趣味の人間関係/夢を叶えてきてる | Double Peace:)

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DV家庭育ち/見た目はすごく元気(実は心の病気持ち)/スポーツ大好き/実生活では言えない本音/親の退院後の手助け/大好きな人と心から健康に笑顔で生きていくのが夢/初めての方はプロフィールとメッセージボードを読んでいただけたら嬉しいです:)/2023.10.22 blog start

「この週末、気づいたら連続で

ずっと外出しててさー。

楽しかったけど疲れた!笑」


と言って週末の話をちょこちょこ

聞かせてくれる知り合いのCさん。



好きなことが共通してるから

その話も興味深いし、


そのCさんも家族のことで

つい最近まで苦労してたのも

知ってるからCさんが純粋に

そうやって楽しめる時間を

持てたというのは素直に

良かったなぁと思う。



Cさんは僕が色んな事情で自由に

行きたい所に行けないのも

そこそこ知ってるから

そういう意味では僕も気持ち的に

話してても楽な部分もあったり。


僕なんて昨日何とかやっと

徒歩10分足らずのコンビニに

行けたくらいで、土日やから

好きなように過ごせるなんて

概念自体がないからな‥。苦笑



僕と同じ名前のラケさんは

僕が昔から関わってる分野を

めちゃくちゃ極めてて

知り合いもすごく多い人。



“ラケ”(実際には本名)という

名前自体そうそう沢山は

いないかなと思うんやけど、


その分野(といってもそんな

言うほど大きい世界ではない)では


ラケ=そのラケさん


という認識になってるんやろうな

と感じる時があって、


そのラケさんはいい人やから

同じ名前なのが嫌とか

そんなんではないんやけど


僕からしたらちょっと

複雑な思いもある。



このブログでは、知り合いや

友達との会話の話の時は

自分のことを「ラケ」

「ラケくん」としか呼ばれてない

ような感じになってるけど、


実際には他の呼び名で

呼ばれる関係性もあって


その呼び名を嫌いではなくても

僕もほんまはラケなんやけどな

って(;ω;)


まあ本人以外にはどうでもいい

小さいことなんやけど。笑



でも、趣味でも何でも

ある程度それを楽しむ機会が

沢山あればそれはもちろん

羨ましいことでもあるけど


だからこそ大変なことも

あるんかもなぁと感じる時もある。



同じ分野を好きでも

それぞれに感覚や価値観は違うし

そこをお互いに「自分はこうで

あの人はそういう考えなんやな」

で流せれば問題にはならなくても


一つ何かきっかけがあって

これまでは全然表面上では

もめてなかったのにいきなり

いざこざがあるのを見ると、


僕は初めからそこまで

その分野を自由に楽しめる

状況に立ってないから


常に気づけば第三者目線

常に嫌でも客観的な視点

というような立場にいて

それは残念で寂しくもあるにせよ


もめ事に巻き込まれる心配は

全くないというのはある意味

楽ではあるんかも‥?(゜゜)



まあそうでも思わないと


自分の時間がなかなか取れない

行きたいと思っても

好きな場所なかなか行けない


というのがどんどん心に

しんどくなってしまうから


無理やりプラス面を見ようとしてる

だけなのかもしれないけど、


小さくて狭い関わりの輪の中で

もめ事があると正直面倒やもんな。



自分の意見をぶつけ合っても

その後お互いに理解し合える


というならそれは意味があっても


正解がないことを自分の考えに

相手を無理に引き込もうとしたり


本来はこうあるべきやのに

何でお前は違うねん!みたいな

スタンスで責め合ったとしても


それって解決もしない

言い出したら終わりがない話よな


とすごく冷静に考えてしまう‥。



僕が昔から好きなことの中でも

今書いてるこの世界は


本当に関わってる人が少なくて

何なら全員知り合いまたは

知り合いの知り合いちゃうんか

くらいの小規模なんやけど、


そこでもめてしまうと

後々間違いなくめんどくさいし


元々は関係なかった人にまで

「あいつと今このことでもめてて、

でも絶対あいつが間違ってる!

あいつはほんま嫌なやつやねん」

とか話が回って話に尾ひれがついて


その場に身を置きづらくなる

というのは目に見えて分かるから。



好きなことを存分に楽しめる休日

というのが日常にある人たちを

羨ましいという気持ちは

正直ずっとあるけど、


じゃあその存分に楽しめる日常が

何の問題も起こらず幸せなのか

というとそうとも限らないんかな

とはたまに考える時がある。



僕は自分の気持ちも考えも意見も

言えない環境に育ったから


そういう趣味とかの場でも

自分はこう思う!と誰かと

ぶつかることを恐れずに言える

というのはすごいなあと

思ったりもするけど。



生涯ずっと関わりうる

とても深い関係ならともかく


普段ちょっと関わる程度なら

僕は何となく表面上

うまく人間関係を保てれば

それでいいかなというか‥、


僕は状況に負けずに

好きなことに情熱を心の中では

持ち続けられるけど


どこか冷静で俯瞰して物事を

見るタイプなのかもしれない。



どんなにその分野が好きでも

自由な外出がなかなか難しい人も

僕も含めて存在するから


その場所に出かけたから

何かをしたからその好きさが

大きいとは言い切れないけど、


比較的自由に行動できる人は

自分はここまでこのために

行動を起こしてる!という

誇りや自負もあるんやろうし

(もちろん全員がそうとは思わない)


だから好きなものは同じでも

自分と相容れない考えや

思いの人が近くに出てくると

ぶつかったりもめてしまったり


あるのかもしれないな。



僕から見たら羨ましく

思える人たちもそれはそれで

また別の大変さがあって


幸せとは限らないんかなと

思った出来事やった。


誰かから見て恵まれてるから

心が平穏とは限らないし

満たされてるとも限らない。


結局は今自分の中にあるものに

感謝して生きるだけなんかな。


★★


数え切れないくらい

リピートしまくってる

無印のペンの替え芯。





非DV親が病院に行って
DV親も用事で出かけてる間に
自分の気持ちをノートにまとめる
作業をしてたんやけど、

そろそろなくなりそうかなと
思ってたインクがなくなって
何十回目か分からんインク交換。


きれいに最後の最後まで
インクを使い切れた時って
めっちゃ気分いい!(´∀`∩)↑


基本的にこの無印のペンは
最後まできれいに使える率が
かなり高いと思ってる◎


自分の気持ちを書くノートを
決めて色々想いを残してるけど、

前はもっとしょっちゅう
書いてたのが今は1週間に1回とか
それくらいの頻度になってて。


そのノートにひたすら書かなくても
他で気持ちを整理できるように
なったのかそれとも

そのノートに気持ちを綴るという
作業が体調もあってしんどくて
そこまで重きを置かなくなったのか

自分でも分からないけど今も
そのノートは僕の心の大事な居場所。


“自分の気持ちノート”、
もう5冊目くらいになるかな?

初めはとにかく自分の思いを
吐き出す場所が欲しくて
自室の棚にあったノートに
ただ書き始めたのが始まり。


だいぶ前に買ったノートで
紙質もペラペラですぐ折れるし
今となっては後々まで読み返すなら
せめてもうちょっと丈夫なノートに
書き始めれば良かったと思うけど、

当時
「難しいかもしれないけど
こうなりたい、これを叶えたい」
「まずはこれを実現するのが夢」

と心のどこかではほんまに
叶うんかなぁと少し思いながらも

このノートは自分以外誰も
読まないんやし本音で叶えたいと
思うことを書いとこうと

書いてきたことが実際に今
振り返ったらいくつも叶ってて、

僕は否定されたり
何でも無理やと言われたり
親の都合が悪いことは
僕が望まないように
制限された中で生きてきたけど

その分自分で自分を励まして
勇気づけて信じて生きれば
歩幅は少しずつでもちゃんと
叶っていくんやと知れたのは

そのノートを書く習慣のおかげ。

これからも続けていきたい。

★★

非DV親が病院に行く日は
いつも緊張してしまう。

どうか何も言われませんように。
何も問題ありませんように。

これまで何度
そう祈ったか分からない。

その緊張や不安を非DV親に
知られないようにごく普通に
いつも通り振る舞うけど。


病後やからといって
全く何も動かないのも
それはそれで体力が落ちるし
あんまり良くないんやけど、

非DV親に家のことでも
無理させないようになるべく
非DV親が気になってそうなことを
先回りして僕がするようにしてる。


そんな中で家事どころか
自分自身が本来するべきことまで
当たり前のように非DV親にさせて
自分はスマホいじって遊んでる
DV親見てるともう怒りを感じて
何とも言えなくなってしまう;


DV親は常に自分を一番に
構ってくれないと嫌な人で、
僕は非DV親の体調をいつも
気にしながら(これは別に
当たり前やと思うけど)

DV親をなだめて構って

いや、DV親って大人やんね?
子どもなら分かるけど
何で大人にこんなこと
しないといけないんやろう?

といつも不思議で仕方なくなる。