グアム観光つづき9 | veeのブログ

グアム観光つづき9

では、続けます。

今回はチャモロ地区です。

実は、1日飛んで、3日目なんです。

因みに最終日。

ここは、ちょっとしたサーフスポットでもあるみたいで、

社員の2名が日本からボードを持ってきて、地元インストラクターに付いて回った所の1つ。

なので、そこに連れて行った時に撮った画像です。(でも、見た感じ、波が無いんですね…)


ここは、1日目のハガニア大聖堂の近くで、人工的に作られたパセオ公園という場所。

そう、下の画像をぱっと見て、自然っぽいけど、不自然なんですね。

その、パセオ公園に面する海から見える宿泊地のタモン地区方面。

自然っぽいでしょ。
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ですが、この岩の間にはこのような物が…。
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何だと思います?影は私です。

かなり大きなパーツって分かるでしょうか?

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軍事マニアの先輩社員に見せると

「砲台を回すパーツやな…」

シャフト部分に竹が刺さってる!

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そう、ここは戦争で出た瓦礫を埋め立てた所です。

海岸線のそこらじゅうに、こんな物が見え隠れしている公園なんです。

上の画像も、岩ではなく、コンクリート等の瓦礫なんです。

とっても美しい海との対比が何とも…。


でも、私は下調べしてたんで、ここが過去にどんな事が有ったか知った上で行きました。

とても、これからサーフィンする奴らに、この話は出来ません。

どれだけの命がこの海に眠るのか…。

でも、終わってから話しましたけどね。

「聞いてたら、ためらいますね」だって。



旧日本軍、大宮島のトーチカ。↓

現存する物は他にも有るそうです。

特に保存のために囲いをすることも無く、説明も有りません。中に入ることも出来ますが、

私は、入る気持ちになれませんでした。ここで、何人もの兵士が命を奪い合ったのか…。


が…、地元の人がコンビニ袋みたいな物を持って、出入りしてたんです!

丁度いい物置に化している…!

その姿を見て、撮るのをためらっていたんですが、何だか吹っ切れました。

っていうか、安心した気持ちでもありました。

「地元に溶け込んでるんだな…」って。

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この公園には、“タシ”という伝統のカヌーを作る作業場があります。

NPO法人らしいですが、作業している所はみれませんでした。

(このカヌーは“タシ”では無く、競技用のカヌーです。南国の光で美しい発色ですね)

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地元の漁師の船です。いつの間にか居なくなるんです。

海が美しい!
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ちょっと分かりにくいですが、ツバメより少し大きい感じで、

真っ白な鳥が飛んでました。本当に真っ白なんです。
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このパセオ公園横には港が有り、マリンアクティビティに出入りする船です。

乗ってるのは殆んど日本人(だと思う)

この船の通る、すぐ横でサーフィンしてるんですよ。
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おまけです。

何となく、モノクロで撮ってみました。

たまには良いでしょ?カラフルな南国でも、モノクロだと、またちょっと違う趣を見せます。
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もう1つおまけ。

この公園には、小さな自由の女神がいるんです。(1/10サイズ)

なんか不思議でしょ。

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では、解説です。

一部、私が書いた文も入れてます。



チャモロ地区 

パセオ公園

パセオ公園は、ローカルにとっては、グアム有数のスポーツ・エリアとして活用されています。公園入口にあるロータリーの中央には、17世紀にチャモロ族の統一を成し遂げた「大酋長キプハの像」がそびえ立ちます。また週末にはバーベキューなども行われています。旅行者の主な利用は敷地内のチャモロ・ビレッジが人気があります。

このエリアはグアムが旧日本軍から開放された1944年、ハガニアにあった瓦礫をブルドーザーで海岸に運んで作った半島状の土地。

その為か、何か人工的な感じ。決して自然ではありえない戦争での残骸が幾つも見え隠れしている。

大宮島のトーチカ


マリーナ側から自由の女神像方向に歩くと、海岸線に正方形の大きなコンクリートの塊が見えてくる。

ハガニア湾から上陸する米国軍を迎え撃つため、戦時中に旧日本軍が立てたトーチカ(射撃陣地)。

尊い命とともに散った「大宮島」の時代

1941128日、つまりハワイ真珠湾攻撃と同じ日、旧日本軍はグアムへの空爆を開始した。2日後の同月10日、旧日本軍はグアムに上陸してハガニアの知事公邸を占拠し、グアム占領を宣言した。それから27ヶ月の日本統治が始まった。

グアムを「大宮島(おおみやじま)」と改名した旧日本軍は住民に日本語と日本の習俗を学ばせた。今でも「君が代」や古い日本の歌を口ずさむチャモロの老人がいる。

19446月、サイパンを占領した米国軍は、その翌月にグアム上陸を図った。日米合わせて2万を超える人命が失われた戦闘の結果、「大宮島」の時代は終わったのだ。(戦後の再整備の為、米軍は必要以上に激しく空爆したといわれている)

米国軍を迎え撃つ旧日本軍は、グアムの海岸線に無数のトーチカを設営していた。それらの幾つかは、現在もタモン湾やハガニア湾をはじめ各所に残っている。

グアムの戦後は、まだ終わっていない

「大宮島」の記憶は、軍の戦闘だけでは語れない。そこにはチャモロ人をはじめとするグアムの住民がいた。ある者は旧日本軍に強制労働を課され、近親者を殺害され、ある者は日本の統治に抵抗する地下活動に身を投じた。

そして戦争よりもはるか前に日本からグアムへ移住した人々と、その子孫の日系チャモロ人が「大宮島」時代に経験した事は、あまり知られていない。グアムで生まれ、チャモロ語で暮らしていた日系チャモロ人たちは、旧日本軍がやってくると協力を強いられ、米国軍が帰って来ると強制収容所に入れられた。そして戦後は、長い差別に苦しんだという。「日本名だから」という理由だけで。

戦争の記憶をもつ世代がこの世を去りつつある現在、グアムでは「大宮島」の記憶を保存する動きが活性化している。

戦争は、まだ終わっていないようだ。



厳密には戦争をしていないだけで、終わった訳ではないのかも知れませんね。


さあ、これで重いお話は終わりです。

まだ、もうちょっと続きます。。