ここに掲載した写真はすべて、1997年8月の上海、浦東地区の農村地帯でのものだ。
工業地帯に隣接したこのエリアは、ここを歩いた翌年には再開発され、工業地帯の側に呑み込まれて行った。
ここに掲載している写真はすべて、すでに消滅し、歴史の中に組み込まれてしまった風景なのだ。
なお、次の記事は本編の姉妹編。上海の街並みからの報告だ。
■ 工業地帯に隣接する農村
上海の浦東にある工業地帯は拡大を続け、拡大する先には、農村が広がっていた。当時、出張で行った勤務先は、工業地帯と農村との境界にあった。
職場の窓から見える「境界から先」のエリアに興味を持ち、昼休みにはほとんど毎日のように、徒歩五分ほどで到着するその周辺を歩いた。
そこはいつでも、人の住む世界というものが新たな表情を見せてくれているエリアだった。
揚子江河口に面して広がる上海は、本来、大規模な水郷地帯だった。
古くからある農村地帯には、沼なのか川なのか区別がつかないような水路が、あちこちに無数にめぐっていた。
細い水路には魚をとるための、竹で作ったわなが仕掛けられていた。
それと水の流れとの対照。
そこに人の姿が見えなくても、人の生活、人の営為というものは、夏という季節に重なってあまりにも濃密に満たされていた。
舗装もされていない道を歩いていると、突然、目の前にカエルが飛び出し、それを追って蛇もまた飛び出してきた。
蛇は人の姿に気がつき、たちまちもとの草むらに姿を消した。
カエルは人の姿に気がつくこともなく、そのまま道を横切り、結果、蛇から無事逃げおおせることができた。
── 蛇に睨まれたカエルとか言うが、ちゃんと逃げていくじゃないか。
水の豊かなこのエリアに、野生というものは、あるがままにその姿を示している。
夏の湿度の高さの中、染み入ってくるものがある。
── それは野生そのものなのか。
上海の夏は湿度が高く、猛烈に暑い。畑の周囲に野草は勢いよく繁っている。
どの畑も、やっとその勢いに抗しているかのようだ。
トウモロコシ、なす、唐辛子、チンゲンサイ。みな、形が整っているわけでもなく、勝手に育ってきたような形をしている。
なにもかもが、思うがままに育ち、そうしてそこに人の生活がある。
ここに生活する人々は、それを当り前のように見て、そうしてそんな当り前の中に生きてきたのか。
── あるいは、それを見る私にとっても、かつては当り前のことだったのだろう。
水辺の家々は皆、しっくいやコンクリート、レンガで作られており、やや歪んだような、精度を感じさせないたたずまいを見せている。
それがなんとも明るい雰囲気を感じさせる。
夏の高い湿度の中、そんな精度の低さは、そのまま人の声のように思えるのだ。
── それらはいつでも、不思議な静けさの中にあった。
水辺の静けさ。形なく、動き、流れ行くもの。
そこには生命感に満ちた営為というものがあるにもかかわらず、それでもなお、静かなのだ。
そこにもまた、私が知らない「音楽」というものがあるのか。異国の夏の、正午の時間帯の中に。
家屋は木造建築が少なく、なにかアジア的でないものを感じてしまうこともしばしばあった。
そんな家の中で人の声は反響し、静かな路上にもかすかに響いてくる。それが、かえって静けさを感じさせる。
そこでは、カメラのシャッター音でさえもが、あまりにも異質な、乾いた異世界的な響きに感じられてしまうのだ。
家々の庭いっぱいに、豆などの生活の糧が干されている。
そこを、アヒルが賑やかに鳴きながら歩き回っている。犬はアヒルに興味も無さげに寝そべっている。
そんな犬の姿は、明るく、物憂げな時間帯そのものであるかのようだ。
夏風の吹く水辺の世界を彩るホウセンカやオシロイバナ、ヘチマの花々。
夏の正午の風の中、人の生活に重なっている、多くの生命のあまりにも高密度な集合体。── めぐるすべての場所に、それが感じられた。
あの、背の高い夏草はなんという名前なのだろう。
日本では見たこともない植物が数多く茂っていた。そうしてそんな場所に、異国の人々が住む家々の姿が広がっていた。
── ここでは、自分は何もわからないのだ。
そんな感覚は不思議なものだ。
しかしたとえ私にわからない世界なのであっても、同じ夏の日、同じ正午の時間帯に、いつでもそれらは眼前にあった。
これなのか、かつて中国の詩人たちが描写してきた世界というものは。
野生の世界との境界で、友との語らいを喜び、別離を哀しみ、人生を歌い上げてきた中国の詩人たちが示してきた世界というものは。
夏の日の上海郊外の浦東地区。上海の市街地からは、わずかに川ひとつ反対側に、これらの風景は存在していた。
これが、日本でもよく知られている上海という巨大都市を、囲むようにして存在してきた、人々の生活の場の姿なのだ。
■ 工業地帯の側から
中国では、「かまど」の中に居るかのように暑い土地を指して「火炉」と呼ぶ。「七大火炉」と呼ばれている中に、上海も入っている。
上海の夏は晴れの日が少ないらしく、陽が射すのは比較的珍しく、いつも曇っていた。
曇っていても猛烈に蒸し暑く、天気は一日のうちでも刻一刻と変わってゆく。
たちまち空が重たく曇ったかと思うと、すさまじいほどの雷雨がやってくるのだ。
この雷雨というのが凄く、窓から見える山のない広い大陸の風景の、いたる所に稲妻が走る。上海に長く住む同僚がこんなことを言っていた。
「ともかく半端じゃないんだ、ここのカミナリは。大陸なんだなあ」。
「大陸なんだなあ」。
── 山のない大陸の風景。高層ビルもなく、地平線がそのまま人の生活の場にあった時代。
広大な地平を見ながら老子は、孫子は、孔子は、なにを思ったのだろう。
始皇帝は、劉邦は、項羽は、劉備は、曹操は、そうして張良は、諸葛亮は、地平の彼方になにを見つめていたのだろうか。
彼らは、自分たちの声を、自分たちの姿を、地平の彼方にまで高らかに伝えようとしていたのだろうか。
そんな感覚は、この大地の地平線を見なければ、理解できないものなのかもしれない。
── 自分はこの地にあっては異邦人なのだ。そう思わざるをえない世界が、眼前に広がっていた。
■ ふたたび農村へ
窓から見える農村を抜けて行く道に、人の歩く姿が小さく見える。
風が雲を追い払い、日が射すと水郷の水面は、風の中に笑いさざめいているかのようだ。
そうして変わることなく、静かな農村のたたずまい。
工場の窓からまっすぐに吹き込んでくる風の中に、前の日に歩いた水辺の農村は変わることなく静かに、隣接するハイテク工場群に背を向けるように、午睡を楽しんでいるかのようだ。
夏風の中のそんな光景を見ていて、ふと思うのだ。
素朴さや無垢といったものは、もしすべてが放逐されたら、おそらくその文明は 崩壊して行くのだろう。
正午の、陽の当たる路上を歩けば、家々の姿はいつでも「人の手によって作られたもの」を感じさせた。
壁面や手すり、窓枠のささやかな装飾。それらは、そこに住む人々の日々の営為にある、夢のありかと呼ぶべきものなのだろうか。
異郷の人々の生活が語ることなく見せてくれる、思いというものの気配。
夏の正午の路上。
── わずか一時間ほどの彷徨の中で、繰り返し、路上に立ち止まっていた。
日陰に、おばあさんが椅子に深く座って涼んでいた。お年よりはどこでも大切にされている。
「ニーハオ」。
話しかけてきた彼女に返事をすると、さらにいろいろ早口で話しかけてきたのだが、何を話しているのかわからない。
首を振りながら、「不明白(よくわかりません)」と返事をし、そうして会釈をしながらそこを通り過ぎる。
成り立たないコミュニケーション。
しかし、この大気、この空間、夏のこのエリアで共有しているものがある。
それだけでも充分なのだろう。そう思えて来るのだ。
水辺の農村の中に、小さな商店があった。
喉が渇いていた。冷えていないままのミネラルウォーターを買い、飲みながら歩いた。
水郷地帯であるこのエリアの水路には、小さな橋があちこちにかかっていた。
そこを渡るのも、なんとなく楽しいものがあった。
あの場所に行ってみようか。あの場所には、どうやって行けばいいのだろう。
水辺に立ち、水辺のかなたを見やれば、そんな思いはいつでもやってきた。
橋を渡る感覚、それは何なのだろうか。
「ある世界から、別の世界に渡る」。
橋とはそういうものなのだろう。水の流れを眺めながら、多くの橋を渡っていった。
上海郊外の正午。
人々の静かな生活空間の中を歩き続け、橋を渡る途中で、いつしか橋の上に座りこみたくなっていた。
疲れていたわけではないのにもかかわらず、夏の正午の陽光は、そうしろと誘っているかのようだった。
浦東の先端的な姿は先進国からの資本投下の場でもあり、だからこそ華やかにTVでも紹介されている。
しかし、その「向こう側」には、誰も資本投下することはない。
このエリアも、ここをめぐった翌年には工業地帯に呑み込まれ、写真にあるすべては消滅してしまったのだ。
写真の場所は、下図(当時の上海地図)の右端付近にある。「金橋出口加工区」という所だ。
道路が記載されていないところには、みな、この写真のような風景が広がっていた。
■■■
上の記事に掲載しきれなかった写真も、少しでもご紹介しておきたいので、以下にまとめる。
■■■ 撮影はフィルムカメラによる。以下、使用レンズ。
SMC PENTAX-A 1:2.8 24mm
SMC PENTAX-M 1:2.8 35mm
SMC PENTAX-M 1:1.4 50mm
SMC PENTAX-M 1:2 85mm