魂
魂の輪廻転生 ユング
「われわれ人間は、自分の個人的な生命を持っているとはいえ、大部分は依然として、その年齢が数世紀単位で数えられるような『集合的な魂』の相続人であり、犠牲者であり、なおかつ推進者である」(ユング)スイスの精神病理学者カール・グスタフ・ユングは、フロイトと共に「深層心理学」という、新しい学問体系を樹立した人です。
フロイトの説によると、人間の心の世界は二重構造で、日常我々が知覚できる「意識」の奥底に、普通の状態ではまったく認識困難な「無意識」が存在します。
「我々の存在の少なくとも一部分は、数世紀にわたって生きている。」(ユング)「無意識」を、本能的な欲求や、劣等な動物的衝動の貯蔵所とし、「意識」の理性がそれを抑制することで、健全な社会生活が営めると、彼は考えました。
理性に対する欲望を、フロイトは「リビドー」と呼びます。
最も根源的な「リビドー」は性欲であり、人間のあらゆる心理、精神の葛藤を、「性欲」対「理性」の対決という構図で説明しようとしたのです。
フロイトの学説は、「人間の魂は神聖なる神から与えられたもの」とするキリスト教の社会では異端であり、当然学界からは村八分。ところがユングは、学問的良心からフロイトを支持します。
しかし、心のすべてを「性欲と理性の対決」で割り切ってしまうのは無理があると感じ、フロイトが性欲の同義語として用いていた「リビドー」という言葉に、より広い意味をもたせ、「リビドーは自然発生的に変容する」と表現しました。
しかも彼は、キリスト教が支配するヨーロッパではタブー視される「魂の輪廻転生」を説いたのです。
「我々の存在の少なくとも一部分は、数世紀にわたって生きている。そこにおけるさまざまな要因が、現在の我々の生活に影響を及ぼしているがそれに気づくことはできない。それが無意識的である場合には、ますますその影響が深い」結局、ユングの一生は、厳しい迫害との闘いに費やされています。
黒澤明監督の言葉
このような記事をみつけましたので掲載させていただきます。
ぼくは、まだ映画がよく分かっていない 黒澤明
「ぼくは、まだ映画がよく分かっていない」(黒澤明)
産経新聞のコラムに、次のような文章がありました。
話題の映画『まあだだよ』の中で、黒澤監督は、作家、内田百閒の口を借りて子供たちに言って聞かせる。
「本当に好きなもの、本当に大切なものを見つけてください。
それを見つけたら、その大切なものに向かって努力しなさい」それこそが人生の目的だというのである。
黒澤監督といえば、日本を代表する映画づくりの名人でした。
現代アメリカ映画界最高の売れっ子、スピルバーグやルーカスが師と仰ぎ、彼らが作品をつくる時は、黒澤映画をすべて見直すほどだといいます。
しかし、83歳のとき、映画という、本当に好きで大切なものを追い求めてきた黒澤さんが、「ぼくは、映画がまだよく分からない」。
大指揮者トスカニーニは、晩年に、「私はようやく、べートーべンの第九が理解できるようになってきた」と、述懐しています。
「回峰行は、人生の縮図。人生も行も無始無終だ」これでは達成の喜びは、死ぬまでないことになる。
芸術、スポーツ、学問、武術、これらには完成や卒業はありません。
戦後、最高齢で千日回峰行を二度達成した酒井雄哉さんは、言います。
「回峰行は、人生の縮図。起伏のある山道、平坦な道のくり返しで、その日その日を懸命に生きることが大事だと知らされた。人生も行も無始無終だ」
好きなものは十人十色、大切なものも千差万別、それに向かって努力すること自体が目的なら、達成の喜びは、死ぬまでありません。
これらは、生きがいではあっても、人生の目的ではないのです。
世界の黒澤と言われた方でも凄く繊細な部分があると思いました。
http://www.rize-akb.com
世界の北野 北野武
哲学の究極の目的/ビートたけし
「人生観が変わった。それほどショックだった」
炎上する世界貿易センタービル(Wikipedia)平成13年、米国同時多発テロ事件の後、イアン・ソープ選手の語った言葉です。
世界水泳選手権で、6つの金メダルを獲得し、名をとどろかせたイアン・ソープ選手(オーストラリア)は、事件の日、近くのホテルに宿泊していました。
悲劇の起きた朝、ソープ選手は最上階からの眺望を楽しむために、世界貿易センタービルに向かっていました。
ところが、途中でカメラを忘れたことに気づき、引き返すのです。
直後の惨事。テレビから流れる生々しい情景を目にしたソープ選手は、「(事件後は)何をしていても、ほかに大切なことがあるのではと自問自答するようになった」と述懐しました。
私たちは、死を眼前に突きつけられた時、大きな衝撃を受けます。名誉も栄光も力にはなりません。
人生観が覆される人も少なくないでしょう。
平成6年、タレントのビートたけしさんも、バイク事故で生死の境をさまよいました。
ソープ選手と同様、人生観が変わったと、著書『たけしの死ぬための生き方』に記しています。
死の準備について
死ぬってことは人間みんなの目的であるっていうか、終着点であることには間違いない。
死というのは突如来る暴力なんだね。その暴力にいかに準備しているか。
それが必要だってことは、うすうすはわかるんだけれど、あまりにも儚いっていうか、空しい努力のような気がしてしまう。
なにしろ死ぬことに対する対応だからね。
死はすべての終わり。それに対して何で準備してなきゃいけないのか。
対応しようがしまいが、死ぬことは死ぬことで仕方ない。
そう考えりゃ、準備なんかしなくたっていいじゃないか、と言う奴もいる。だけど、準備なんかしなくたっていいと言ってても、結局死というものには無理矢理対応させられるわけだよ。
あまりにも一方的に向こうが勝手に来るわけだから。
それに準備してる奴としない奴と、死ぬことは結果的には同じだけれども、そのショックというのは半端じゃないんだよ。
死を考える、死ぬための心の準備をするというのは、生きているということに対する反対の意義なんだけども、異常に重いテーマなんだ。
下手するとこれが哲学の究極の目的なんじゃないかって思うね。
頭のいいのからバカから、金持ちから貧乏人から、人間全部に対しての問題提起なんだ。
そうすると、バカでもなんでも対応せざるを得ない。
そうしたとき、それの能力とか財産にもかかわらず、人間は対応する努力をしていかなきゃならない、と思ったんだ。
人生って、生まれながらにして死ぬ時のその対応の仕方をいかにして模索していくかが人生のような気がする。
息抜きに色んなことをしてるだけであって、基本ラインは死ぬことに向って一直線に突っ走ってて、それに人間はどう対応するんだろうかってだけのような気もする。
だからおいらにとって、今度の事故というのは凄いショックだったね。
物理的なショックのみならず、精神的ショックがマグニチュード8という感じだった。
今回のおいらの場合奇跡がいくつも重なっている。死ななかった上に、脳も損傷をまぬがれたんだからね。
あのまま死んでると何の問題もなかったかもしれない。
ところが生きたってことに対しては、今考えれば良かったなと思うけれど、良かったと思う感覚の数十倍重いテーマを被せられちゃったんだね。
だから、生き残ったことが凄い良かったのか悪かったのか分からないけども、これが生きてて良かったって確認できることは、死というテーマに対して自分がどれだけ対応できるかにかかっているよね。
それが確認できなかったら、死んでた方が良かったっていうことになる可能性もある。
(新潮社「たけしの死ぬための生き方」 ビートたけし著)
確かにスポーツや事業などに熱中できれば、「これが私の生きる意味だ」と充実感は味わえます。
それはただし、死の影を忘れていられる間だけのことです。
「あなたはやがて死ぬんだよ」というささやきが聞こえてくると、好きなことをして、望んだものを手中に収めても、喜びにはなりません。
「いま、なすべきことは何か」
100パーセント確実な未来を直視したとき、人生最大の問題と対峙させられるのです。
いやぁ~素晴らしいお言葉です。
世界のたけしらしいお言葉です。
