〈内容〉
1、大和と名乗った民族
     (大和王権メインの氏族)

・古代の語源
・日本語と繋がる民族の祭や名前
・古代宗教の聖地や置物
・古代中国の伝承と青銅器
・DNAの証拠
から
初めに日本列島に渡り、
倭国を建てた人々はエラム高原にあった古代エラム王国からこのようなルートでやって来たという事。

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エラム王国→カラス王→カラス民族(わぃ人)→カイラス山→(殷元これ倭国 契丹古伝)殷→(殷滅亡期と弥生文化の始まり稲の遺伝子)倭国(大和)
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そして、倭国の前身となる国は青銅器、古代中国の伝承、渡来系弥生人の移籍の時期から古代中国の殷で初期のゾロアスター教のイマことイムという後のヒンドゥ教のヤマ神となる神を崇拝していたと思われます。

そして、イマ神の前身の神が古代エラム王国の都市スサで崇拝された角が生えたインシュシナクという神であり、この神様の姿によく似た角の生えた半神半獣の姿は殷の青銅器にも描かれています。

そして、殷の後に日本列島で倭国を建てたのが祭祀集団のトップ「賀茂氏」だけでなく、賀茂氏と同族とされ、インとイムという音の言葉によく似た民族名「忌(いん)」または「忌」に部民性の部と氏を足した「忌部氏」という事でありました。

そして、それを表すように忌部氏と同族の賀茂氏は角が付いた祖先氏「八咫烏 鴨武身命(かもたけつのみのみこと)」「賀茂建身命」がいます。

また、殷が倭国の前身とする事で賀茂氏と忌部氏はかなり早い段階でイラン高原(エラム高原?)から東アジアに来ており(阿波国)、それ故に同じエラム出身のユダヤ人が描いた聖書(旧約聖書)の内容は知らなかったとされます。

なので、元エラム人同士のユダヤ人と賀茂氏や忌部氏の倭国の伝統や祭は似ているけども、聖書のヤコブやモーセを知らない訳であります。

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というのがここまでの話ですが、

(過去動画
日本に2つ以上ある失われたアークの正体公開



今回話すのは、
倭国と大和王権、そして、日本の違いとは一体何か?

言い換えると、「倭国は賀茂氏や忌部氏がメインの国だとすると大和や日本はどの氏族がメインで建てた国なのか?」を話していきます。

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〈大和と名乗った民族〉
〜ヤマトの前のヤマト〜

古代のメソポタミア、エラム王国から殷(倭国の前身の国)へ、殷から倭国(渡来人弥生人  紀元前1,000年に日本列島に到着)へ、という流れで賀茂氏と忌部氏が日本列島にやって来たという話をしました。

DNAのゲノム解析を見ると渡来系弥生人の分布図が関西四国を中心に中越地方と中国地方に伸びているのが分かります。

つまり、渡来系弥生人とは初めに北部九州に拠点を置いた後、ゆっくりと四国・関西を拠点に日本列島を東西、そして南北へ広がっていったのが分かります。

つまり、先住民の縄文人が渡来系弥生人の人々と共存そして混血しながらも少しずつ東西そして南北へ追いやられたという事です。

それ故に、縄文の分布図が濃いのが九州、東北なのです。

しかし、関西を中心に日本列島の勢力を拡大していったのは倭国だけではありません。むしろ、賀茂氏や忌部氏は祭祀系の氏族なのでそんな氏族が中心の倭国が武力で先住民を倒し、勢力を拡大したと思えませんし、実際に賀茂(鴨)一族発祥の高鴨神社の宮司は「鴨族は高度な製鉄技術を持っていたが武器は作っていない」と述べています。

(鴨族は女系)

では、誰が倭国を発展させたのか?
それが大和王権です。

倭国(賀茂、忌部)と大和王権は元々別の氏族の国ですが倭国と大和王権は同盟を結んだので(日本列島に来る前からの同盟)、倭と大和を合わせて「大倭(やまと)」になったと言えます。

というのも、忌部氏の本拠地の1つ、阿波国があった徳島県には「倭」を「やまと」と呼ぶ「大國魂神社(ヤマトオオクニタマジンジャ)」「大國敷神社(ヤマトオオクニシキジンジャ)」があります。

そして、淡路島には阿波の「倭大國魂神社(ヤマトオオクニタマジンジャ)」と同音の名前を持つ「大和大國魂神社(ヤマトオオクニタマジンジャ)」があります。

同じヤマトという音で倭と大和という漢字を使い分けているのが分かります。

つまり、アイデンティティ的には少し違う倭国と大和王権が同盟を結び、共に発展していったという事です。

では、大和王権を建てた民族は日本のどの氏族で一体どこに起源を持っていたのか?

そんな大和と最も深い関わりを持っているのが物部氏。

では何故、物部氏が賀茂氏と忌部氏と同盟民族と言えるのか?

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その前に!

僕は過去動画でしれっとこの3つの氏族(賀茂氏・忌部氏・物部氏)以外にもう1つ、超古代のメソポタミアからやって来た民族を紹介しています。

それがKISH。
キシこと箕子という人物は殷の時代の政治家として活躍し、後に儒教の開祖 孔子に影響を与え、孔子からかなり尊敬されていました。

なので、殷が滅亡した時、箕子は東の朝鮮半島へ逃げたと信じられたために後の儒教の人々は朝鮮半島のどこかに箕子という素晴らしい思想を受け継いだ人々がいるという儒教にとっての理想郷、君子國があると勝手に信じていました。

ただ、現実は、朝鮮半島北部は住みにくいので朝鮮半島南部に住み着いた後、日本列島に移住したと思われます。

というのも、現在の大阪には「キシ」という音に部民性の「部」、そして氏族性の「氏」を付けた「吉志部氏(きしべし)」という氏族がいました。

現在でも吉志部神社が大阪にあります。そして、言い伝えでは吉志部氏は朝鮮半島からの渡来人とされています。

しかし、これまで話して来た通り、朝鮮半島から来たと言っても吉志部氏はただその場所を経由して来た存在であって、元々吉志部氏は殷の政治家担当の人々であり、殷は元々メソポタミアの隣にあった古代エラム人の忌部氏をメインとする国であります。

そして、それを表すようにメソポタミアにはKISH(キシ)」という日本語のような都市があり、この「箕子」部氏はこの古代都市KISH出身だと思われます。

では、何故わざわざ物部氏の前に吉志部氏の話をしたかと言うと、祭祀を主に行う賀茂氏や忌部氏の民族名「かも」や「いん」と政治や経済を行う吉志部氏や物部氏の民族名「きし」と「もの」は民族名の付け方が違うからです。

賀茂氏の「かも」は以前話しましたが現在のパキスタンにいる古代エラム人に影響を受けたであろうカラス民族の宮司がKAM(カム)と呼ばれている事から元々「かも」とは役職名(祭祀系役職名)、または神の名前だったという事が分かります。

そして、忌部氏の民族名「イム」または「イン」は古代エラムの一部で信じられたゾロアスター教の神「イマ」こと「イン」が由来である事から民族名は崇拝する対象であります。

もし忌部氏が、古代エラムのAwan=Awa(あわ)出身で、それ故に四国に阿波を建てたのであれば自らを阿波部氏と呼んでいてもおかしくありません。

しかし、阿波国にいた忌部氏は阿波忌部氏(あわのいんべし)と呼ばれていました。

それは賀茂氏の例で分かるように祭祀を司る氏族達は自らがいた地名より祭祀関連で民族名を付けていたと思われます。

その一方で、吉志部氏こと民族名「きし」はメソポタミアの都市「KISH」から名前を取っています。

そして、地名や都市名から自らの民族名を決めるという風習は超古代からありました。

例えば、「アッカドという地名の場所にいたのでアッカド人」のように地名がそのまま民族名になっている事は珍しくありません。

という事なので、祭祀担当氏族の賀茂氏や忌部氏などと違い、裁判や防衛(政治系)を主に行って来た物部氏の民族名は超古代のエラム、又は、メソポタミア辺りにあったと言えます。(物部氏の民族名は地名)

物部氏の部民性の「部」と氏族性の「氏」を取った「物」というのが物部氏の民族名です。

そして、先程のキシ部氏の民族名「箕子」が古代メソポタミアの都市「KISH」と同じように、物部氏こと「もの」族にも古代メソポタミアにゆかりの場所があります。

そして、その場所が古代メソポタミアの北東部に位置するこの広範囲の地域、当時この地域一帯は「Manna(マナ)」又は「Mannai(マナイ)」と呼ばれていました。

まず「Manna」という地名の最後のaをよく発音すれば「MONO(もの)」とほぼ同音であります。

また、この「マナ」という地域の別名「Mannai」と言えば、物部氏と同族であり祭祀を行っていたとされる「海部氏(あまべし)」そして、その海部氏で有名な京都の丹後にある元伊勢 籠(この)神社の奥の院の名前が「真名井神社」と呼ばれています。

つまり、海部氏と物部氏の同族関係から、このManna、Mannaiという場所が民族名「もの」こと物部氏の出身地だと分かります。

そんな物部氏が賀茂氏と忌部氏の倭から表向きの政治権力を譲られたのが大和王権だと言えます。

しかし、ここで大きな疑問が生まれます。

それは民族名もの、こと物部氏の出身地がメソポタミア北部のマナやマナイだったとしても何故彼ら物部氏は大和王権で大和という名前を使ったのか?

その理由は、マナ、マナイと呼ばれる地域付近に「YAMUT」「YAMOUT」ヤマトと呼ばれる(古代)都市があったからです。

シュメール人の時代の後期、メソポタミア地域で経済・政治・防衛の拠点として実際にヤマトという都市がいくつかあったと言われています。

また、次の日本を建国した民族の話にも繋がりますから、このマナ出身の物部氏の祖は現在のレバノン、当時の「カナン」という地域にも多く移住したため現在のレバノンでもYamout(ヤマト・ヤモゥト)という名字を持つ人々も少なくありません。

また、現在もYamut(ヤマト/ヤムト)という場所が当時のマナイの近くにあります。

KISH部氏の時はキシという都市だったのに物部氏はこのマナと呼ばれる地域一帯というのは広すぎませんか?と言われそうですが、物部氏は軍事・防衛・警備を担当する氏族で他の氏族と少し違い広範囲に広がるというのが特徴とされています。

つまり、物部氏の民族名MONOとほぼ同音のMANNAという地域に政治・経済・防衛の拠点であるヤマトと同音のYamutがあったという事です。

そう、もう偶然では片付けられないほど繋がる訳です。

つまり、古代エラム王国、殷、倭国というルートには賀茂氏や忌部氏の民族集団とマナ、マナイという場所から日本列島にやって来た物部氏の2つの民族集団があるという事です。

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(エラム王国にいた賀茂氏と忌部氏が、メソポタミアにいた物部氏と吉志部氏と共に行動した理由の時代背景は今後説明します

そして、古代都市ヤマトの正式名は
YAMUT-BAAL。ヤマト-バール。

BAAL
BAL
PAN
PANGU

となるわけです)

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ではヤマトという都市があったとされる
マナ、マナイという地名出身の物部氏が大和王権のメインの氏族であると話して来ましたが、大和王権から日本という名前に変えたのは一体どの氏族なのか?

(つづく

信じるか信じないかはあなた次第)