渚の波と生命・・・鎌倉~江ノ島ぶらぶらある記(1)ビーチで水着。 | ラケットちゃんのつぶやき

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ブルセラコスチュームで、あちらこちらに出かけてます。
最近は、主に富士山麓の山に登ったときの、雄大な富士山と、自身の写真をつけてます。
ブルセラアイドルの夢を見ながら、日常の現実に対するいろんな思いを綴ります。

某年8月。ビーチで水着。





片瀬の浜は、都心からは手軽で、人気だ。
江ノ島をのぞむビーチは、西も東も、カップルやグループで賑わう。

新宿から、小田急線で、速ければ一時間ちょっと。
帰りはロマンスカーで、ちょっと贅沢。

色・形、とりどりさまざまな水着の女性たちと、男たち。
グループや家族連れ、いっぱいいる。

このバカンスに、それぞれ種々のアバンチュールがあるのだろう。
とても楽しそうだ。






こうして、静かに海をみていると、
水平線の彼方にひきこまれて、
暑さも、周囲の喧騒も、
水着の恥ずかしさ、素肌の大胆さも、
みんな過去へ消え去って、
あるのは、おおいなるブルーと、潮の香りと、かすかな白いバブルの肌触りだけ。
身も心もやさしく洗われていくようだ。
このまま帰らずに、ずっとここにそのままでいたい・・・

この。大いなる空気と海と空と、渚にいざなう波と、水平せんの彼方まで、ずっとむさぼりつづけていたい・・・






貪り、いかり、痴か(おろか)・・・
食欲も、貪欲も、淫欲も、
怨みも辛みも憎しみも、
支配欲も征服欲も被虐にむかう欲も、
このような心から生じる。


対象への執着が強ければ強いほど、
自身へのマイナス評価が深ければ深いほど、
これらのエネルギーは大きい。








身近になって親切なのに、とてもガードが固いあなた。
キュートで端整な物腰なのに、とても生意気なあなた。
そんなすてきなあなたを、そろそろ落としてみたい。
あなたを、身も心も支配し思うがままにしてやりたい。
あなたをやぶって中に入り、私の魂を注入してやりたい。
二人、三人、十人と、私の分身を増やしていって、
あなたの入口・出口のすべてから、
あなたを強く優しく激しく攻撃して、
無上の歓喜に絶叫するのを見届けたい。








上司の癖して、いつも優しくしてくれるあなた。
でも、多くの人にも優しいあなた。
多忙でも、聡明で信頼も厚いあなた。
遊びや下心をまったくみせないあなた。
そんなすてきなあなたを、いつかきっと、
みんなから奪ってひとりじめしたい。
あなたを虜にして、私にすべてを奉仕させたい。
あなたを為すがままにあやつって、あなたを飲み込んでしまいたい。
二人、三人、十人と、あなたの分身が増えていって、
わたしを強く優しく烈しくむさぼりつづけさせ、
私の中で、昇天するのを見届けたい。








かくして、さまざまな愛の営みが繰り広げられていく。・・・


この愛欲は、国の繁栄、人類の繁栄に不可欠なものである。
子供を生み育てる根本となる原因であり、生きとしいけるものに根源的にそなわっている。

風俗にかかわることは言うに及ばず、文学・芸能界・ファッション界など、さまざまな社会活動・文化活動などの根源に、大なり小なり関わっている、一時的欲求のひとつであることは言うまでもない。
もちろん、その発言には、うまくコントロールして、倫理的問題をクリアし、不幸な結果にならないように、秩序を保ちながら実現していくことが前提である。

少子化が指摘されて久しいのは、この、新たな生命の誕生へむけての、社会的な仕組みや支援などが、変化に追いついていないこともある。


さて、生きとし生けるものの生態をみたら、初等生物になればなるほど生殖の数は多く、高等生物になるほど少なくなる傾向である。哺乳類は魚類に比べ子供の数は少ない。

人類だけを見ても、先進国と発展途上国を比べたら、先進国のほうが少子化に悩んでいる割合が高い。
わが国においても、明治・大正時代に比べたら、平成において少子化が顕著である。
私の子供は2人育てたが、私の両親は、兄弟は数人いるし、祖父母の兄弟はそれより多い。
医療の進歩により、戦後に比べて、平成時代は、出産リスクは限りなくゼロに近く、生まれた子供は、障害を持っていても、その有無・程度にもよるが、その多くが成人となる。
その反面、今は、不妊に悩むカップルが、男女ともに多い。
草食系の男女がふえている。

これらは生物学的に、生存リスクと関連していると見える。

つまり、豊かな社会の実現により、社会全体を集団としてみたら、社会の仕組みが昔に比べて整備され、出産リスクや養育リスクが低下したことなどが、ひょっとして、愛欲のゴールである出産に対して、生物学的に負のフィードバックがかかってきているのかもしれない。





夕方、日が傾きかけたころ。

渚によせる穏やかな波。
来たり帰っていったり・・・
でもそれぞれは、同じものではない。
うちよせる波は、同じようにみえるけど、瞬間瞬間、なにひとつとして同じものは無い。
すべて入れ替わっている。
色、形、時間、温かさ、緩やかさ、・・・
素粒子のレベルで考えなくても、わかる。






生命というものは、有るものでもなければ無いものでもない。
何も無いというところはどこにもない。

物理的に、なにもない空間:「真空」であっても、対生滅といって、夥しい数の、プラスとマイナスをおびた素粒子が、生まれたり消えたりしている・・・
というのが、最先端物理学の知見である。

電子にも、素粒子のひとつであるが、走行する道をつけて観察すると、それぞれ一つ一つに意思がある行動をするという。
私達の体やこの宇宙も、素粒子でできている。

生命というものは、夥しい意思のある生命の集合体なのだ。





一瞬の経過でも、過去と現在の姿は異なる。
死ぬ瞬間の前後の瞬間は、身は同じようでも働きが違う。
精子と卵子の結合の瞬間と、そのの前後の瞬間には、物理的内容は同じでも、生命的次元では明らかに違う局面である。


最先端物理学をはじめとする、最先端生物学などの、現代科学が追いかけている、生命というものの解明先は、やはり、ほかでもない、仏法の知見に近づいているようである。






ひとつ前のブログで紹介した、法華経の開経ともされている無量義経徳行品第一の一部分・・・

・・・
智恬情泊慮凝静  智は恬(しずか)に情も泊(しずか)に、慮も凝静(ぎょうしょう)なり
意滅職亡心亦寂  意は滅し 職は亡して 心また寂なり
永断夢妄思想念  永く夢妄の思い・想念を断じて
無復諸大陰入界  またもろもろの大陰入界なし

其身非有亦非無  その身は有(う)に非(あら)ず また無に非ず
非因非縁非自他  因に非ず 縁に非ず 自他に非ず
非方非円非短長  方に非ず 円に非ず 短長に非ず
非出非没非生滅  出に非ず 没(もつ)に非ず 生滅に非ず
非造非起非為作  造に非ず 起に非ず 為作(いさ)に非ず
非坐非臥非行住  坐に非ず 臥に非ず 行住(ぎょうじゅう)に非ず
非動非転非閑静  動に非ず 転に非ず 閑静(げんじょう)に非ず
非是非非非得失  是に非ず 非に非ず 得失に非ず
非彼非此非去来  彼(ひ)に非ず 此(し)に非ず 去来(こらい)に非ず
非青非黄非赤白  青(しょう)に非ず 黄(おう)に非ず 赤白(しゃくびゃく)に非ず
非紅非紫種種色  紅(く)に非ず 紫(し)・種々の色(しき)に非ず

戒定慧解知見生  戒・定(じょう)・慧・解(げ)・知見より生じ
三昧六通動品発  三昧(さんまい)・六通・動品より発(ほっ)し
慈悲十力無畏起  慈悲・十力、無畏より起こり
衆生善業因縁出  衆生善業の因縁より出でたり

・・・




生命は、有るものでもなければ無いものでもない。
なにかの内部の原因でもなく、なにか外部の原因でもない。
自身というものでもなく、他人や他者というのでもない。
三角や四角などの角の形のあるものでもなく、丸い形でもなく、長いものでも短いものでもない。
出現するものでもなく、消滅するものでもなく、生まれたり死んだりするものでもない。
誰かが創造したものでもなく、初めて起こったものでもなく、誰かの為に作られたものでもない。
坐っているものでもなく、寝ているものでもなく、行ったり来たりするものでもなく、元から住みついているものでもない。
ある方向へ動くものでもなく、まるく転がるものでもなく、静かに止まっているものでもない。
プラスでもなくマイナスでもなく、ゼロでもなく、得られたり失ったりするものでもない。
むこうにあるものでもなく、こちらにあるものでもなく、他へ過ぎ去っていくものでもなく、他からやってくるものでもない。
青・黄・赤・白でもなく、紅色でもなく紫色でもなく、さまざまな色がついているものでもない






戒・定・慧・解(げ)・知見より生じ
三昧・六通・動品より発し
慈悲・十力、無畏より起こり・・・
このあたりは、むずかしいけど、

衆生善業の因縁より出でたり・・・とは、
つまり、悠遠の過去から、というよりも、もともと自らと自らの環境は存在していて、因果を繰り返しながら永遠に続いていくってことなんだ。







私は、夥しい大宇宙の中で、このビッグバンの宇宙の、この銀河にある、太陽系の一惑星:地球のなかの、日本という国の中の、この東京に住んでる、人類という文化的生物の70億人の中にいる、たった一人。

この独自性も、唯一であることも、この時代であることも、悠遠の過去から、すべて、自ら選んだ舞台であり、他のなにものにも代えられない尊いものであるし、永遠の未来に向かって、因果を繰り返しながら続いていく存在なのだ・・・

すべての生命に具わっている要素・・・

これを、真の意味での「生命の尊厳」という。








あなたは何故にうまれてきたのか

マルクスを信奉する、唯物論者の友人は、
父親の精子と母親の卵子が結合して、生まれてきたのだと言った。

これは、あくまで、生まれて来る”過程”であって、原因そのものではない。

つまり、"how to"や"what"であって、"why" ではない。
科学的探究をどんなに極めても、あくまで、それ自体の詳しい「過程」を明らかにできるだけで、その存在(existance)そのもののゆえんを明らかにすることはできないようだ。
未熟な唯物論しか理解できないところに、いかにこのことを説明しても、結果はむなしい。

脳科学の発達や、ペンローズの量子脳理論などは、それ自体の詳しい「過程」を明らかにするだけでなく、限界をわきまえつつ、その先にある真理を洞察することに役立つものだ。


これらの究極の知見は、仏法の、なかんずく、仏の生命のなかに詳しくあらわされている。
仏法を解説した中の、俱舎論にも詳しくあるし、「チベットの死者の書」なども、とても参考になる。






私のどら息子は、こんな私の形質を受け継いで、つまり生意気なことを言いながら、なんとか高校を卒業した。
寄り道をしながらも私の背中をみて、みごとに浪人中である。
そのわが子には、幼いころから、理屈で負けそうになったら、また、悲しみに落ち込んでいたら、このように言い返している。





おまえは、自ら選んで、パパとママを、生まれる前から見張っていて、交尾を見届けた後、さらに自ら選んで生まれてきたのだ。
だから、どんなにえらそうな事を言っても、ママの股の間から出てきたのだ。
肉体や性格などは、パパとママの形質を半分ずつ受け継いで、その環境もすべて含めて、あくまで、自ら選んだのだから、それらについて、文句をいってはならないし、責任をなすりつけてはならない。





だから当然に、出現したからには、全宇宙でひとつしかない、お前にしかできない役割・尊極の使命があるのだ
自身の恵まれ又は恵まれなかったとみえる境遇も、幸運または不運のようにみえる出来事も、他人や環境のせいではなく、すべて自分で選択して得たものであり、自分の責任なのである。
つまり、失敗も、成功も、つらいこと苦しいこと、喜びも楽しみも、その一つ一つがすべて、お前にしかないものであって、すべて未来のための財産なのだ。







六道輪廻と仏の生命の発現・・・
偶然にみえるけど、すべて必然。
科学的な分析、たとえば統計学上では、すべて「ありえない」ことという結論になってしまったり・・・。
不思議な、とても不思議なことである。






・・・

ただし疑ある事は我等は父母の精血 変じて人となりて候へば三毒の根本婬欲の源なり
いかでか仏はわたらせ給うべきと疑い候へども・又うちかへし・ うちかへし案じ候へば其のゆわれもやとをぼへ候、
蓮はきよきもの泥よりいでたり、
せんだんはかうばしき物大地よりをいたり、
さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ、
やうきひは見めよきもの下女のはらよりむまれたり、
月は山よりいでて山をてらす、
わざわいは口より出でて身をやぶる・
さいわいは心よりいでて我をかざる。
・・・・・(十字御書、日蓮大聖人御書全集)








・・・ただし、疑問に思うことは「私達は父母の精子と卵子が変じて人となったのだから三毒の根本であって、婬欲の根本である。
どうしてそのなかに仏がおられることがあろうか。とても疑わしい」と。
しかし、繰り返し繰り返し考えてみると、その道理もなるほどなと思われる。
蓮は清らかなものだが、(臭い)泥の中から生えてくる。
栴檀はよい香りだが、(臭い)大地から生じる。
桜の花は趣のあるものだが、(なんの変哲もない)木の中から咲き出す。
楊貴妃は美人だったが、身分の低い女性の腹から生まれた。
月は山の端から出て、山(全体)を照らす。
禍は口から出て身を破る。
幸いは心から出て、自身を飾る。・・・
・・・・・(私風現代語訳、( )内は私的補足)