梅雨明けはしたのでしょうか、夏真っ盛りといったお天気ですね。暑いのはイヤですが、真夏の太陽の下にいると、なんだか懐かしいような感覚に陥ることがあります。

2024年、令和六年の陽射しはこういう感じなんだな。

現代でこの時代に生きることが好きではありませんでしたが、思うほど悪いもんじゃないなぁなんて思います。 

なんていうのでしょうか。時が経てば経つほど、時代に合わない感覚が強くなっていくというのでしょうか。

ここの部分が引っかかっていたのですが、令和六年の真夏の日本も悪いもんじゃない。




3年前の今頃は、集団でのストーカーに気付いてから3ヶ月ほど経った頃でしたので、自分の全方位から水嵩が増し始めたような強烈な違和感に対抗すべく、毎日毎日頭をフル回転させていたのを思い出します。

集団ストーカー被害に気付いてからも、仕事は一日も休まなかったんですね。




仕事にだけは行っておりましたが、それだけで精一杯でしたね。仕事を終えて帰宅した後は数時間ベランダでボーッとしながら過ごしていて、世にいう夏休みの時期のことですが、1度もご飯を作ることが出来ませんでした。体力も気力もとうに限界を超えていたからです。




しかしそうした時期を越えて迎えた令和六年の夏と考えると、感慨深いものがあります。





・・・・・・・先日、アディクトを待ちながらという映画を観てきました。

この映画は評判が高くてなかなかチケットを手にすることが出来ず、どうなることかと思っていたのですが、ようやく鑑賞することが出来ました。

公開中の映画なので、あまり言うとアレかなとは思うのですが。




ただ、期待値が高かった分、ん~という印象は拭えませんでしたね。

これは映画ではないという部分がです。




依存症がテーマであるのですが、依存症というものは1つに限ったことではなくて、ギャンブル依存症や薬物依存症、買い物依存症と様々な形があるんですね。


 


依存症として出てくる症状は色々であるけれども、元を辿ればどうしてそれが依存症という形となって出てくるのかというところだと思うんですよ。1番知りたいところがです。




依存症のエピソードがいくつかあって、心動かされるようなシーンがいくつもありましたが、肝心なそこの部分があっさり終わってしまっていたんですよね。どうして?と思いました。

あっさり終わってしまって、何故そこに繫げる?という風な。

個人的には、美容師のくだりが特に印象に残っていますからねぇ。

あ、でも選べないですね。エピソード自体はどれもとても良かったと思いますが。




人間ってね、ふとした隙が生まれる瞬間というものが誰しもありますでしょう。

魔が差すというか。

私はそんなことはありません!真っ当に生きているんです!って、嘘つけよっていうね。





・・・依存のエピソードが始まっては肩透かしをくらう感じといいますか。

そこを掘り下げ広げていかなければ観客に伝わらない。

もっといえばそこが出来ていたとしたら、素晴らしい映画となっていたのではと思いましたね。

 



想像するに、自助団体の思いがあったと思うんです。依存症=病気なんだという考え方ですね。

それを伝えたい自助団体が映画の方向性を変えたように感じます。

病気なんだという結論に到達するためには、各々の依存症を抱えた人々のエピソードを深掘りすることが肝心ですが、 自助団体の思いを取り入れすぎた結果、違う方向へと進んでしまったというか。

伏線の効かせかたには角度の鋭さがなければ、それは結果として伏線として成り立たない。





この映画を観た知人が感想を伝えてくれましたが、的を得たものでした。

やっぱりなぁと思いましたもん。

自助団体の考えがあろうとも映画は監督のものですから、最終的には監督の判断が全てだと思います。




前回映画を観たのは数ヶ月前で、集団ストーカー被害者となってから初めて行ったのがデュバリー夫人という映画でしたが、超〇作でしたね。

これについても以前ブログに書きましたがそもそも、集団ストーカー被害者となってから映画館に行けたという現実自体が凄いことなんですけれどもね。




ちょっとね、取り組んでみたいことがありますので、もしかするとブログの更新が滞るかもしれませんが、集ストに命にかかわるようなことをされたら即、数行でも記事を上げますので改めて宜しくお願い致します。






 




⬆先日これを聴いていたのですが、素晴らしい演奏だと思いました。

バッハをゆっくりと弾いているのですが、フジ子ヘミングの音色は指先に幾つもの鈴がついていて、鍵盤を押す事にチャリンと音が鳴っているような感じがするんですよねぇ。

音の変化によって鈴の音色も変わるので、それらが響き合うことで奇跡が生まれる。

神様に近い人が奏でる音色のようだというかね。

喜びも悲しみも怒りや苦しみなども含めて、フジ子ヘミングが自分の人生をどう生きたのか、どういう境地に達したのかが演奏にそのまま現れているということですね。




なんだか、色々と見直さなければならないことが多いなぁ。



終わります