「観音様」は日々出会う人々に姿を変えて、私達の目の前に現れる | 梵字アートで世界に虹を架ける梵字アーティストヒーラー陽子のブログ

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写経会・お大師様のお話   令和6年6月 須磨寺 寺務長 小池陽人 

法(ほう)は本(もと)より言(げん)なけれども、言に非(あら)ざれば顕われず

真如(しんにょ)は色(しき)を絶すれども色をもって即ち悟る【請来目録】

お大師様のお言葉
仏法は本来言葉を離れているが、言語手段がなければ我々には理解ができない。
真理も形から隔絶さてれいるが、形によって悟ることができる


陽人の随想録 ~ 余白のある法話 ~

先日、神奈川県の看護師、介護士の研修会で講演をしてきました。
私の話の後は、マジックショーでした。目の前で、マジックを見るのは、本当に久しぶりで、大興奮でした。

また、マジシャンの方が軽快なトークで会場を盛り上げるのです。
見ている我々に幾度となく拍手を求め、大袈裟なリアクションを要求していました。
そして、参加型のマジックで、会場が一体となっていきました。

受け身でいては、その場を本当に楽しむことはできない。
そのことを熟知しているからこそ、拍手やリアクションを求めていたのだと感じました。

プロのエンターテイメントのすごさに感動しました。
法話もそうなのだと思います。一人で話をしているけれども、一人では成立しません。聞いていただく皆さんが笑ってくださったり、頷いてくださったりするから、豊かな時間になるのだと思います。

私は、毎月の縁日の法話でそれを強く感じます。
お話を聞いてくださるみなさんは、受け身ではなく、積極的に耳を傾けてくださっていることを、いつも感じます。

その様な時、私と皆さんの「あわい」で法話が作られていく事を実感するのです。
マジックの間のMCでマジシャンの方が「私が皆さんに、こんなに何回も拍手を求めるのには、二つの理由があります。一つには、自分が安心したいから。皆さんにウケていることを確認したいのです。二つ目は、自分をここに呼んでくださった方を安心させてあげたいからです。」


と冗談ぽく仰って、主催者、企画者の方を気遣いながら笑いをとっていました。この気持ちも痛いほどわかるのです。私も法話を聞いてくださったかたの感想をお聞きし
「良かったですよ」の一言を聞いて、安心したい気持ちがあります。

それが社交辞令であっても、少しの安心が欲しくなってしまうのです。しかし、このことに関しては、先日、あることがきっかけで、改めなければいけないと思いました。

それは、フジテレビの説法グランプリという番組に出演したときのことです。
9人の若手の僧侶が九十秒で説法をする番組なのですが、その中に、ブラジル人の曹洞宗のお坊さんがいました。そのフェルナンデスさんの法話に度肝を抜かれたのです。フェルナンデスさんの法話は、分かりやすい明確なメッセージではなく、まるで禅問答かのような、よく分からない謎を残すお話だったのです。

その話を聞いた人が、自分で考え、受け止める余白を残しているのです。
実際、私はその日の帰り道で、フェルナンデスさんの伝えたかったことは、どういう事だったのだろうか、と考えたり、想像したりしながら帰りました。
それが、なんとも豊かな時間だったのです。

フェルナンデスさんは、話を聞いた相手に、受け止め方の全てを任せていたように感じました。

私はそこに、エンターテイメントではない法話のあるべき姿を見せて頂いたような気がしています。釈徹宋先生「相愛大学学長」が、法話グランプリの際にいつもおっしゃるのことは、「法話は話術ではない」ということです。
私が思うに、人を惹きつけるには、話術が必要なのです。

しかし、自らが話術に溺れてしまうことがある。話術に溺れるというのは、つまり、聞き手の心理をコントロールしようとすること。

私が、法話を聞いてくださった方の、喜びの感想を聞いて安心したいのも、相手の心をコントロールしようしている表れなのかもしれません。

仏教では、自らの「気づき」を大切にします。時として、話術は、その「気づき」を
妨げてしまう危険性があるのではないかと思ったのです。

文芸評論家の加藤典洋(かとうのりひろ)さんは「素晴らしい詩の欠点は感動しすぎること。その結果、その詩に呑み込まれてしまう。それではいけない。感動しながら、同時に覚めていなければいけない。どこかで、その感動をかすかに疑ってもらえるのがいい」
とおしゃっていたそうです。
まさに、フェルナンデスさんの余白のある法話に通ずる言葉です。
時に感動は、自分で考える、気づくという主体性を奪ってしまうことがあるのかもしれません。
「人に感動を、与えられるように、頑張りたいと思います。」や「皆さんに感動を届けます。」というような言葉を、テレビなど様々なインタビューなどの中で聞くことがありますが、この言葉にも違和感を覚えます。「感動」は、届けるものでも、与えるものでもなく、それぞれの人の中で、結果的に生じるもののはずです。

先日、お笑い芸人の小島よしおさんと対談しました。
小島さんもユーチューブで配信されているのですが、その活動の中で違和感を覚えたことを教えてくださいました。
それは動画の最後に「チャンネル登録、高評価、いいね!をお願いします」
というお決まりのセリフでした。

ユーチューブには、動画に「いいね!」というボタンがついているのですが、それを押してくださいとお願いしているのです。小島さんはふと思ったそうです。
「いいね!」という評価を、発信している側が、お願いするのは不自然ではないか、そもそも「いいね!」欲しがるものじゃないし、見た人が結果的に「いいな」と思ったら押したらいいことのはずだと。
そして、大人がそういう姿を見せることは、子どもにとって、悪影響ではないかと心配されていました。人に評価を求めることが普通と勘違いしてしまうのではないか。
良いか悪いかは、見た人が決めることであって、人の感じ方や思いをコントロールすることはできないということを、知っていることが大事なのだと、私もお話を聞いて感じました。

人から聞いて分かったような気になったとしても、自分にとって、本当の気づきになっていないこともたくさんあります。
法話は、聞いてくださった方が、自分でその話を受け止め、それぞれの気づきにつながっていくことが大事なのだと思います。

私も、法話をすると気に、自分の心を保つために(安心したいために)人の心をコントロールしようとしていないか、という反省を忘れてはならないと思いました。
そのためには、話術に頼らず、聞いた方が考えたり、想像したりできる余白を残す法話を心がける事。そして、何より修行を怠らない事。仏様と向き合い、至心にお祈りを重ねることで、法話をしたときに、言葉以上の何か、プラスアルファのものが伝わっていくのではないかと思っています。
そして、自分が話すことを、聞き手がどのように受け止めるかということも、仏様にゆだねる、お任せできるようになっていけるのではないかと思うのです。

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須磨寺小池陽人の随想録

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仏教伝道協会 presents 笑い飯 哲夫のサタデー・ナイト仏教

「観音様」は日々出会う人々に姿を変えて、私達の目の前に現れる。
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須磨のお大師さん

弘法大師様のご縁日

6月20日

10時より 護摩祈祷(お導師様 管長さん)

11時半より 奥の院弘法大師様のお勤め

14時より 本堂 おつとめとお話の会


6月21日

10時より 護摩祈祷(お導師様 管長さん)

11時半より 奥の院 弘法大師様のお勤め

14時より 護摩祈祷 (お導師様 副住職)

小池副住職の法話は

6月20日 奥の院

6月21日 奥の院・14時からの護摩祈祷 

ぜひお参りされてくださいね