シンキングタイム | *Girls be Fabulous!!!*

*Girls be Fabulous!!!*

日本でも、韓国でも、世界のどこにいたって、いつも心に笑える愛を。

今日は起きたら意外にもちょっぴり晴れ晴れ

雨かと思ったけど、なんとかもったね。


久しぶりにゆっくりしたこの週末。


ずっと読んでてなかなか終わらなかった本を1冊持って、カフェへ。

2時間かけて読破。


私が本を読んでいる姿は、周りから見たらすごくおかしいと思う。

驚く時は、驚くし、悲しい時とか感動すると普通に泣くし。



でも、読んでいる本の内容は、

自分の昔からの関心事項だったなぁ~と

ふつふつと沸き上がる気持ち。


こういう気持ち、久しぶり。




私の今のベースを作ったのは、小学校の時のM先生。

いつも休みの度に世界を転々とする人だった。


昔だからできたのかな?


教員という公務員の世界では、

当時からかなり異質の存在だったと思う。


何ヶ国語も話せて、秘境にもガンガン行く人だった。


いつも、休み明けの先生の土産話が聞きたくて、

聞くといつも自分が行ったみたいにワクワクして。


子ども心ながらに、うらやましいと感じたりして。



それから、小学校から大学までずっとお世話になったY先生。

英語の先生だったけど、色んな世界を教えてくれた。

そして、受験勉強だけでなくて、自分の関心・興味を与えてくれた。


学生時代、最高に生意気で、汚い性格の自分のせいで、

結局、Y先生からは見限られてしまったのだけれど、

世界の本当の知識を教えてもらったと思っている。


Y先生は、本当にどの分野においても博識な方だった。



Y先生から聞いた何気ない話が、

今の自分の生活の色々なところでリンクする。シンクロする。


シンクロニシティ。





韓国に赴任して、700日を超え、もうすぐ2年になろうとしている。


重い腰を上げて、次の道を探さなければいけない。




自分の『夢』ってなんだったんだろうと思い返すことがある。


『自分で決めた』夢というものがなかった気がする。


誰かの目線を気にして、

誰かがこう言うから、

いつも「誰か」のせいで動く夢。



果たして、それは『夢』なんだろうか。




俗物的な幼い頃の夢しか持っていない気がする。


○○になりたい、△△の仕事がしたい、

□□に行きたい、☆☆のような結婚がしたい。




「じゃあ、それを叶えてどうしたいの?」と聞かれると、


結局、何も答えられない自分がいる。



自分の芯がないことに今更気づくのである。



でも、本を読んだり、話をしたりすることで、


自分の心のアンテナにビビビとひっかかる分野がある。


深く掘り下げてみたいという気持ちになることもある。



でも、まだ芯をとらえきれていない感じ。





母親に相談しようと思った。


電話をかけたら、母親から現実を突きつけられる。




私の母親は、


私が1年後、日本に帰国し、就職して、


一緒に暮らすことを暗に望んでいる。




私に向かって、ビシッとはそうしろとは言わない。言えないのだ。


だけど、日本人特有の「空気を読め」「暗黙の了解」的なところで話をしている。



ごくごく当たり前の日本人の考え方だと思う。


定住しないことは、フラフラしていることとしか思えない人だ。





韓国に来て、一人暮らしをして感じたこと。


そして、どの占いに行っても言われること。




私は確実に

動いていないと

死ぬ。


自分のアイデンティティが死ぬ。



一つの場所にはどうしてもとどまれない。


それが痛いぐらい自分でもわかった。




もちろん、帰る場所があるということは


とても素敵なことだとは思う。


待っていてくれる人がいることはありがたいことだと思う。



だけど、私は一つの場所にとどまる人とはどうしても話が合わない。


頑張って最初は合わせてもだんだんズレが生じてくる。


結局合わせられないのだ。




私の母親はとどまる人だ。


場所にこだわる。


自分の従属に異様にこだわる。(と思える。私には。)




そんな母親から見ると、


できるだけ、人生の荷物は少なく、


足かせをはずしておきたいと思う私の性格は


到底理解しがたいのだろう。





言葉は悪いが、私にとって、母親の存在は足かせである。




もちろん、この世に自分を産んでくれた母親には心からの感謝と、


ここまで育ててくれたことに、同じ女性として最高に尊敬している。


人間一人を育てるということは、どんなに崇高で、難しい行為だろうか。




今、仕事をし、ほんの少しばかりの給料のうちの

ほんのほんの少しを母親に渡すことで、

精神的に安定しようとしている自分がいる。


そして、そのお金は、その期間、

足かせをはずしてもらっている代金のようなものだと思う。


もし、その代金がなくなれば、

私は自ら好んで足かせをつけて生きることになる。





私には兄弟がいない。



父親はいないわけではない。


所在がわからない。


所在がわかったとしても、頼れない。



親戚はいるけれど、それぞれの生活がある。





私一人、母一人の生活があるのだ。


誰かに頼ることは許されない。


私という存在がいる限り。母親という存在がいる限り。



やっぱりこれは、私に与えられた義務であり、使命であると思っている。



悪く言えば、一種の責任。


良く言えば、親孝行。





私の人生の半分以上続く課題だと思う。


答えが出るのかな?




この課題が解決された時こそが、


私の夢の始まりなのかもしれないなんて思いつつ。





そういえば、私の友人(日本人ではない)が鋭い指摘をした。



色々な日本人と話してきたけれど、一つ感じたことがある。と。



自分の周りの日本人は話してみるとみんなlazyだと。




決して楽しくないとか、つまらないとか、賢くないとかそういう話ではなさそうだ。


何かに疲れているのか、無気力さを感じるのだろうか?




だけど、私のことはlazyだと決して思わないそうだ。



私がかろうじてまだ20代だからなのか、


性格上、そうなのかわからないけど、


とりあえず、activeだそうだ。




友人の指すlazyがどこを見ているのかはわからない。


activeな部分もどこなのかはわからない。



何が?どこが?と聞いてみるも、just feeling.とだけ言われる。


理由はないみたいだ。




それに、私はlazyな部分もたくさんあると思う。


私が知ってる他の日本人でactiveだと感じる人もいる。



そもそも、日本人としてくくることに異議を唱えたくもなるが、


そう話す友人も決してlazyではない。




しかし、元々洞察力がずば抜けて鋭い友人からの指摘。

(考察と言うべきだろうか!?)


今、色々とlazyになりかけている私には、


単純に聞き逃せない一言だった。





そう思われるだけの


情熱をまだどこかで失っていない自分がいるのだろうかと


ちょっと肯定的に捉えてみることにする。