昔から日本の食卓に欠かすことのできない定番の食べ物にお漬物があります。

その漬物の中で、最も親しまれているものの一つは「たくあん漬け」ではないでしょうか?

「たくあん漬け」は名前の通り、沢庵禅師が考案したと伝えられいます。

そこで今日は沢庵和尚と「沢庵漬け」について調べました。

 

「沢庵禅師(沢庵和尚)」
沢庵禅師(1573年12月24日~1646年1月27日)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧侶で、諱(いなみ)は宗彭(そうほう)です。
但馬国 出石(現在の兵庫県豊岡市出石町)に生まれ、諸大名の招請を断わり、大徳寺の首座や南宗寺の住持などに歴任し、1620年(元和6年)に郷里の出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵(投淵軒)を結びました。


「沢庵漬名称発祥の地」の石碑が建っている「春雨庵」の入口です。(2008年に撮影)


沢庵禅師は後水尾天皇から、僧侶として最高の誉れである紫の衣を許されていましたが、寛永6年(1629年)の紫衣(しえ)事件で、幕府の怒りを買い、出羽国上ノ山(現在の山形県上山市)に流罪となりました。
その際、時の上山藩主、土岐頼行は、この沢庵禅師のために草庵を寄進し、禅師はこれを「春雨庵」と名付け、寛永9年間までの3年間を何不自由なく過ごしました。

「紫衣事件」
紫衣(しえ)事件とは、江戸時代初期の1627年(寛永4年)に、朝廷と江戸幕府の間で起こった最大の対立、不和確執事件です。


紫衣とは、高い位の僧侶が着用を許された紫色の衣のことで、本来は朝廷(天皇)が与える名誉ある特権でした。

ところが、幕府は朝廷の権力を弱めるため、1613年に「勅許紫衣法度」を定めて僧侶への紫衣授与を統制しようとしました。

しかし、後水尾天皇は幕府の了解を得ないまま、従来どおり大徳寺や妙心寺などの高僧に紫衣の着用を許可(勅許)しました。

これに激怒した江戸幕府(当時の将軍は徳川家光、実権は徳川秀忠)は、天皇の許可を「無効」として取り消しました。

これに抗議した大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうほう)らの僧侶を、1628年に流罪(配流)に処しました。


・流刑の地、山形県上山市の「春雨庵」です。

 この建物は、原型をその遺跡に再建したもので、茶室が併設されています


「沢庵漬けの経緯」

沢庵禅師は漬物の沢庵(たくあん)を考案したことで知られています。

その由来には二説あります。

 

「徳川家光に振る舞った逸話(命名の由来)」

・沢庵和尚が江戸の東海寺を開山した際、贅沢な食生活に飽きて味が分からなくなっていた三代将軍・徳川家光が訪れました。

和尚が手製の粗末な大根の糠漬け(または湯漬けと大根の漬物)を出したところ、家光は大変感激して「美味い」と食べました。

その漬物にまだ名前がなかったため、家光が「これに名前がないならば、「沢庵漬けと呼ぶべし」と名付けたと言われています。

 

「流罪先の保存食説(春雨庵の逸話)」

沢庵和尚が紫衣事件(幕府と朝寺の対立)により出羽国上山(現在の山形県)に流罪となり、春雨庵に隠遁していた頃の説です。

付近の住民から大量に差し入れられた大根を無駄にしないよう、干して糠と塩で漬け込み、冬の保存食として作り上げたのが始まりと伝えられています。

・春雨庵に安置されている沢庵禅師の像です。


紫衣(しえ)事件で出羽国に流罪となった沢庵禅師は、その後、赦免されて江戸に戻り、萬松山 東海寺を開きました。
書画・俳諧・茶に通じ、その書は茶道で珍重されたそうであり、多くの墨跡を残しています。