として相当なのである。
なぜなら、それはあくまで「法則」の一種であり、誰が書いても意味が変わらない・変わり得ない科学的な方程式であるからだ。
芸術的であっても下手であっても相当。意味は同じだからだ。
これに特別な意味や権威付けをすること自体が、真の日蓮仏法に背いている。

そして、その志向先は宇宙一切根源の法であり、仏界を背景・基盤にするから、具体的には「自他ともに」実現する「幸福」となり、菩薩の行動=慈悲から湧き出た利他行動を当然に伴っていく。

だから、行動を自ら起こさない限り、結果は出ない(現実は何も変わらない)のは、当たり前である。



 こうした宇宙一切根源の法則に立っていれば、未来永遠にわたって現実を常に価値あるものへ主体的能動的に変えていける。
様々な困難を克服し、種々の目標を達成し、崇高な使命を果たすことができる。
人生の最後の最期まで、こういった能動的な生命活動を展開できる。

たとえ志途上で最期を迎えても、生前の因果を確実に受け継ぎながら、肉体を更新した新たな生命として、また再び∞時空のどこかで出現し、妙なる営みを続けていくことを確信できる。
つまりは、後悔もなく、最高の人生を送りながらの最期(臨終)を迎えることになる。
これこそ真の「死の克服」といえる。(*3)


 最後の闘病の途上、池上邸の柱に衰弱した身を支えながら立正安国論を講義された日蓮大聖人も、この模範を示されている。
現実には、釈尊や日蓮大聖人も生身の一人間であるから、最後の病気は必然的に治癒に至ることなく最期を迎え潜在化するが、これこそが一生成仏の姿である。
その後は観測不可能だが、∞の時空で瞬時に次なる宇宙のある場所に移動して、次なる使命としての生を受けることになる。
 残念ながらこの地球に戻って来られることがないのは、前述したように、∞の時空で無数の宇宙があるからであり、次の生までの潜在化期間がいかに長期であろうと∞に対しては一瞬である。
そしてこれは、仏という特別な人の場合ではなく、一般人(凡夫)が、同じ「宇宙一切根源の法則」に立っていれば、同じような最高の生命活動を営んでいけることを示している。



 

【第二章】

 科学史や仏教史の詳細は他に譲るが、更に注意すべき視点がある。
「南無妙法蓮華経」というのは、あくまでこの宇宙のこの地球上の人類に限られた表現である。
別の宇宙の文化的生物の中では、別の表現になっているであろうし、我々人類の未来に、別の表現が出る可能性も存在するだろう。
創価学会でなく他の日蓮教団の中でも、一般の科学者の中にも、「宇宙一切根源の法」を修行する人がいる可能性もある。
AIが劇的に発達する未来には、南無妙法蓮華経に相当する「宇宙一切根源の法」が、仏法を全く使わない新たな教義体系の宗教として顕されるかもしれない。
その時、日蓮教団や創価学会は、これを邪教とするかもしれないが、理性があれば受け入れざるを得ないだろう。(*23)
(私はそうであっても創価を選んでいると思う)

 また、自然科学の限界として、生命各々の科学的分析は顕在化した今世のみに限られる。故に生命各々の全体的把握は、理路整然とした法則を「信じる」しか方法がない。
なぜ、マンダラに手を合わせて南無妙法蓮華経と唱題すると仏界がでるのか、そのメカニズムは?
南無妙法蓮華経は漢字だが、同じ意味であるサンスクリット語の「ナム サダルマ プンダリーカ スートラ」でもいいのか?
これ等の疑問を、当面はその通りと信じ受け入れることによって人知を越えた智慧を得る。
これを「以信代慧」という。

 「信じる」ことによって、宇宙一切が営まれている。
例えば鎮痛薬以外の、何の科学的効果もないメリケン粉内服や蒸留水の注射も、鎮痛効果がある時がある。
これはプラセボ効果という。
今世紀に入って、この現象は「意味反応」と名付けられて研究が続いている。
これは、対象がイワシの頭~絶対者・神仏・創造主まで、何でもいい。
サプリメントや健康法、種々の占いやカウンセリングなど、様々な対象にも適応できる。
「意味反応」は、何かの対象を「信じる」という行為が、物理的現象を引き起こす現象である。
まさに、「信ずる者は救われる」効果である。
当然に、対象によって効果の強弱や適応範囲が狭く限定されるから、悪い結果を招くこともあり、絶対的なものではない。
当然に盲目的で理不尽な(非科学的な)信仰・信頼は、悲惨な結果を招く。
詐欺師や悪徳集団を信じて行動した結果を想像したら自明であろう。
経済や社会活動においても、信じるモノや相手が信じるに値するかが問われている。
仮想通過・株・不動産・企業・人材・等々、信用度が常に変化する対象は、何を信じるかによって、現実が変わる。
だから実は、信じるものを選ぶこと、正しい信仰を持つ重要性と、信仰の在り方が問われている。
よこしまな人や対象を信じた結果の悲惨さは、前述のごとく、因果の理法に厳然と蓄積され顕然化するからである。

 それでは、信じる対象が、矛盾のない理論・正しい科学的道理に裏打ちされた法則であればどうであろうか。
それを信じる効果は、その実体が一部(生まれる前や死後などで)検証不可能でも、イワシの頭・ミントの粒から絶対者・神仏・創造主に比べてはるかに絶大な意味反応を、及ぼし続けるといえる。
適応範囲の限定はなく、その結果は時空を超えて、しかも、その一念の強弱にともなって連動する。

それが宇宙一切根源の法であれば、その一念は自分だけでなく周囲の環境(他者、社会、自然環境から宇宙全体)すべてに利益する行動へつながるはずだ。
つまりは、自他共の幸福へ、一切衆生(無機物から生きとし生けるもの)の幸福へと結びつく。
具体的には、野放図な欲望や自分勝手な行為がコントロールされ、周囲の人間へや社会への貢献行動となって、現実変革が実現する。
この波は社会的に広がっていき、様々な直面する困難な問題の解決、社会全体の福祉向上・地球環境破壊の抑制・国家間や地域の紛争の解決等に結びつき、人類の直面する様々な困難を克服、世界平和の実現・地球環境保存・人類全体の共存繁栄へと連動していくことは確かである。

信じる対象が、時空を超えて普遍的な「宇宙一切根源の法」であれば、その意味反応の結果が価値的にならないはずはないではないか。

この、普遍的な「宇宙一切根源の法」は、仏界という、自己の生命にある最高の価値的状態を明らかにしている、いわば最高の「生命の尊厳」の法である。
これがすべての生命に元々あるから、尊厳なのである。
尊厳の根拠を、生まれた国や住んでいる場所や社会的身分などに置かない、完全なる自由・平等の法則である。

これこそ、絶対的他者の存在という幻想にとらわれない、最高の生命尊厳の法則であろう。

意味反応は、信じる者が自らを救う反応といえるが、それ故、信じる一念の強弱に連動する。
日蓮大聖人も「ただし、ご信心によるべし」と指摘されている。(*19)
むろん、「宇宙一切根源の法」は、意味反応だけでは説明し尽くせない、妙なる、人智を超えた不可思議の法則であろう。

 むろん、現時点での、自分自身の生命に対する観測や見解、そして多くの先人や後継者による、人類全体としての生命に対する観測や見解も、既に完成されたものではない。
基本・根本は不変であるが、今後の絶えざる精進によって絶えずバージョンアップされていき、より深く、より解りやすく理論展開され、完成に向かっていく。
つまりは、いつまでたっても、どこまで行っても、永遠∞に未完成のままである。
その故は、たまたまこの奇跡の地球((*22)、因果の法則から見れば奇跡でも何でもないが)に反映した生命体自体に具わっている、「宇宙一切根源の法」への回帰志向・成長志向によるものだからである。

どんな混沌・困難な状況でも、実はその「宇宙一切根源の法」への回帰志向・成長志向の一瞬への顕れこそ、最高の幸福である=即身成仏の現象といえまいか。




世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし(佐渡御書P957)
一般に、人が恐れることは、火につつまれること、忍び来る刀剣、そして、自身が死ぬことである。


始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり(御義口伝P788)
初めて自分自身が元から仏の当体であると解る、これを大歓喜という。すなわち南無妙法蓮華経と唱えていくことは、自分自身の即身成仏であり、歓喜の中の大歓喜である。


ともあれ、どんなに理屈が正しくても、
現実は、ありのままに受け入れて、自分の力で変えていくしかないのである。
迷い多き中で試行錯誤しながら完成へ向かってひたすらに。
これが凡夫(一般人)、つまりは一切衆生の本来の姿(各々の原理)であるから。
そのための南無妙法蓮華経(共通の行動原理)である。
元々から、完成された姿(理想的な姿の神や仏、絶対者や創造主など)は存在しないし、それによる救いもないのである。

この視点に立てば、
現実逃避や罪の償いで死を選ぶことは無意味であるばかりか、その行動の機会も失って、有害そのものとなる。
∞の時空では次の誕生先候補である無数の宇宙があり、それがいかに長期の未来であろうと∞に対しては一瞬だから、一瞬が光り輝いていれば、一瞬で次の生を受け、こうして永遠に輝く。(*24)

善を修し悪を止め、バカ正直でも真っ当に生きるなら「生も歓喜」。
たとえ志半ばで肉体がついえても、一瞬先の誕生で因果を受け継いでいけるので、何の後悔もなく「死も歓喜」。
まさしく「生も歓喜・死も歓喜」なのである。(*25)