生命とは「法」、南無妙法蓮華経と名付けられた「法則」…解説・補足・追加などのコメント部分(*) | ラケットちゃんのつぶやき

ラケットちゃんのつぶやき

ブルセラコスチュームで、あちらこちらに出かけてます。
最近は、主に富士山麓の山に登ったときの、雄大な富士山と、自身の写真をつけてます。
ブルセラアイドルの夢を見ながら、日常の現実に対するいろんな思いを綴ります。

記事内の私のコスプレ画像は、富士山を望む雪頭ヶ岳で、セーラー服にヒットユニオンのエンジブルマです。

 

この記事は、

生命とは「法」-南無妙法蓮華経と名付けられた「法則」-その自然科学的解析と、真の日蓮仏法の視点

の各部分について、解説・補足・追加などのコメント部分(*)を、まとめたものです。
両記事のタブを開いて、ご覧いただければ幸いです。


(*1) その生命を構成するモノはすべて、命あるものの肉体も、そこら辺に転がった石ころも、すべては空間であって、その中をすり抜ける大きさゼロの素粒子や光子・電子等の在り方だけで、形作られているだけである。
法則に基づいた重力・磁力などの場やエネルギーで占められているのみである。

 因果の法則は不変だから、物質については消滅してもまた発生する。(量子力学などで証明済) その物質で構成されている生命はなおさら、複雑ななんらかのメカニズムで消滅してもまた発生する。


(*2) 仏法では、これを「法身」(ほっしん)という
各自の生命は各自の法身である。
家族、地域のコミュニティ、会社、各自治体、日本、世界の各国、地球、銀河、このビッグバン宇宙、観測外の宇宙、小単位から大規模の複雑系も含め、これらすべて、それぞれの「法身」という生命体である。


(*3) 精神科医キュブラー・ロス氏自身の臨死体験が含まれる著作がある。
「この光の源へ溶け込んでいく瞬間、すべての振動が止まりました。・・・これは、生きとし生けるもの全てのいのちの意識と、言葉では言い表せない愛の意識が宇宙に広がっていることへの気づきだったからです。」(P134~135 "ON LIFE AFTER DEATH "/(ELISABETH KŰBLER-ROSS), 「死後の真実」/(E・キュブラー・ロス著、伊藤ちぐさ訳、日本教文社、1995年)

(*) 釈尊は、涅槃経を残している。
布教の途上、供養されたキノコ料理にあたって急性腸炎になって倒れる。
しかし、供養した弟子・供養されたキノコ料理によって、最高の涅槃を顕すことができたと称賛している。


(*4) 因果を過去に遡ると、人類の発生、生命の発生、地球の誕生、ビッグバン宇宙の誕生、そしてそれ以前の発生していた無数の宇宙・・・
マイナス無限大(-∞)の過去に遡っても、その時点を観測すれば、現在と同じ法則に基づいた結果があって、さらにその因果はプラス無限大(+∞)に遡ることができる。
どこまでいっても無限大∞
もし、こうでなければ、原理とか自然法則とはいえない。(誰かや何かにとって都合の良いコジツケである。)
つまりは、元々から、それらも個別の法則として存在し、-∞から+∞まで、因果を繰り返して存続していく実体なのである。


(*5) 無限大(∞)とゼロ(0)について、
どんなに大きい数値でも無限大(∞)で割ればゼロである。
限りなくゼロに近い数値でもゼロ(0)で割れば無限大(∞)である。

数学上も物理学上も、同様の扱いである。

物体は立体であり、分割可能な体積や表面積や距離がある。
面は、長さや面積はあるが体積はゼロ。
線は長さはあるが面積や体積はゼロ。
点は、長さも面積も体積もゼロ。
ちなみに、素粒子は、分割不可能な扱いだから、大きさは点と同じである。

一瞬とは、厳密には、限りなくゼロに近い時間の期間ではなく、時間の長さはゼロである。

だから、どんなに長い期間の過去(たとえば五百塵点劫など)でも、有限の数値であるかぎりは、その時点から見れば、無限大の過去が存在し、また無限大の未来も存在する。
現在の一瞬と-∞から+∞までの関係は、どんなに長い過去に遡ってもどんなに未来であっても、不変である。
そして、知りうる歴史上の事実(法華経で説かれた話やビッグバン宇宙の誕生など)がどんなに長くても、有限である限り、∞に対しては一瞬の事実となる。

今の一秒も百歳の人生も、-∞の過去や∞の未来に対しては同様に一瞬(長さゼロ)となる。
だから儚いのではなく、だからこそ、この一瞬の一念における変革が∞の未来に対して意味あることとなる。
つまりは、永遠がこの一瞬に凝縮され、この一瞬が永遠へ拡大する。


(*6) 量子力学では、「量子もつれ」という性質がもたらす遠隔作用が存在し,2つの粒子が何の媒介もなしに∞の時空において同期して振る舞う。
たとえば角速度ゼロの素粒子から分離した二つの電子の各スピンはプラス1/2とマイナス1/2で、それらの距離によらず対になって連動している。
∞の空間でどんなに離れて存在していても、片方の電子のスピンを測定するだけで、もう片方の電子のスピンは判明する。
この測定において、2つの電子の間に、光速をはるかに超え、一瞬で一つの情報が伝達したことになる(非局所相関、EPRのパラドックス)。
これは、量子テレポーテーションや量子コンピュータ等、宇宙テクノロジーへの応用が期待されている。

この現象は、素粒子や生命が、測定されたこと(縁)によって、時空を超えて情報が伝わるという一例と考えられる。
宇宙の営みのすべては、こうして同期している。
繋がって連動している。
つまりは、私たちの生命(の複雑な情報)も、∞の時空において、一瞬ごとに(同期して)生成消滅を繰り返すことを示唆している。


(*7) そして、その情報は積分値である「業」として、素粒子内に記録され、同期している。
素粒子一つにも各々が記録され、その集合体である各々生命にも各々が記録され、観測外の宇宙も含め、全てが各々無量の∞ビットメモリーとなっている。


(*8) 十界の補足、物質~生命まで、考えられる状態や行為の例
o)地獄界:沸騰、臨界状態、爆発、核反応など、~天災地変、犯罪、病悩、戦争、
p)餓鬼界:内圧上昇、増大エントロピー、速度減少、~種々の欲望、欲求不満、限界効用逓減、
q)畜生界:物理化学反応一般、磁場・重力場や本能の赴くままの状態、~細胞単位から個体の代謝、弱肉強食、生殖行為、いじめ、ハラスメントなど
r)修羅界:膨張・圧力増大・速度上昇、すべての競争(経済行為、スポーツなど)
s)人界:物理化学的定常状態、一定速度運動、リラックス、癒し、平穏な状態、
t)天界:物理化学的定常状態に至った刹那、欲や目的が満たされた状態(一時的な刹那)
u)声聞界:学習、トレーニング、
x)縁覚界:理解、洞察、インスピレーション、セレンディピティ
y)菩薩界:共鳴、共振、集合、~共感、愛情、慈悲、布施、ボランティア、協調行動


(*9) ざっくりいうと、原始仏教は期間限定・対象者限定の一時的な悟りの修行法則であった。
限定期間は、釈迦滅後1000年までの正法と1000年から2000年までの像法のみ、
対象者は、過去世での仏法経験者(仏道修行の経験者(本已有善の衆生という))に限定されていた。
そして、法華経に至って、教えの効力が切れ、衆生が非対象者(仏道修行の未経験者(本未無善の衆生))で占める末法では、上行菩薩に、永遠の成仏法の流布を附属していた。

教えの内容も、仮想現実を使った比喩や方便そのもので占められている。
歴劫修行の末、初めて成仏できることや、様々な仏の姿も飾られた仮想現実上のものだったり、声聞、縁覚、また女性は成仏できないとされたりしていた。
これらは、例を挙げれば、天台大師の五時八経などの解釈、「摩訶止観」などに詳しいが、詳細は他の文献などを参照。




(*10) 至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して 闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、(当体義抄P513)
この道理は、名がなかったが、聖人がその道理を見抜いて万物に名をつけるとき、因果俱時の不思議な法則があり、これを名づけて妙法蓮華と称した。この妙法蓮華の法則は十界三千の一切法が含まれ、完璧な法則であり、これを修行する者は、即身成仏する因行と果徳とを同時に得るのである。聖人は、この妙法蓮華の法を師として修行したので、妙因・妙果を俱時に感得し、妙覚果満の如来となられたのである。

これらは、妙法蓮華の法を時空を超えた「宇宙一切根源の法」として名前を付け、「原理」として顕されている部分である。


(*11) 信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱えれば、凡身即仏身なり。是を天真独朗の即身成仏と名く。(本因妙抄P872)

「我が心本より覚なりと始めて覚るを成仏と云うなり所謂南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり」(御義口伝P786)
わが生命が元から、仏の当体であると、始めて事実の上に覚ることを成仏というのである。すなわち、わが生命が南無妙法蓮華経の当体であると始めて事実の上に覚る、御本尊に向かっての唱題である。


(*12) 今本門の即身成仏は当位即妙本有不改と断ずるなれば肉身を其のまま本有無作の三身如来と云える是なり、
此の法門は一代諸教の中に之無し文句に云く「諸教の中に於て之を秘して伝えず」等云云。(妙一女御返事(事理成仏抄)P786)
今本門の即身成仏とは、当位即妙・本有不改と決定されるのであり、凡夫の肉身そのままの姿で、本有無作の三身如来であるというのはこの事である。この即身成仏の法門は釈尊一代四十年余の諸教の中には説いていない。したがって天台大師も、法華文句の中に「諸教の中では、この即身成仏の法は秘匿して伝えていない」という。


(*13) 大強精進経の中に 衆生と如来と同じく共に一法身にして 清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文(当体義抄P511)
大強精進経の中に、「衆生と如来とが同じ一つの法則、清浄で妙なる比類のない、これを妙法蓮華経と称するのである」と説いている。
法身とは法則(真理)そのもののことをいう。


(*14)「五行とは地水火風空なり 五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、 今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり 是則ち妙法蓮華経の五字なり、 此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う 此を唯仏与仏・乃能究尽と云う、 不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る 故に即身成仏するなり 金剛不壊の体なり」(総勘文抄P568)
五行とは地水火風空である。五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時ともいう。これらは本来ただ一つの法則であるが、経々によって種々に説かれている。内典と外典とその名目が異なるだけである。法華経にはこの五行を解説して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。
 この五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。
 これを法華経方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「唯一、仏と仏とのみが、これを究め尽くしている」と説かれている。
 この法門は不退の菩薩も極果の阿羅漢を得た二乗も少しも知らない法門である。それを法華円頓の教えを信ずる凡夫は初心の位からこれを知ることができるから即身成仏するのであり、金剛不壊の体となる。


(*15)「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す」(総勘文抄P568)


(*16)「此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、 四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは 報身なり十界を形と為すは応身なり 十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て 寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり、 生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり 法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う、 此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり 之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり 是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり、
生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て 我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に 死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず 剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず 心法も縮まらず虚空の中に満つれども 虚空も広からず心法も狭からず」(総勘文抄P563)
 この極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体となったことをいうのであり、三身即一身の境界を示す。四土とは不二であり法身の一仏である。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身である。十界の他には仏はなく、仏の他には十界はない。依正不二であり身土不二である。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのであり、このゆえに無相の極理という。生滅無常の相を離れているゆえに無相といい、法性の淵底・玄宗の極地であるゆえに極理という。この無相の極理である寂光の極楽は一切有情の心性のなかにある清浄で煩悩を離れた境界である。これを名づけて妙法の心蓮台という。この故に心の他に別の法はない、これを知るのを一切法は皆これ仏法であると通達し解了するというのである。
 生と死との二つの原理は生死の夢の原理であり、妄想であり、顛倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただして見ると、そもそも生ずるという始めがなく、死ぬという終わりもない。つまり既に生死を離れた心法ではないか。劫火にも焼けないし水災にも朽ちない。刀剣にも切られず、弓箭にも射られない。芥子の中に入れても芥子も広がらないし、心法も縮まらない。虚空のなかに満ちたとしても虚空も広すぎることはないし、心法が狭ということもない。



(*17)「何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり 心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり 其中に識神をやどす 濁水に月のうつれるが如し 糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず 身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり」(佐渡御書P958)
まして日蓮は今生では貧しい下賎の者として生まれ、旃陀羅の家の生まれである。心こそ少し法華経を信じるようであるが、肉体は人間で、動物である。畜生と同じように魚や鳥を食べ、父母の交尾、その中に精神を宿した。これは濁った水に月が映り、糞嚢に金を包んだようなものである。心は法華経を信ずるゆえに梵天・帝釈でさえも恐ろしいとは思わない。しかし身体は畜生であり、身と心とが相応しないから愚者が侮るのも道理である。

そもそもこの世界は煩悩に汚れた一般人しかいないが、その一般人=凡夫が、即身成仏する法則こそ、最高の法則であること、そしてそれは、一般には理解しがたいことを述べられている。


 

(*18) これを、仏法を学んでいながら、かえって外道になると、戒められた御書がある。
「…かくの如きの人をば仏法を学して 外道となると恥しめられたり」(一生成仏抄 P383)

自己の幸福の原因・結果を自己以外の他者(偶然、絶対者、創造主など)に求める教えを外道という。
これに対して、自己の幸福の原因・結果が自己そのものにあると教えるのが本来の仏法という。

この文証の前後を引用しておく。
「都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども 心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人 日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、 然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して 外道となると恥しめられたり 爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり」(一生成仏抄 P383)


イワシの頭の高級さをいかに詳細に論じても、所詮はイワシの頭でしかない。
巷で流行している○○本仏論も、概ね、同様の趣旨であるから、なお嘆かわしい。
法身・報身・応身とか、空・仮・中などという詳細な理論もあって、それぞれ甚深の意味を説いているが、根本なのは「法則」そのものである。詳細は渇愛する。
釈迦本仏論、日蓮本仏論はまだしも、法主本仏論、はては池田本仏論まであったではないか。

途中では仏法を難しく学んでいながら、結果としては、自身の幸福を「他者」に求める、自己の即身成仏を「他者」に求めるという、外道と同様の過ちを犯している。
どんなに崇高な理論を掲げても、結果としては、架空の阿弥陀仏に「南無」する(南無阿弥陀仏)のと同列である。
これは単純明快な論理である。


(*18-補足1) 日寛上人は、
「久遠元初の自受用身とは蓮祖聖人の御事なりと取り定め申すべく候」(六巻抄P88、分段P463)
「当に知るべし、久遠元初の自受用とは蓮祖聖人の御事なり。久末一同、これを思い合わすべし」(観心本尊抄分段P548)
蓮祖即ち是自受用身なり、是の故に応に知るべし、下種の教主は但是れ一人なり。謂く、久遠元初の教主も自受用身、末法今時の教主も自受用身なり。久末一同之を思い合わすべし。」(六巻抄P711)
「蓮祖若し久遠元初の自受用身に非ずんば焉ぞ教主釈尊に勝るることを得べけんや」(六巻抄P210)
と述べて、実在人物「日蓮大聖人」を=「久遠元初の自受用身」如来とし、唯一絶対仏として神格化している。
一般人はそれを奉ることで救済されるとし、それに直結する法主・僧侶に頼らなければ救済されないとする、法主本物論の根拠となっている。これは誤った血脈観である。
まるでキリスト教の神学にでてくる理論とよく似ている。


日蓮大聖人は、ご自身について「日蓮聖人は、御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使・上行菩薩の垂迹・法華本門の行者・五五百歳の大尊師にて御座候」(頼基陳情P1157)
と仰られているが、
そもそも、自分自身のみを指して久遠元初の自受用身(如来)であるとは言われていない。
なぜなら、久遠元初の自受用身は南無妙法蓮華経の法則としての実体名であると、「原理」としてご自身で説いていて、大聖人の独占名ではない。たとえ弟子から頼まれても、自身のみを自らそのように名のることはできない。
日蓮大聖人も含めた生身の一般人こそが、南無妙法蓮華経の法則としての実体だからである。
それを歴史上、一番最初に自身に顕して弘めたのが日蓮大聖人という一般人である。
この意味で、日蓮大聖人は、本因妙の教主である。
そもそも仏法の出発点で、仏とは、一般人を「我が如く等しくして異なること無からしめん」こと(
如我等無異)が本意ではなかったか。
即身成仏とは、「原理」として、まさにこのことである。

真実の日蓮仏法が、原理として「宇宙一切根源の法」であるからには、こういうケジメをきちんとつけておく必要がある。
ついでに、「我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや」があるが、あくまで「我等が」であって、南無妙法蓮華経と唱える一切衆生すべてについて、「自受用身の仏」と仰られている。

詳しくは、
「一切衆生 南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文.あに自受法楽にあらずや、衆生のうちに貴殿もれ給うべきや、所とは一閻浮提なり日本国は閻浮提の内なり、遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身の仏にあらずや」(四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)P1143)
一切衆生にとって南無妙法蓮華経と唱える以外の遊楽はない。法華経如来受量品第十六に「衆生の遊楽する所なり」とある。この文こそ自受法楽をさしているではないか。「衆生」のなかにあなたがもれていることがあるだろうか、また「所」とは全宇宙であり、日本国は宇宙の中である。「遊楽」とは、我等の色心・依報・正報ともに、一念三千の当体=自受用身の仏ということではないか。つまり遊楽である。


(*18-補足2) 釈迦も日蓮大聖人も、即身成仏した一個の生命体であり、本仏を顕されたという点では事実の上で尊い。
が、自己の即身成仏を、自己以外の、釈迦や日蓮大聖人の個人の生命に求めるのは誤りである。
御本尊を他者に求めてはならないと、ちゃんと御書にあるではないか。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(日女御前御返事(御本尊相貌抄)P1244)

御本尊に南無するということは、あくまで「自分」の生命の仏界(=「法」=南無妙法蓮華経)に南無することであって、
「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(一生成仏抄 P383)
その自己の成仏を、自己以外の、過去に出現した個人的な生命に過ぎない釈迦や日蓮大聖人に求めるのは、道理に反し、誤りである。(いくら仏界であっても、個人の仏界の生命ではない)
日蓮仏法においては、自己の成仏を求める対象は、あくまで「法」であって、日蓮大聖人の説かれた「法」(=南無妙法蓮華経)という理解でなければならない。

信仰の基本、信心の基本について説かれた方便は幾多ある。
「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」の文における「仏」とは、南無妙法蓮華経という「法則」なのであって、個人的な生命ではない。
人肉を求める鬼に対し、雪山童子が身を投げて求めたのは「法」(生滅滅已 寂滅為楽)であって、「鬼」ではない。

「自己以外の個人的な仏界の生命に南無するという論」の延長線上にある邪義が、前述の法主本仏論などである。


血脈については生死一大事血脈抄で明確である。
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(生死一大事血脈抄P1337)


(*19)「日蓮大聖人に南無し・・・」というご観念文に、端的に表れている。
日蓮正宗にもあるが、創価学会 勤行要典P16より、引用。
「一、御本尊への報恩感謝
法華経の観心・南無妙法蓮華経の御本尊に南無し、報恩感謝申し上げます。
末法の御本仏・日蓮大聖人に南無し、報恩感謝申し上げます。
日興上人に南無し、報恩感謝申し上げます。」

日蓮大聖人は仏法僧の供養を説かれているが、ご自身に「南無せよ」とは一言も残されていない。
ちなみに当方は、日蓮大聖人御書全集全ページ(P1~1619)で確認したつもりだが、見落としがあったなら、ご指摘願いたい。

仏法僧の供養という観点ならば、「日蓮大聖人に報恩感謝いたします」だけでいいのではないだろうか。
「仏敵」という言葉も、「仏」に特定の人物を想定しているからこそ、結果として暴力が生まれる。
「法」が間違っているだけなら、法論で戦えばいいだけではないか。
塚原問答のように。

 ただ、「南無」という言葉は「帰命」という意味であるが、マンダラ御本尊の仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界を顕す衆生の頭につけられている。南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来、南無上行菩薩など。
マンダラ御本尊においての一念三千の表現が、そもそも擬人化された内容となっている。


(*20) マンダラ本尊が「鏡」の作用をする文証
「譬えば、闇鏡も磨きぬれば、玉と見ゆるがごとし。ただ今も一念無明の迷心は、磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(一生成仏抄P384)
たとえば、暗い鏡も、磨けば玉のように見える。今の無明という迷いの一念は、磨かない鏡のようである。これを磨くと、必ず真実の覚りの智慧を映す明鏡となるのである。深く信心を起こして日夜、朝夕に、また怠ることなく自身を磨くべきである。どのようにして磨いたらよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということである


(*21)「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや・・・
『但し御信心によるべし』つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ 鬼に・かなぼうたるべし」(経王殿御返事P1124)



(*22) 宇宙についての科学的解析の歴史や最新知見の詳細は割愛するが、
"THE BOOK OF NOTHING - VACUUMS,VOIDS,AND THE LATEST IDEAS ABOUT THE ORIGINGS OF THE UNIVERSE"(JOHN D BARROW)「無の本 ゼロ、真空、宇宙の起源」(ジョン・D・バロウ著、小野木明恵訳 2013年、青土社)が、良くまとまっていると感じたので、感銘した結論の部分を引用しておく。

「一見すると、始まりのないことは、科学的なアプローチにとって有利に思われる。推論や説明をすべき、やっかいな出発時点での条件がないからだ。だが、これは幻想だ。それでもなお、なぜこの宇宙には、過去の無限の時点において、特定の性質ー膨張速度や密度などーがあるのかを説明することは必要だ。」(P363)

「最後に、忘れてはならない考察がひとつある。科学では、たとえ原理的には可能であっても、起こる確率が非常に低いものごとは無視するのが普通だ。たとえば、物理学の法則では、わたしの机がすっと持ちあがって空中に浮かぶことは許される。すべての分子が、ランダムな動きの流れのなかで、「たまたま」同じ瞬間に上に向かって動くだけでよい。これは、宇宙一五〇億年の歴史のなかでさえ、あまりにも起こりそうにないことであるため、実用的な目的においては、そのことを忘れていられるのだ。
しかし、このことについてあれこれ思い悩む余地のある無限の未来がある場合、非常に起こりそうにない物理的なできごとが、いつかは起こる確率が高くなる。真空の景観の底にあるエネルギー場が、いつか跳び上がって山の頂上に戻ってくるという、まったく起こりそうにないふるまいをすることもあるだろう。すると、この宇宙がもう一度、インフレーションを経験し始めるかもしれない。さらにいっそうありえそうにないことだが、この宇宙全体が、量子遷移を経て、別の種類の宇宙へと移り変わるという確率も、ごくわずかながらあるだろう。このような急激な革新を経験したら、宇宙の住人は誰も生き延びることはないだろう。ただし、ある系にたいして、量子的変換の性質をもつ劇的なできごとが起こる確率は、系が大きくなるにつれ、小さくなる。宇宙全体が作り替えられる前に、岩やブラックホールや人間など、この宇宙にある物体がそうした改変を経験することのほうが、はるかに可能性が高い。その可能性は重要だ。それが起こりうる時間が無限にある場合にどういうことが起こるかを予測できるからではなく、予測できないからである。待つ時間が無限にある場合、起こりうるどのようなことも、最後にはきっと起こる。いっそう悪い(あるいは良い)ことに、それは、無限に煩雑に起こるのだ。・・・
・・・全体的には、自己増殖によって新たな始まりや新たな物理学、新たな次元が触発されるかもしれないが、結局のところ、この世界線、すなわちこの宇宙において私たちがいる領域では、永遠に一様であり、星も生命も存在しないように見える。おそらくは結局、私たちはそこにいなくて正解なのだろう。」(同、P368~9)


(*23) 同一内容の科学式において、その表現の多様性は根本的な原則だから、マンダラ御本尊についても、日蓮大聖人の教えに忠実に従えば、科学的に相貌が合っていれば誰がどのように何を使って描いても相当であって、「名鏡」としての効力は同等である。
細かく言えば、一念三千またはこれに相当する内容を顕す方法として、釈迦牟尼仏や上行菩薩などを含めない、つまり法華経の虚空会を使わないで、相当する意味を持たせた新たな別の表現も可能なはずである。
なぜなら、御本尊が「鏡」であり、その内容が法則であり、一般性・普遍性・再現性があるからこそ、期間の縛りがなく対象者も限定しない、つまりは万人の成仏が担保されるからだ。(もちろん、この対偶や逆も真実となる)

「南無妙法蓮華経」は、あくまで法則の表現であるから、科学的には、同一の意味内容を他の表現で定義・命名しなおして再現することが可能である。

例えば将来、AIの学習機能が発達すれば、非科学的宗教やエセ宗教が廃れ、科学と宗教とが統一した見解を持つ宗教革命が起こるかもしれない。
また、これを試みる宗教団体が出現するだろう。
これも「宇宙一切根源の法」=「南無妙法蓮華経」に相当する、真実の教えとなる。

この宗教は、その説明における語彙や形式や論法は異なるが、その科学的宗教的内容・すなわち教義も御本尊も、同じ日蓮教団の真実の仏法に相当する。
しかし、その形式は仏法ではない。

その時は、悔しいであろうが、創価学会は、その宗教を折伏できない。
もしこれを、従来の仏法の教えに沿って破折したならば、それは自らの弘教内容を誹謗することになって、自らのよこしまさを露呈し、教義上は堕地獄の因となる。


日蓮大聖人の仏法も、一時代(鎌倉時代)・一地域(日本)の語彙・言語による記載である。
後世で、異なった解釈がなされるのも、古い限定的な表現を唯一絶対的(な表現)なものとして扱い、科学的根拠のある法則として扱い伝えてこなかったからともいえる。

基本的な内容は変えてはならないが、グローバル化・文明化に従って、その記載表現は、誤解がないように絶えずバージョンアップできるし、していくべきであろう。
できれば数学における命題や数式化等のように客観的記述にすれば、翻訳での間違いもなくなる。(数字や数学は万国共通である)

そうなると、人生の幸不幸を扱う現代の僧侶や宗教学者などの論議も、一教団の教義の解釈論議や真贋論争にみられるように辺境・偏狭的になることなく、より全般的な視点となり真に価値的になるだろう。
逆に言えば、客観的記載が不可能というならば、それは万人に通用する客観的法則ではなく、一部の限定された時代や地域での個別の思想に過ぎないということになろう。

日蓮大聖人の御書も、基本は完結しているが、発達しゆく現代科学に従い、その内容の伝達内容をより客観的な表現にバージョンアップできるし、していくべきであろう。
法華経などの大乗経典が多くの後世の努力によって素晴らしい著作になり、それが日蓮仏法の展開に大いにつながっていることから分かるように、
日蓮大聖人の御書についても、その内容が、後世の作となっても、それが宇宙一切根源の法に矛盾なく真実を伝え続けながら、より優れた分かりやすい内容となるなるなら、いっそう広宣流布が進んでいく。


(*24) 100年人生でも短命な生でも、流産寸前の胎児でも、長期間の病期や植物状態・高度認知症でも、余命幾ばくも無い高齢でも、あらゆる境涯の生命について、その物理的長さは、∞に比べたらゼロ(一瞬)に等しい。
だからこそ、その一瞬の一念の価値がどうかが問われる。
一瞬が光り輝いていれば、永遠に輝く。
一瞬の充実は永遠に結びつく。
一瞬でさえも、取るに足らない境涯ならば、永遠も同様にくだらない生命となる。
せっかく希な人間に生まれてきたのだから、短命でも余命いくばくでも、せいいっぱい輝きたいものだ。

「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(崇峻天皇御書 P1173)
人間に生まれることは難しい、大地に対して爪の上に乗る土ぐらいである。その身を生きることも難しく、草の上の露のように儚い。120歳まで長生きしてもくだらない人生で終わるよりは、残りたった一日の人生でも充実して生きることこそ大切である。


(*25)「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝P788)
御本尊を受持することによって、初めて自分自身が元から仏の当体であると解る、これを大歓喜という。すなわち南無妙法蓮華経と唱えていくことは、自分自身の即身成仏であり、歓喜の中の大歓喜である。