興味の無い方には退屈な文面ですので、読飛ばして下さい。
私は神の存在を信じていない、いわゆる無神論者である。欧米のホワイトカラーにそれを言うとリアルに軽蔑されるが、公的文書にもしっかりと「信じている宗教」の欄の最後にある「なし」にチェックを入れている。
世の中の多くの争いは、どの流派の神を信じるかが大義名分のようになっているが、無神論者の私からすると、どうしてもそのロジックに共感することができず、本音を言うと「すみません、ちょっと何言ってるかわからないんですけど」状態になる。
『あなたは何も信じていない。では、あなたの魂はいつ救われるのですか?』と、某会議が終わった後のフロアで大真面目に聞かれたこともある。しかし、私の魂は、救われていないとは感じていないし、むしろこれから行く予定の美味しい焼き鳥屋への期待感で、ワクワクしているところである。「焼き鳥になる鳥の魂はいつ救われるの?」と逆に聞くと、相手は軽く天を仰ぎ『鳥に魂はないから、救われる必要はない』と言う。「ふむ。日本では八百万(やおよろず)の神と言って、全てのモノに神が宿っていると昔から信じられているよ。川も石コロもバッタも、もちろん焼き鳥もね。」
「君の信じる神は人しかカバーしてないのなら、八百万の会議に出席して、最新情報をアップデートしたらいいんじゃないかな。今度そう言っておいてくれよ。」と言うと、相手はこんな馬鹿と話した自分が馬鹿だったと言わんばかりに、ヤレヤレと退散していく。
私は無神論者である。しかしその神とは、世の中のメジャーな宗教の中で存在する神について信じていないというだけである。もしこの宇宙の、人に計り知れないほどの大きな器と、時間と、物理現象のことを神と呼ぶのなら、私はその偉大なる神のことを信じている。
夕陽が山の稜線を照らし、そして麦畑をオレンジ色に輝かせる。冷たい風がそよぎ始め、鳥たちは森へと帰る。私は帰路、亡き友の在りし日の美しい姿を思い浮かべ、その魂が私の信じる神の下へと還って行ったことを知る。
本の中に出てくるような都合のよい神には、申し訳ないが、これほどまでに美しく、儚い世界を創ることはできないだろう。真実から目を背け、妄想の世界に救いを求めるのはその人の勝手だ。しかし、それを利用したり、他人に押し付ける行為には全く賛同できない。
無神論者を軽蔑する者は、外の世界を知らぬ、閉じた心の持ち主である。そのような者たちが神や正義を語る時、無神論者からは冷めた目で見られていることには、まるで気づいてはいない。