あめいりしこう と、読みます。


花札の手の一つで、11月、柳の20点札が入った四光を、「雨入り四光」と呼ぶのですが、それを捩りました。


柳の札は「雨」と呼ばれていて、20点札には、小野道風(おののどうふう)が、柳の葉に何度も何度も飛び乗ろうとしている雨蛙を見つける場面が描かれています。


その雨蛙を見て、小野道風は「諦めないで俺もやってみよう」と心に誓ったのだそうです。


そんな思いをこめて、いくつかの物語を 記していこうと思います。


暇つぶしにどうぞ。



rainman daisuke独歩

http://rainman.jp

2011年11月30日(水)

つぶやき

テーマ:雨要思考

最近ツイッターでつぶやいてみたこと。

http://twitter.com/#!/rainman_daisuke




旅人から旅人へ、読み終わった文庫本(小説)が手渡しで回ったりする。そして、最後のページには読み終わった日付と町の名前が書いてあったりするんだ。なかには、自分なんかじゃ太刀打ちできないコースで旅してる文庫本もあった。旅してるのは人だけじゃないんだよな。



10年以上前に、ネパールのポカラという町に、日本から郵送してもらって「キン肉マン」の単行本全巻を寄付したのだが、今もどこかにあるだろうか。。。ちなみにその時に一緒に居た友人は「キャプテン翼」を送ってもらっていた。旅の間の日本の漫画って最高の暇つぶしなんだよな。今もあったらいいな。



旅では再会が一つの醍醐味だが、カンボジア・プノンペンの現地人しかいないような路地裏のBARのカウンターで隣り合わせた日本人と、約1年後にヒマラヤ山脈トレッキング中、ダンプスという小さな山村の入り口ですれ違ったことがある。お互い一瞬で気付いて、そして凄まじい偶然に笑うしかなかった。





地図もガイドブックもないまま、なぜかモロッコ・カサブランカ空港に降り立った僕は、そこがフランス語圏だということも知らず、字も読めないまま立ち尽くしていた。そんな僕に声をかけてきたカナダ人の男二人組。僕は彼等についていくしかなかった。その日からカナダ人二人との奇妙な生活が始まる…


カサブランカの旧市街はまるで迷路のようだ。一度方角を見失ったら元の場所に戻るまで数時間かかることがある。同居人のカナダ人二人組と僕の三人は遂に奥深くまで迷い込んでしまった。モロッコショコラのプッシャーらしき男が僕達を手招いている。怪しさ満点だったが、なぜか僕等の足はその男の方へ…


その男はやはりプッシャーだった。カナダ人はディスカウント交渉もせずにショコラを受け取る。男は僕等に「どこへいくんだ」と尋ねた。カナダ人二人は「海を超えスペインへ」と答えた。そして僕はなぜかとっさに「砂漠へ」と言った。男は僕の目を見てにやりと笑い一言言った。「ゴー、メルズーガ!」


メルズーガ…その言葉の響きはいつまでも僕の頭から離れなかった。5日間ほどカナダ人二人と生活していたが、僕は遂にカサブランカを出る決心をした。町で地図を買ったんだ。出る事を告げるとカナダ人は、古いモロッコ版ロンリープラネットをくれた。握手をしてバス停へ向かう。ゴー、メルズーガだ。


メルズーガとは砂漠の入り口にある町の名前だということがわかった。とにかく東へ進めば砂漠がある…という感覚だけで僕はバスに乗り、その日の夜、マラケシュという街に降り立った。そこは大きなサーカス団の休憩所のような街だった。中央広場に面した安いゲストハウスにチェックインした。


マラケシュでフランスパンをかじり、フレッシュフルーツジュースを飲みながら何日か過ごした。空気は乾燥していて、空は見たことのない深い蒼だった。しかし大道芸人で賑わう街を窓から見下ろしながらも、僕は孤独を感じていた。広場の喧噪が悲しく映った。動こう、旅をするんだ。東を目指した。


バスはアトラス山脈に入り、どんどん上昇していく。山道を越えるとワルザザートという田舎町に出た。僕はそこで宿を取ることにした。宿の少年は僕の持っていた日本の週刊誌に興味をもっている。水着を着た女性タレントが海辺に立ってる写真が載っていた。僕はそのページを破いて少年に渡した。


少年はお礼のつもりだろうか、なぜかハシシを持ってきた。僕は安い食堂はないかと彼に尋ねる。彼はわざわざ案内してくれた。粗末な食材のタジン鍋とミントティーをいただく。乾いた体にパワーが沁みこみ温まった。次の日、少年に案内されティネリール行きのバスに乗る。メルズーガまで後少し。


ティネリールの街に宿を取り、食堂で休んでいたら独りの日本人男性に声をかけられる。彼は大学生で、これからメルズーガに行くと言っていた。何泊の旅行なの?と聞かれ、13ヶ月目だと答えると呆れられたような感心されたような溜息をされた。日本語のガイドブックを見せてくれと彼に頼んだ。


大学生に、何も持たずにこんなところで何をしてるんだと聞かれ「わからない」と答えたら笑われた。彼は「星の王子様」という絵本を見て砂漠に行きたくなり、1週間の予定で旅に出たそうだ。悪いやつではなさそうだ。情報を豊富に用意していた彼が「一緒に行く?」と誘ってくれた。ありがたい。


その大学生はT君といった。T君に案内されるままバス停からワゴン車に乗り、隣同士の席で砂漠を目指した。しばらくすると突然砂利道が砂地に変わった。砂漠に入ったのだ。あたり一面何もなく、他の乗客は二つの目以外の全ての体を布で巻いて隠していた。夕方、メルズーガの町に到着。ついにやってきた。


カステラの様な小屋がいくつかある宿屋にT君と二人チェックイン。もう辺りは真っ暗で砂漠も見えないし何も見えない。T君が「明日は4時起きだ!」という。なんでまたそんなに早いのと尋ねると、砂漠から昇る朝日を見るのがお勧めだとガイドブックに書いてあるそうだ。僕も4時起きするハメになった…


眠い目を擦り、懐中電灯の明かりだけで砂漠に入ってゆく。息は白い。耳タブが千切れるほど寒い。360度砂だけ。途中、方向を見失って立ち止まっていると、砂丘の陰からラクダに乗った老人が突然現れた。映画の様な登場だった。僕は老人に「サンライズ…」と言った。老人は黙って砂丘の先を指差した。


目の前にはとてつもなく大きな砂丘が…。T君は右側に回ってみるといって行ってしまった。僕の足はなぜか砂丘に向いていた。砂丘を駆け上がった。靴に砂が沢山入るので脱いで登った。砂で流され進まない。両手両足バタバタさせて登った。顔中が砂だらけになった。そして砂丘の尾根にやっと手をかけた。


空はうっすら明るくなっていた。登りきった砂丘の向こうを見ると海原のような果てしなく平ら砂地があった。すると正面からポンと音がするように太陽の光が小さく生まれた。少しずつ大きくなるその光を見ていたら、いつの間にか涙が出ていた。これをこの旅の最後の景色にしようと思った。おわり

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2011年01月25日(火)

10年目の旅

テーマ:雨要思考

◆雨要思考◆

2011年だ。
rainmanは、長期に渡り続けた放浪を終え2001年6月に日本に戻ったあと、すぐにメンバーを探し始めたので、活動10年目に突入したことになる。


ちなみに初ライブは2002年の1月15日で、CD出したのが2003年の5月なので、ライブ活動し始めてからだと9年目、CDデビューしてからだと8年目って感じ。


まぁ俺の場合は結成しようって決めた日が活動開始日だと思ってるので、10年やったってことでOKだろう。
俺の心の中で「やろう」って決めて、当たり前だけどその時は俺しかその事実は知らないわけで、それがこうしてメンバーが増えて、10年もの時間、最優先事項として音楽活動を続けてこれたのは、やっぱり強い思いが、その時の「やろう」にはあったんだと思う。


もちろんライブに足を運び続けてくれるファンの方たちや、出演させてもらえるライブハウスやイベンターさん、力を貸してくれるスタッフさんやレーベルの存在があってこそなんだけど、その前に自分自身が「やめた」って思ったらバンドは続けられないし、続けている自分がいるってことは、性にあってるんだろうし、好きなんだろう。


10年間を思い起こしたりなんかすると、色々ありすぎてちょっと疲れるので(笑)しないけど、昔から言ってるけど、俺は刹那主義で、ほんとに先のことを考えるのが苦手で、瞬間瞬間の楽しいことばかり考えてしまうので「この先ずっと続けていきます!」とか「一生唄っていきます!」とかは言えない(笑)ただここ10年は俺の感情ランキングナンバー1をずっとキープしてきてるし、2位以下は存在させないルールなので、まだやるとは思う。
雨々っていうヘンテコユニットも作ってみたしね(笑)
まぁ、やりたいことをやってみる。



ゆっくり海外に旅に出たいと2年位前から思い始めて、なかなか出れずにいた。
恥ずかしいんだが、一番の問題は金銭面。。
インディーズバンドがツアーとレコーディングをしながら旅行資金とその間の家賃を溜めるのはかなり至難の技で、先送りになっていたんだ。


しかし去年の秋ひょんなところからタイでのライブが決まった。
南正人さんの主催する「シャンバラまつり」のフライヤーを、あるフェスで貰ったら、そこに「レインマン」の文字が入ってたんだ。
最初はもう1個同じ名前のバンドがあるのかな?とか思ったんだけど、どうやら俺らのことだった(笑)
ナミさんクラスになると、正式なオファーなど関係なくフライヤーに名前書いちゃうのね(笑)
確かに、ナミさんからシャンバラまつりの話を聞いていて、「是非ぼく等も出たいです!」って話をどこかのフェスでした覚えはあるんだけど(笑)ナミさん、覚えててくれてありがとうございます!


といっても海外だし、メンバーも国内のツアーと同じようには行くまい。もし行くのが大変そうなら1人でギター持って行こうかなとか思ってた。しかし、話してみると意外にも全員乗り気(笑)さすが我がメンバーである。楽観的に直感で楽しそうな話なら後先考えずに乗っちゃうのである(笑)お金ないのに(笑)


そういうわけで、今年の2月にrainman全員で海外に出ることになった。


行くとなると、なんとかなるものである。なんとかみんな航空券を手配できたようだ。
基本、現地集合の現地解散にした。個人旅行のバックパッカースタイルは崩したくない気がしたんだ。
当日、無事に辿り着いたメンバーで演奏しようと思う(笑)。俺が辿り着けなかったりして(笑)


2001年まで続いた10年前の俺の旅。世間ではミレニアムだとか言って、21世紀の幕開けで大騒ぎしてた頃だ。

俺はインドのガンジス川のほとりで静かに21時世紀を迎えた記憶がある。まぁ「西暦」ってのはキリスト教圏の話で、ヒンズーの国ではそこまで盛り上げって無かった。

21世紀になって、1人サハラ砂漠を目指した。
砂漠に登る朝日を見ながら、10年後は何してるだろうなんてぼーっと考えたことを思い出した。
その時構想していたバンドが日本で実現し、ずっと続いていて、そのメンバーとタイにいるなんてことは思いもしなかったが。


今回のタイでライブが終わったら、せっかくの機会なので周辺の国々を少し回ってみようかと思っている。3月末に国内のツアーも決まったりしててそこまで長くいけないが、予想以上に楽しみにしている自分がいる。

旅に飢えていた自分を怖いくらい再認識した。俺は、音楽が日常となった今、日常を離れた旅人として生きたかったんだ。


世界地図をゆっくり見たのも10年ぶり。パスポートにビザのスタンプを押してもらったのも10年ぶり。コンパスも買ったし、スニーカーも買った。わくわくしてるんだ。



20代前半のほとんどを放浪で使い切った。
船に乗って列車に乗って、ヒマラヤから草原から島から砂漠からヨーロッパの裏路地まで…。
あの頃のような旅はもうできないし、しなくていい。
10年経った、35歳の、今の俺の旅をしたい。



自然に湧き出て降りてくる感情とコトバを静かに待って、10年目の俺の声につなげていきたいと思う所存。


俺のココが、爆発する予感がすぐそこにあるよ。


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2010年02月01日(月)

風使いの雨宿り

テーマ:雨要思考

初めての海外旅行は20歳の時。タイランドに行った。


バンコックのチャイナタウン(ヤワラート)にあるゲストハウスに泊まった。


のちにたくさんのゲストハウスを渡り歩くことになるんだけど、一番最初に泊まったゲストハウスはこの町、バンコックのチャイナタウンだ。


バンコックのチャイナタウンは、当時、「アジアの魔窟」といわれるくらい危険だった。らしい。俺はそういうことを後から知ったので、居る時は実感しなかった。ただ、いつもいつも騒がしい町だなとは思った。


泊まったゲストハウスの名前は「ナインストーリー」。

かっこいいでしょ?


名前がかっこいいから気に入ってた。


9つの物語。実際、9階まであったのか、、なにがナインなのか、、、覚えてない。でも大きなビルだったよ。チャイナタウンなので中国系の作りのビルで、管理人もチャイニーズさんだった。


今もあるのかな。。


中国系の作りっていうのは、とにかく部屋が広い。

部屋の8分の1くらいのスペースにベッドが置いてあって、残りの8分の7は広々していて何もない。箪笥みたいなのはあるんだけど、開ける勇気もでないくらいさびれてた。


天井には扇風機がついていて、スピードを「強」にすると、はずれて飛んできそうなくらい回りだすから、いつも「弱」に設定してた。


窓を開けると、正面のアパート(ビルみたい)に、チャイナタウンで暮らしてる人々の暮らしが見れた。これがタイの暮らしかーとかその時は思ったけど、のちのちそれが中国のスタイルだってことがわかった。中国は蜂の巣みたいな部屋の大群があるビルの中で、みんな窮屈そうに暮らしてる。火災とかあったらどうするんだっていうようなビルの中で、みんながひしめいて暮らしてるんだ。すごいよ。


エレベーターの前には、どの階にも使用人がいて、椅子に座ってるんだけど、どいつもこいつも昼寝してて、特に役にたってはいなかった。


下に降りると、目の前は屋台群。朝から生きた鶏の羽なんかを、屋台の人たちがその場でちぎって取ってるので、鶏の悲鳴がうるさい。毛がなくなった鶏はそのまま湯釜の中へ。煮だったそれを薄く切って、タレをつけてご飯に乗せる。きゅうりとかが何枚かついてる。乱暴な料理だけどうまい。

中華料理の歴史ってこういうところにも現れていて、あまりまずいなって思うものはなかったな。言ってみればバンバンジーだしね。うまいよそりゃ。貝とかであたったことは多かったけど、魚介類は体質に合う人とそうじゃない人といるよね。


バンコックにはカオサンストリートっていう超有名なバックパッカーたちが集まる通りがあるんだけど、当時はまだそこまで確立してなくて、チャイナタウンとカオサンどっちを選ぶ?みたいな状態だった。ように思う。カオサンは西洋人が多くて、あまり好きなれなかったな。20歳の時ってそういう感じだよね、自分のまわりの世界に対して。。金髪だったしね俺も。西洋人の金髪じゃなくて、ただの不良の金髪だったから、ただのクソガキだよね。


バンコックの中央駅っていうのがあって、そこに行くにはチャイナタウンは近くて便利だった。歩いてもいけないこともない。バスとかは慣れるまでは絶対に乗りこなせないくらい複雑だし(後に慣れるけど)、トゥクトゥクは交渉が面倒だったんで(後に慣れるけど)、ほとんど徒歩で移動してたな。


南に下ると、パンガン島っていう狂った島があるって聞いてたので、そこまで行くために列車と船のチケットを取りに行った。


当時はバックパッカーとか、そんな言葉も知らなかったくらいだから、とにかくどんどん刺激のある場所にいきたかったんだね。


パンガンに行けばなにか面白いことがあるって思ってただけだった。


マレー半島を下る列車は凄くすてきだったよ。旅ってこういう景色みることなのかなぁって思った。田舎の景色が列車のスピードで流れていってさ、風も気持ちよくて。きっと今思うとこのときに旅の魅力に取り付かれたんじゃないかと思う。その時はなにもわかってなく、ただキレイだなぁって思っただけなんだけど。


本土を離れて船にのって移動するのも面白かった。なにもかも初めてのことだったし、海を見ながら、この先に日本があるんだなぁとか、あほなこと思いながら揺られてた。


パンガン島について、島の人たちに言われるままにバンガロー借りてね、海みながら何日もぼーっと過ごしたよ。

狂った島って聞いてたけど、平和だなぁって思ってた。


そのうちバンガローのやつと仲良くなってね、きのこオムレツとかが頼まないのに昼飯にでてきたりした。今ならすぐわかるけど、マジックマッシュルームなんだよね、そのきのこ。


普通に食べちゃったら、もう景色がすごくてね。海がシマシマに見えて、ちょっと確かめてくるって海に近づいたら、おい崖からおちるぞ!って止められたよ。そのバンガロー崖の上にあったからね。いやぁ、狂ってるってこういうことかぁと思ったよ。


満月とか三日月とかぜんぜん気にしない人間だったけど、この島を境に変わったね。だって満月の時にひどいんだもん、この島。もう島中で音楽がながれて、みんな踊ってた。今はもうそういうのなくなったのかな。




この後、俺は6年くらいそういう生活を続けて、その後rainman組んで、8年くらい今みたいな生活続けてる。



で、今月、ラジオ番組をもつことになった。笑えるぜ。


心の奥にしまってある、いろんな旅の引き出しを少しずつ開けて、ラジオを通して話していこうかな。


あまり変なことは言えないけどね。


たいして意味なんてないし、しゃべるのは下手だから聞かなくていいけど、ちょっと疲れたなぁって思ったときはチャンネル合わせてみてね。自分よりバカがいるなぁって安心するかも。



rainman daisuke
[風使いの雨宿り]FM小田原(78.7MH.z)

・本放送 毎週日曜日 21:30-22:00
(放送開始:2/7(日)~)
・再放送 毎週月曜日24:30-25:00
(放送開始:2/8(月)~)

★インターネットを利用したストリーミング配信、
SimulRadioにて全世界どこでもFM小田原を試聴できます。
(※ON TIMEのみ※)

◎閲覧環境
下記のブラウザを利用してご覧ください。
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・Netscape 7以降
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[Windows]
・OS : Windows XP,Vista
・ソフトウェア : Windows Media Player 9以降
[Mac]
・OS : Mac OS 10.3.9以降
・ソフトウェア : QuickTime 6.5以降
※Macでの視聴の際には下記のソフトウェアのインストールが必要です。
→ Flip4Mac
FM小田原HP
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2009年11月01日(日)

まい ふぇいばりっと アニマルハウス その2

テーマ:雨要思考

1の続き



僕はバンドを辞めて、暫くバックパッカーになっていた。まぁ言葉で言ってしまうと「挫折」である。旅をしていた頃の話はここでは省くが、旅をした僕は約6年後に再びアニマルハウスのドアをたたく。その日のこともよく覚えてる。


その日は平日で、ライブが行われる代わりに、つるさんのバンドがステージで練習していた。つるさんは最初、僕が誰だかわからなかったようだ。なんだよだいすけかよ、お前あか抜けたなぁ。そんな第一声。そこで僕はクアーズを何本も飲んで、つるさんバンドの練習を見てた。帰り際、新しくrainmanというバンドを組んだことを伝えた。どんな感じなんだって聞かれて、比奈ゴールデンズみたいな感じだよって答えた。


それからつるさんは事あるごとに連絡をくれて、いろんなミュージシャンとつなげてくれた。本当に数え切れない数だ。そこから広がった縁が今のrainmanの交流域だといっても過言じゃない。たまに更新する「つる日記」というブログに、rainmanのことを書いてくれたりして、それを読むのも楽しかった(2007年で更新終わってる)。つる日記は本当にパンクな日記で今読み返しても面白い。つるさん言いたい放題(笑)。


アニマルハウスは、rainmanで活動した今までで、回数的には一番出ている箱なんじゃないかな。地元のバンドよりも多い時あったし(笑)


つるさんは相変わらずのバランス感で、面白いタイバンや企画をどんどん打ち出して、大物も若者も差別せずにみんなを巻き込んで輪を広げていった。


自分の誕生日には「ロックの生まれた日」とかいうイベントをうつくらい自分大好きで(笑)、自分が歌うためにライブハウスやってるんだ、ってよく言ってた。しかし、無愛想なので誤解されやすく、とっつきにくい人も多いんじゃないかなぁ(笑)


そんなこんなで、毎年ツアーで立ち寄ってるアニマルハウス。階段下りて、ドアをあけた正面に、よっぱらいながらモギリやってるつるさんとおしゃべりするのが楽しみなアニマルハウス。つるさんに負けないくらいのよっぱらいぶりを発揮する、その周りの人たちと会うのが楽しみなアニマルハウス。そんなアニマルハウスが、11月いっぱいで閉めることになってしまったんだ。


つるさんが、事故っちゃって、今、集中治療室で必死に戦ってる。


早く元気になってほしい。


前回、アニマルハウスに出た時、この日もやっぱりつるさん酔っ払ってて、CDを作るんだって嬉しそうに話してた。ドラムとベースは地元のカップルを指名。そしてギターはなぜかうちのkattsunを指名してた。kattsun困った顔してたけど笑ってた。それで、「ぽかぽか陽気に誘われて」を色んなボーカリストを呼んで、まるでウイアーザワールドのように順番に歌わせていくんだって言ってた。一番の最初はもう決まってるって。みっちゃん(遠藤ミチロー氏のこと)なんだって(笑)。他にもギターソロはあいつとあいつでとか、結構構想を練ってた。僕にも、どこが歌いたい?と言ってくれたので、希望を答えたりした。


まだそのレコーディングは終わってない。


つるさん、早く録ろうぜ。


まいふぇいばりっとアニマルハウス、僕の大好きなお気に入りのロック箱です。
永遠に不滅です。お礼もお疲れ様もまだ言わないよ。
アニマルのステージがまだ残ってるからね。






アニマルハウス
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=animalhousehp
つるちゃん応援BBS
http://011222.progoo.com/bbs/



つる日記
http://blog.livedoor.jp/animalhouse/

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2009年10月31日(土)

まい ふぇいばりっと アニマルハウス その1

テーマ:雨要思考

「富士アニマルハウス」に初めて出演した時のことはよく覚えてる。


当時の富士シティは、石を投げればバンドマンに当たる(多少大げさか…)と言うくらいバンドマンが多かった。80年代の終わりに出てきた空前のバンドブーム、と今になっては言われているが、当時をリアルに過ごした僕としては、ギターを持つことはごく当たり前の手段という感覚だった。ロックの神様ってのがいるんなら、僕はそいつにまだ出会ったばかりのころだ。


高3の夏休みに富士シティの目だったバンドを集めてちょっと大き目のイベントを開いた。今はなくなっちゃったけど富士駅の近くに富士文化センターという公共施設があって、そこのホールでライブをした。自分でチケット作って、機材のお店頼んで、フライヤーも作って(手書きだけど)、5、6組の10代のバンド達だけで動いて、10代の客だけで300人以上は来てたので、今から考えれば盛り上がってたんだなぁと思う。で、実はその文化センターのライブは昼間にやったんだけど、その日の夜にライブやった場所が「富士アニマルハウス」だった。人生で初めて1日に2回ライブやった日でもあってよく覚えてるんだろう(売れっ子になったみたいで嬉しがってたんだろうなぁ…苦笑)。


この日のアニマルハウスは、今でも恒例である「ライブベースメント」というイベントで、夏と冬に行われ、地元のバンドだけが参加するお祭りのような企画だった。アニマルハウスは今と違い少し敷居の高いライブハウスで(高校生のクソガキにとっては…)、オーナーのつるさんに声をかけられた時は嬉しかった。まだコピーが主流だった富士の10代のバンド界でオリジナル曲だけでライブしてた僕らが珍しく映ったんだと思う。鉄板モッカーズというバンドで初めてアニマルハウスのステージで歌った。

当時のベースメントは、参加者の中からベストギタリストとかベストべーシストとかを、つるさんが独断で決めていて(笑)、次の月のアニマルパラダイス(アニマルハウスのスケジュールフライヤー)で発表されたりしていた。つるさんの独断で決められるのに、なぜか説得力があって、歴代の名前があがった人のライブを見に行ったりした。

それで、その日の結果も次の月に発表されたんだけど、なんとつるさん、ベストバンド賞っていう枠に鉄板モッカーズの名をあげてくれたりしちゃったのだ。あんときは嬉しかったなぁ。その後は結構先輩のにーちゃんバンドマン達に名前知ってるよって言ってもらえたりした。きっとなにげなく選んだんだろうけど、つるさん発信の影響力ってのはなかなか凄かったんだ。


それから事あるごとにつるさんから連絡があり、いろんなタイバンを組んでもらった。時には混みあう日のメジャーバンドのストッパー(客がステージ近づくのとめる)のバイトとかもあった(笑)。そういう時は打ち上げとかにも参加させてもらって、高校生のクソガキの僕は、家でCDで聞いてる人たちが目の前で酒を飲んでるのをみて興奮していたものだ。

僕らが東京に出る前の最後のライブ、アニマルハウスでのタイバンはつるさん自身が歌う「比奈ゴールデンズ」とだった。その日、つるさんはMCで、自分が東京に居た時のことを少し話した後、もうすぐ東京へ行くあいつらに送ります、といって「ぽかぽか陽気に誘われて」を歌ってくれたんだ。


最高の門出をしてもらえた僕らは、東京に出て2年後、アニマルハウスでワンマンをした。客はモヒカンばっかりだった。弟のtomo-kunが初めて僕の歌ってる姿を見たのもこの日かな。しかしそのライブを後に、僕は暫くアニマルハウスには出ていない。僕はバンドをやめた。




長くなったのでまた後日。
つづく

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2009年07月08日(水)

rainman8年目、PARTY9年目

テーマ:雨要思考

以前書いていた、自問風答というblog で、メンバーについて一人ひとり、rainmanメンバーになった経緯や個人的に見た人間性なんかを書いたんだが、あれからもう4年も経った。(知らない人は読み返して見てくれ)驚いたのは、あの頃彼らに感じていた思いが、今とさほど変わらないということだ。one-tanは抜けちゃったけど、bobaがいるし、俺の理想どおりのBANDの形があの頃と変わらず今もそこにある。


思い上がったり、自己嫌悪に陥ったり、まぁみんなと同じように日常を過ごしてきたけど、rainmanでのツアーやライブは、足したり引いたりするものが何もなく、いつでも出し切って、その時のその夜の自分達を見せてきたと思ってる。


ライブ経験もなく、触ったことも無い楽器を手にして、いい大人が、文字通りゼロから無我夢中で歩いてきたけど、まだまだ全然満足してないし、これからも変わらずに変わっていくと思う。


昨日、飲み屋さんで「rainmanというバンドは、『バンドとはこうあってほしい』っていう理想のような集合体だ」と言われた。いまいちピンとこなかった。他のバンドと比べたこともなかったし、普通のことしかやってきてないからだ。俺らも、喧嘩ももちろんするし、幼馴染の親友ってわけでもない。誤解を恐れずに言えば、友情なんてもので繋がってる集合体じゃない。近いものでたとえれば「ロールプレイングゲームのparty」だったり「ワゴンで生活しながら移動するFAMLIY」だったり、そんな感じだ。


人がいう「こうすれば売れるよ」とか、自分自身が「こうした方が受けがいいんじゃないか」とかいう考え方が、恥ずかしながらまったく思いつかなくて、今やりたいことや、思いついたこと、ピンときたことだけをただやってきた。これからも、それ以外の気持ちでやるつもりもサラサラないし、会いにきてくれる人には精一杯の今のrainmanを見せるよ。


仲間と家族と恋人に感謝している。そして大した人数が読まないであろう、このblogを読んでるあなたに感謝しているぜ。


2000年にカンボジアで作った「PARTY」という唄を今でも心から唄えることに感謝してる。


ありがとう。また握手してください。

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2009年03月01日(日)

砂の海

テーマ:雨要思考
~「続・終わらない風の終わらない唄」を歌ってほしい。今日インドから戻ってくる彼が大好きな歌なんです~
というメールがホームページを通して届いた。俺は久しぶりに「続・終わらない風の終わらない唄」をセットリストに入れた。この曲を唄う時いつも思い描く景色がある。俺にとってこの唄は、終わりと始まりの唄なんだ。

この唄は2001年の旅の一番最後に作った曲だ。場所は、アフリカ・モロッコ。

長期でバックパッカーをしたことがある方なら一度は感じたことがあると思うが、長い旅をしていると、旅を終えるきっかけを見失ったような錯覚を覚えることがある。色々な国で色々な体験をすると、ある意味それが麻痺してしまって、よほどのことがない限り「もうこれで充分だ、日本に帰ろう」と思わせる出来事が、なかなか無くなってくるのだ。俺の場合、「もう帰ろう、これで旅が終われる…」と感じた場所は、サハラ砂漠だった。
THE JETLAG BAND!!!を散会して、再び一人旅に戻った俺は、ひとりモロッコにいた。とにかく砂漠が見たかったのだ。地図も持たずに「カサブランカ」に降り立った俺は、ひたすら東を目指した。「マラケシュ」を超え、砂漠の入り口「メルズーガ」になんとかたどり着いた。

砂漠の入り口を見たことがあるか?

砂漠はある場所で突然砂利道から砂漠になる。そしてその砂漠の輪郭は風に吹かれて少しずつ少しずつ広がっているんだ。地球の砂漠化はちゃんと肉眼で見える。

メルズーガに滞在していた俺は、ある朝、夜明け前にサハラ砂漠に入っていった。砂漠から登る朝日を見たかったんだ。時期は3月だったが、耳がぴりぴりするほど朝の砂漠は冷えた。俺は、真っ暗な中、小さな砂丘を、いくつもいくつも越えていった。しばらくすると目が慣れてきて、うっすらと周りが見えた。360度、すべてが砂だった。シーンとした中で息を殺していると、静かな砂漠に一人立っている自分がとても小さな存在に思えた。怖いくらい静かだった。どこからか、ラクダにのった老人が近づいてきた。老人は俺をまっすぐ見て黙っていた。俺はその老人を見て「サンライズ…」と言った。そうしたら老人が黙ってある方向を指差した。その方向には今まで越えてきた小さな砂丘とは比べ物にならないほどのでかい砂丘がそびえていた。あの砂丘の向こうから朝日が昇るのか…。俺の足は自然とその砂丘に向かっていた。しばらくして振り返るとその老人はもう何処にも見えなかった。

なんとかその砂丘の真下までたどり着いた。真下に着くまでも思った以上に時間がかかった。そして真下から見たその砂丘は、思ってた以上に高く、でかかった。砂丘の向こうの空が、少しだけ明るくなったように感じた。俺は砂丘を登った。スニーカーに砂が入るので手で持って登った。真っ直ぐ登ろうとするとズルズルと砂に滑って登れない、だから少し斜めに移動しながら登った。さっきよりまた少し空が明るくなったように感じた。俺は急いだ。なんとか沙漠から朝日が昇る瞬間を見たかった。ついに砂丘の尾根に手が届くところまで来た。
はぁはぁと息を切らせて、俺はゆっくりと体を上げ、その尾根の向こうを見た。その数秒後、遠くで小さなオレンジ色の光の玉が、ボワっと生まれた。そしてみるみるうちにその光の玉が大きくなっていった。そして目の前に砂の海が広がった。その砂丘の向こうには、そこに来るまで超えてきたようなぼこぼこした砂丘は無く、まるで海のように砂が広がっていたのだ。俺は不覚にも涙を流してしまった。今までの旅での出来事がどんどん頭を過ぎった。太陽の光が暖かかった。
その時俺は「日本に帰ろう、これを俺の旅の最後の景色にしよう」と思ったんだ。

砂漠の町を離れ、カサブランカでのモロッコ最後の夜に、俺はこの唄を書いた。


[続・終わらない風の終わらない唄]
作詞作曲daisuke FROM MOROCCO

その時確かに見た そうすぐそこにあった 
大切な夢は今もそこで光ってるよ
今を見ようとしてる 笑い返せるはずさ 
そう教えてくれたような気がするから

砂の海を照らすオレンジの太陽を見た
何かが終わって何かが始まる自分を見た

君達といたことが 君達といた時が 
遠くへ行こうとしてた僕を捕まえてくれた
創めようとしてる もう一度最初から
そう教えてくれたような気がするから

すべての町を通り過ぎてく太陽を見た
今日が終わって明日が来て そしてまた始まる

その時確かに見た そうすぐそこにあった 
大切なものはちゃんとここに閉まってるよ
前を見ようとしてる 笑い飛ばせるはずさ 
そう教えてくれたような気がするから

砂の海を照らすオレンジの太陽を見た
何かが終わって何かが始まる自分を見た

君達とつかんだ 君達と見たものが 
遠くへ行こうとしてた僕を捕まえてくれた
もう始まってるから 今始まってるから 
そう教えてくれる風が ほら吹いてきた

すべての町を通り過ぎてく太陽を見た
今日が終わって明日が来てそしてまた始まる

「もう少し」で届きそうで「もう少し」が続きそうだ
終わらない風は吹いていて 普通の顔した僕

◆雨要思考◆-1
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2009年02月20日(金)

せんきゅーまいふれん

テーマ:雨要思考
ネパールからインドにかけて、三人組の日本人青年と出会った。
彼等はまだ当時二十歳くらいだったと思う。
すごいテンションの高いヤツラで、いつも三人で大笑いしていた。
誰がリーダーというわけでもなく、上も下もない幼馴染という感じだった。
日本でずっと不良やってきて、国内じゃ飽き足らず、外国でも遊んでやろう!ってノリでインドに来ちゃったっていう展開が、とても解りやすく想像できた。
俺は彼等の「何事も面白いことがあればスマートに楽しむ」という遊びのスタイルが好きだった。
「ほほえましく思えた」とか、そういう上からの目線じゃない。単純に自分にはないソウルを見せてもらい、それに気づかせてもらえた事で、リスペクトしていたのだ。

彼等は、ガンジス川船上ライブにも参加してくれたし、その後のゴアでのビーチでも何度も顔を合わせた。
愉快なヤツラだったから、彼等の周りにはヨーロッパやイスラエルのヒッピーがいつもたくさんいた。
でも、彼等には一つ弱点があった。
それは、英語でのコミュニケーションだった。
誰かが彼等に英語で色々質問しても、返ってくる言葉はいつも「めいびー!」だった。
しかし、それをなんとも言えない人懐っこい笑顔で言うので、質問した外国人も苦笑いするしかなかった。
でも彼等は、彼等なりに一生懸命外国人とコミュニケーションを取ろうとしていた。
中途半端に英語が話せる日本人よりも、はるかに多い時間、外国人と接していたと思う。

ある日、南インドのボンベイという街で、俺は彼等と再会した。ゴアで別れてから二週間ほどたった後だ。
彼等は二人になっていた。一人はもう旅の資金が尽きて日本に帰ったという。
そしてその日も、二人のうちの一人が日本に戻る日だった。

俺は、今日別れるという二人を、自分の部屋に招いた。
そしてインドでのさまざまなエピソードを話し、笑いあった。
そろそろ飛行機の時間だ、と言うので、タクシーに乗る所まで見送りに行くことにした。
俺は三人一緒に旅に出てきた友達が、一人一人帰っていって、それを見送るのはどういう気分なんだろうと考えていた。
俺等は硬い握手をして、一人をタクシーに乗せた。
タクシーに乗った方は、安堵感もあったのか晴れやかな顔をしていた。
見送る方の彼は少し寂しそうな顔に見えた。

タクシーが走り出りだした瞬間、突然、見送る側の彼が大声で叫んだ。
「せんきゅーまいふれん!!!」
そうしたらすぐにタクシーの窓が開いて、タクシーの中から、
「せんきゅーまいふれん!!!」
と言って、見送られる側の彼も体を出して手を振った。

俺は胸が熱くなった。
俺は、日本人同士の、このへんてこな英語の挨拶が、こいつらの旅の全てを凝縮しているように感じたからだ。
英語が苦手な彼等の、そして必死で英語で外国人とコミュニケーションを取ろうとしていた彼等の、旅での最後の別れの挨拶が、このへんてこな英語なのだ。
「せんきゅーまいふれん」→「ありがとう俺の友達」、こんなスマートなお礼の気持ちがあるだろうか。
この光景に立ち会えた事を、俺は感謝した。


日本に戻って来てしばらくしたある日、一度だけ彼等三人と酒を呑んだ。阿佐ヶ谷だったと思う。
インドで遊んでいた時と同じ顔をしていた。

その少し後、あの日見送る側だった彼から電話が来た。
あいかわらず人懐っこい声だった。
「また遊ぼうなー」「うぃーすっ」
そう言って電話を切った。

それが彼と話した最後だった。

アイツは遠くに逝ってしまった。
友達を通じて、その悲報を知った時、俺はあの日の、彼の叫んだ「せんきゅーまいふれん」という言葉が、頭をよぎった。
泣いた。
そしてアイツの残した言葉を、俺が拾おうと思った。

Thank you. My friend. じゃない。せんきゅーまいふれん、なんだ。

友人「I」に捧ぐ。
「せんきゅーまいふれん」
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2009年02月11日(水)

アムステルダムでの奇妙な出会い

テーマ:雨要思考

アムステルダムにいた頃に一人の日本人青年と会った。


市街を散歩していたら「日本人の方ですよね?」と声をかけられたのだ。歳は22か23くらい。背は余り高くなかったけど、ヨーロッパを旅している旅行者らしくおしゃれな感じの服装で、アジア・アフリカを抜けてきた僕と並ぶとかなり小奇麗に見えた。

着いたばかりで右も左もわからなかった僕に、彼は色々と道案内をしてくれた。話しているうちに、同時期にインドの同じ町にいたことがわかったりして、僕らはすぐに仲良くなった。彼はインドに行ったあと日本に戻り、また再び旅に出て、ここアムステルダムに来たらしい。そんな中、再び再会するっていうのも、考えてみれば凄い確率だ。


彼と共に行動して3日ほど経ったある日、コーヒーショップでぼんやりしていたら彼がおもむろにある話を打ち明けた。


彼は「実は今、ある日本人のおじさんと部屋をシェアしてるんです。」と言った。同じ日本人同士で1つの部屋を借りたりする事は、まぁバックパッカーの間では特に珍しいことじゃない。僕は黙って彼のその後に続く言葉を待った。

「そのおじさん、仕事でオランダに来てるみたいなんですけど、何かの理由でお金をなくしてしまったらしくて、泣いて頼むので僕10万円分ほど貸しちゃったんです…。」と彼は続けた。
ん?なんだそりゃ?と僕は思った。バックパッカーが貸すには額が多すぎるし、今までの旅の中で身につけた本能的な危機感が、その話に違和感を持たせた。


で、返してもらえるの?と僕は聞いた。彼は「それが…、必ず返すと言うんだけど、いつになるかはっきりとわからないらしくて…僕ももうこの町を出たいんですけど、出るに出れないんです」と言った。

その話を聞いた後、僕は古着屋を回ったりして、買い物をしたんだけど、一緒についてきた彼は何も買わずに寂しそうについてきただけだった。僕もかわいそうだなぁと思ったけど、立て替えてやるほどのお金なんてもちろん持ってるわけないし、うまい言葉が見つからずにいた。
その日の別れ際、彼が言った。「明日、そのおじさんと会ってみてもらえませんか?君の目で信用できそうな人なのか判断してほしいんです」。

おいおいおい、めんどくさそうだなぁ…と僕は思った。でも、その彼の困った顔を見ると断ることも出来なくて、わかったよと返事をした。


そして僕は次の日、その泣きながら青年から金を10万借りたという、おじさんと会うことになる。


次の日の夕方、その青年と待ち合わせをして、おじさんが待っているという食堂に、一緒に向かった。どんな人なの?と僕は少しでも情報を手に入れておこうと、彼に探りを入れた。彼は「とにかく不快な顔をしてるんです…。自分で一緒の部屋を借りておきながら、部屋に帰るのが嫌になるくらい…」と、本当に嫌そうな顔で言った…。なんだか僕までいやぁな気分になった。

やれやれ…と思いながら彼の後をついていった。店に入ると、そのおじさんはいた。日本人だからすぐにわかったし、本当に一目でテンションがガタ落ちする風貌だった。だらしなくお腹がぽこりと出た感じに太っていて、ジャケットのボタンが今にも外れそうだった。年齢も想像しにくかった。30代にも50代にも見えた。前歯がところどころなくて、「どうもはじめましてー」と笑ったような顔で挨拶されたんだけど、笑顔というには程遠かった。

あのー…なんか彼とても困ってるみたいなんですけど、お金なんとか返せないんですかね?と僕はサングラス越しにそのおじさんを見て言った。サングラスを取りたくなかった。

おじさんは汗を拭きながら「仕事でトラブっちゃって…」と、答えにならない返事をした。だいたい、仕事ってなんなんですか?もうこの町に暫くいるみたいですけど、会社の方に連絡したらどうですかね?と、なんでこんな奴と話さなきゃいけなんだって思いながら僕は聞いた。

おじさんは相変わらず、質問には答えずに「お金が戻ってきたら、おいしいもの奢るから。それとも『飾り窓』の方がいい?さっきかわいい子見つけちゃった」といいながら青年の肩をたたいたりしてた。

おっさん、そんなことはいいから、この人に早く金返しなよ。僕は段々めんどくささが苛立ちに変わってきた。「ちゃんと返すよ!」とおじさんは僕の目を見ないで声をあげた。

ため息が出たので、行こうか…と言って、青年を連れてその店を出た。


店を出て、なんであんなのに金貸しちゃったの?と彼に言った。彼は、「やっぱり怪しいっすよね…」と、暗い顔をした。絶対怪しいよ、ってゆーか一目見て怪しいじゃん!

彼は「それに最近、あのおじさん金を借りてる立場なのに、すげー偉そうなんすよ…。話していて俺の考え方とか笑ったりするんですよ!」と言い出した。1番やりきれないのは彼なんだろうし、僕も責めるのはやめようと思ってその日は自分のホテルに帰った。


その後もしばらく町で彼を見かける度に、お金返ってきた?と聞いたんだけど、何も状況は変わってない様子だった。そのうちに、僕がアムステルダムを出る日が訪れた。明日の飛行機でアムス出るよ、と彼に言ったら、「ご飯でも食べましょう」ということになった。


次の日、空港に向かう列車を待つ時間を利用して、アムステルダム駅の近くのコーヒーショップで僕と彼は落ち合った。ご飯もいいけど、最後のアムスなのでコーヒーショップを僕は選んだ。


あれからどうなの?と僕は彼に尋ねた。「なんだかもう自分が嫌になります。なんでお金なんか貸してしまったんだろう。インドにいた頃が一番楽しかったなぁ」と彼は今にも泣きそうな顔で僕に言った。相変わらず僕にはうまく投げかける言葉が見つかっていなくて、何かあったら連絡してよと、彼とE-MAILアドレスを交換するのが精一杯だった。飛行機の時間が近づいたので、それじゃそろそろ行くね…ここは僕がおごるよ、と言って会計を済ませて店を出た。彼は「どうも色々ありがとうございました」と言った。握手をして別れた。


アムステルダムを出た僕は、ネパールに行く用事があったので、カトマンズ行きの飛行機に乗った。
ネパール第二の都市ポカラという町にある「ヒマリ」というホテルに、自分の荷物を預けていたからだ。飛行機に乗りながらも、彼とおじさんの顔がチラチラしていて、なんとなくスッキリしなかった。


ヒマリホテルに着いたら、オーナーが出迎えてくれて「いつもの部屋空けておいたよ」と言って案内してくれた。

ホテルには顔見知りの旅人達が何人か滞在していた。その夜、彼らが僕の部屋に尋ねてきてくれて、「ヨーロッパどうでした?」という話になった。いろいろ話したんだけど、夜もふけた頃に、この青年とおじさんの話を思い出して、僕は一部始終を話した。


話を聞いてくれた彼らが、口を揃えて「その彼災難だねー」と言ったのだが、一人の旅人だけ違う意見だった。

「ねぇ、さっき一目見て怪しいってわかるおじさんって言ったよね?なんでそんな人にお金貸すのかなって俺も思ったの。なんだかひっかかるんだけど、彼らもしかしてグルじゃない?二人で君から金を取ろうとしてたのかなって思って…」と静かに言った。


それを聞いたとき、部屋中の会話がピタっと静かになった。
心臓がドキドキした。


いやぁ、インドでも見かけてた青年だし、さすがにそれはないんじゃないかなぁ…僕はそう答えながらもかなり動揺していた。

その旅人は「君、その人にお金いくらか渡した?」と聞いてきたので、いや、最後の日にコーヒー一杯おごったくらいかな…と答えた。「そうなんだ…。なんかごめんね、そういう可能性もあるかなって思って言っただけだから」とその旅人は言った。
次の日、インターネットカフェに行って、彼のE-MAILアドレスにメールをした。これを見たら今の状況教えてください、と。


その後、彼からのメールの返信は、何年か経った今でも返ってこない。お金が無事に返ってきて心配なくなったからなのか、僕がアドレスをメモった時に間違えてしまって届いてないのか、それとも彼の身になにかがあって連絡できない状況なのか、ポカラでの旅人が言うようにおじさんとグルで僕から金を取ろうとしてたからなのか、それともコーヒーショップでうたたねしてた僕の単なる夢だったのか(笑)。真相はわからない。


アムステルダムでのちょっと奇妙な出会い、奇妙な体験でした。

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2009年02月08日(日)

おかんのMIDNIGHT EXPRESS

テーマ:雨要思考

深夜特急を読み返していて、ふと、俺のおかんがネパールまで会いに来た2000年の冬のことを思い出した。今思うと、とてつもないパワーだなぁ。おかんはネパールに何日か滞在して、俺が、旅の間どんな生活をしているのかを全部見たんだ。


最後、日本に帰るおかんを空港まで見送りに行ったんだけど、チケット持ってない人間が入れるのは空港の入り口だけで、先に進んでしまったおかんに「じゃあ俺ここまでだから気をつけてー」と、喧騒の中で伝えて、空港を出たんだ。タクシーに向って歩いていると、「大輔!!」と、叫ぶ声が聞こえた。振り返ると、おかんが、空港の入り口付近まで戻って出てきていて、警備員に押さえられながら、必死で手を振っているのが見えた。目を真っ赤にして、「生きて帰ってきなさいよ!」と俺に言ったんだ。


俺は自分の泊まってるホテルに着くまでの間、タクシーの中でずっと泣いたんだ。

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