jehovas witnesses一世とは自分が最初に信者になった人

二世は、信者になった子供達
 
一世信者、1970年代研究生当時からも男性は非常に少なかった。それでも家族での信者は何組かいて家庭的な雰囲気があったような
都会でも女性の働く場はまだ少なく、キャリアを持つ人か、運良くOLになっても、寿退社ことぶきたいしゃという言葉があり、結婚と同時に退職、今ではびっくり
 
 
そんな時代に、家庭にいて子育て中の主婦が大勢信者となっていった。
 
戦後の反戦ムードがまだ盛んな時代に育った一世は、平和という文字に惹かれ
永遠の平和を第一信条に掲げたエホバの証人という宗教に取り込まれていった。
 
そこには、アメリカ式の交友、食事を共にしたりレクをしたりの友人関係が即築かれていった。とても心地よい空間がそこにはあった。
 
核家族という言葉が流行った時代。
二世帯ではなく、一世帯で住む環境には
新しく友人を作るのは簡単ではなかった。
 
幼稚園は一年保育の時代、
プレ幼稚園は保育園があるにはあったが
今のように手厚い保育がなされているとは思えずそこに自分の子供を預ける気にはならなかった。
 
全ての社会の仕組みが高度成長の途上にあるまだ走りであり、今の時代に変化する前段階
 
そんな時代昭和の40年代から50年代にかけて
信者は確実に増えていった
 
とても楽しい信者同士の友人関係、それもお互いを姉、妹、兄、弟と呼ぶのだから、宗教という名のお友達サークルに入ったようだった。
 
週に三日5時間毎週びっくりの"説教"を聞かされ続けていれば、当然のこと、その教えだけが頭にインプットされるわけで。
 
そしてあっという間に高齢になり還暦を過ぎてしまった
 
その40年を超える信者生活は研究生時代も含めるなら半世紀近く経ち、、
 
この宗教でいう終わりまで耐え忍ぶことができるのは、なんと信仰だけでなく"体力勝負"であることに気がつくことになった。
 
夜に出かけることは健康な人の話であり
集まりに出られないことは信仰の欠如、
という暗黙の押し付け
 
信仰を守ってきた自負は、若さで乗り切ってきた信者生活だったことにも気がつかされることになった。
 
子供達は、この世界しか知らず、
一般社会との接触は学校や習い事でのこと。
うちは夫婦とも長年信者のせいか(今も名前は残っている)子供たちは自然と信者になっていった。
そして、私が体を壊してからの離脱に続いて子供達も自分を解放していった。
私はむしろそれを望んだ
組織の闇を知ったから
 
 
トップに立つ信者、"特別開拓者"(1ヶ月の奉仕時間が140という正規社員並みの)
が我が物顔に自分方式をうちたて、続々と二世を信者にしていってしまったのを目の当たりにしたこと(独自のメソッドを配り信者の大量速成栽培を行った)
それが大きな転換点となった
 
それまで目にしてきた
"不完全"と言う言葉では片付けられない
言動がエスカレートしていく先導信者。
 
"神を待つ“次元ではないと
支部に手紙を送り訴えた。
 
そんなことを経て心があの館ヤカタに近づくと拒絶反応、動悸や冷や汗との葛藤
 
準備をはじめると激しい頭痛やお腹壊しが、、、びっくりガーン
集まりが開かれている時間中ずっと続いて
あの場所に行かれなくなった
 
子供に起こる登校拒否、、まさに、、
 
 
 
 
今では末っ子を除いて皆家庭を持ち
共々仲良くしている。
 
元々、家族のためと始めた宗教
父や母を後にして(家族を捨てての意味)と聖書の言葉にあるのは
それを勧めているのではない

〜〜※家族分裂という最悪の事態の時の慰めの言葉
それを美化する風潮はずっとあり殉教と同じレベルでもてはやされる
 
家族のためにならないなら
この宗教を切り捨てていくしかない
それが私の心を貫く太い柱であることに
今も変わりはない
これからも
 
神(今では"さま"をつけるらしい)より家族を愛する?ことがいけないこと、と、、

比較して並べるものではない!
 神は家族の幸福を願って家族という制度を作ったのだから
 
親なら子供の幸福を願うもの
神様を親と例えることは周知の通り
 
 
家族に分断をもたらし幸福をもたらさない宗教は宗教ではない、これは私の持論
 
排斥という制度がなくならない限り、この宗教は家族を分断させるものとなる
 
たった一家族であれ、数の問題ではない
 
 
 
 
この宗教に愛はあるのだろうか?
 
 
もうそんなことは考えなくなった
 
一般社会に友人ができるまでは
不安やこれからどうしょう、やら
 
 
少しの間、退職した後と同じ気持ちを味わうけれど、私同様に宗教の闇をもがき苦しみながらも気持ちを絞り出すブログを読み、文字の上で垣間見る心の葛藤を共有することはとても心の支えになった
人は置かれたところで埋め合わせていける強い力這い上がろうとする力を持っているものだと思う
 
浦島太郎のように夢から醒め陸に上がり見回すと
一般の人だって愛があり、友好的で思いやりもあり、気遣いにもあふれていることに気がつくびっくりキラキラ
 
二世信者の独特の人生を一世は経験してはいないけれど
自分の人生、自分の思うように生きたら良いと思う
何がしたいのか、元気なら今からでも遅くはない
 
長いスパンでの計画も、人生100年の時代なのだから
 
こう書くことをそのまま信者間で話せたら良いのに、、
 
などと1万年経っても叶わないことを思ったり
 
 
自由に発言できない場に未練はない
趣味の話
孫の話
子供の話
 
このどれも、、まして信者でない家族の出来事など話せるわけのない場所
"人間をやめ"なければいられない場所
 
あそうそう、この宗教、刑事事件を仲間内でうやむやにするのは
".どこぞの世界"と同じ
それを反社会勢力と一般には言う
 
まっとうな世界に生きましょう、と、信者に申し上げたい、、
 
立ち位置も人それぞれ
 
自分の生きたいように生き
したいことをし
 
そんな当たり前のことがやっと良心が痛むことなくできるようになった
 
自由に生きる意志を与えたのは神様なら
そう生きることのどこが悪いのだろうか
 
 
長い長い独り言
自分に言い聞かせる
 
今日も胸を張って生きた
明日もまた胸を張って生きる
 
 
🎶田園 唄
玉置浩二
 

いつもココから🌹
 
 
外は豪雨 心が強い雨音に乗って解放される
そんな雨音が心地よいです