最近、技術者たちの仕事がTVで紹介されるのをよく見かける。
エンジニアたちにとっては、ごく普通の光景なのだが、これまで紹介されることは少なかったなと感じる。
現場では多様なマシーンが、なにかを具体的に実現するために始動する。
そんなマシーンとともに、人の集中と熟練はかならずあり、そこであらたなものが生み出されていく。
あらたに命を吹き込まれるものがある。モノ作りの現場には、いつでもそんな感覚がある。
そこで努力は、「支払われている」のではない、「捧げられている」のだ。
支払いなら売買だろう。だが売買とは異なる「捧げる」という概念によってこそ、形あるものに命は吹き込まれ、命を持ったものは、あらたな領域へと拡大していくのだ。
日々、歩めば風景はそこに茫漠として広がっている。
そこからさまざまな映像が、ピックアップされたかのように浮かび上がるのは、なぜなのだろうか。
それらは、視点が変われば見落としてしまいかねないものばかりなのだ。
この身体の中を流れる血が、その映像を見出すのか。
記憶が、経験が、歓喜が、あるいは傷が、あらたな映像を見出すのか。
知った歌を口ずさんでも、おなじ歌になるはずもない。たとえ忠実に楽譜をたどっても、おなじ歌になるはずもない。
それなら、そこでピックアップされたかのように、あらたな歌が浮かび上がるのはなぜなのか。
記憶が、経験が、歓喜が、あるいは傷が、すでに知っている歌の中にあらたな歌を見出すのか。
そこに、命はあらたに吹き込まれていくのか。
Karl Richter - Preludium Et Fugue IN LA (A) MINOR
- BWV 543-Johann Sebastian Bach
なぜこの場所に立っているのだろう。
ここに来たからだ。ここに来たから、この場所に、否定しようもなく立っているのだ。
茫漠として広がる全体の中に、もし不可能があるのだとすれば、それは「この場所の否定」だけなのだ。
なぜ、否定することが不可能なのか。
ここに来たからだ。いまいるこの場所にこそが、命が吹き込まれ、生み出されているものがある場所だからだ。
巨大な社会システムは、いま、「支払うもの」と「捧げるもの」との混濁の中にある。
むしろ、世界レベルで支払いと返済の要求の声ばかりが高まっているのかもしれない。
だが歌は、支払い要求の中に沈黙し、歌が消失すれば共有するものもまた消え失せる。
普遍化することができるものは、命を吹き込まれたものだけなのだ。
かすかな光の中に、花々の色彩は呼びかける。ともに歌おうと呼びかける。
共有された、あらたな命を生み出すために。
茫漠とした世界からピックアップされたかのように、命を吹き込まれたものが姿を現す。
ここに来るために、なにかを支払ったのだろうか。
なにも支払ってはいない。「それとは気がつくことなく捧げてきたもの」によって、ここにいるのだ。
多様なマシーンはふたたび始動する。
人の集中と熟練、記憶、経験、歓喜、あるいは傷。
そのいっさいが捧げられる場に、あらたなマシーンは命を吹き込まれ、あらたな地平へと向けて始動する。
Johann Sebastian Bach Italian Concerto BWV 971. Karl Richter
撮影に使用したレンズは、フラッシュフジカ用の「FUJINON 38/2.8改」+「APS-C機」だ。レンズの焦点距離はフルフレーム換算で57mmと、やや長めの標準レンズとなる。