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 話が終わり、部屋がしんと静まる。振り子時計だけが止まることなく動き続けていた。
 守はふと、ある嵐の夜を思い出す。響くような雷鳴、雨音、彼女の声———その子は、まだ、高橋の心の中では生きてる?———その答を聞いた彼女は、一体何を思っただろうか。嵐の中、どんな気持ちで家路を辿ったか。
 「あの子は何でもするで。目的を果たすためならなりふり構わへんし、自分に添えられた期待にはきっちり応える。うちが言うたら親馬鹿に聞こえるかも知らんけどな」
 チラチラと時計を見やる葉流が、声のトーンを落として言う。守もまた、つられてそちらに視線を回した。
 「いい手駒が増えましたか」
 「まあな」
 皮肉めいた彼の口調に葉流が苦笑する。言外に、分かりやすい奴だと笑われた気がした。
 「よく言えば救世主、悪く言えば爆弾————“ウチ”の連中は、そう言ってる。」
 「爆弾?」
 「敵に回したらの話。万が一出来心を起して暴れでもされたら、自分の手には負えないかも、とか思うてるのよ。実際あいつがジョーカーを名乗り出たとき、こっちもかなり犠牲を出したからね。ガキ一人に、何びくついてんねんって感じやけど」
 そう言うと葉流は、大きなため息を吐いて畳に倒れこんだ。
 葉流さんの娘じゃ誰でもびくつくでしょ、と守が笑うと、こらガキ、と言う彼女の顔に戯笑が浮かぶ。双子とよく似た、したたかで幼い笑み。自分の置かれた立場も忘れて和やかな気分になった。
 「何が可笑しい」
 言いながら時計を瞥見する彼女。
 「いや、似るもんだなと思って。イツの表情の作り方が葉流さん似なのは知ってたんですけど」
 守が瞼の内で満流を思い起こしていると、少し考えた後に「ああ」と頷く。
 「満流のことね。そりゃ、一応あの子はうちの腹から出てきたんやから」
 「でも、仕草とかって育て親に似そうじゃないっすか」
 「半分は育てた」
 「半分でしょ、たった八年っすよ」
 「八年育てりゃ十分よ」
 面倒くさそうな口調が耳に付く。守は自分がむきになっていくのが分かった。
 何事にも興味を示さない様な、何処か浮遊しているような目。投げ遣りな言葉は、子育てが退屈しのぎだったと言わんばかりに響いて彼に失望感を突き付ける。
 腹が立ちはするものの、言い返す気力も起きなかった。
 彼女は言って解る相手ではない。それに、歯向かった際に無事生きて此処から出して貰えるかも分からない。逆に満流と再会する前に追い出されても困る。諦めて、ゆっくり振れる振り子をただぼんやりと眺めていた。

 時計の針が二十時を回ると、今までとは少し違う空気が屋敷内に漂い始めた。慌ただしいような、騒ついた緊張感が部屋にも紛れ込んでいる。
 同じ場所で長い間静かに居ると周りの些細な変化にも気付くもので、彼女も異変を感じ取ったのだろう。葉流は知らせが来るより早く行動を開始した。
 「万が一うちが居なくなっても、絶対この部屋から出るなよ。いいね、その場半径一メートルから一歩でも動いたら殺す」
 彼女の表情は変わらないものの、静寂を破らないその声は重く腹の底に響いた。昔、冗談として口癖のように繰り返していた“ころす”の三文字が、急に現実味を帯びた気がした。
 息を呑むように守が頷くか否かのタイミングで、ただならぬ音を立てドアが開く。
 「‘  ’チームが——でポリスに包囲されたそうです!負ショウ者数名、………から応援要請が出テます」
 扉を開けたのは、髭を生やした青年。葉流が指示を煽る。
 「上から指示は」
 「ハートのキングは、クイーンとダイヤの三、五、七バンに出動命令を。あとはクラブ七、八バンも他部から向かってます」
 「オッケーすぐ行く。お前コイツ見とけ」
 そう言った葉流は青年に銃を押しつけると、一メートル以上動いたら撃てと大声を上げながら疾風の如く消えて行った。
 ぽつん
 呆気に取られているうちに、守も青年も畳の匂いの中に取り残された。
 青年は不満げに何かを呟き、閉まった扉にもたれつつ座り込む。守を一目見ると、大きく息を吐く。室内には張り詰めた空気が蔓延していた。

 暫くすると、再び荒々しく扉が開く。
 開いたドアは青年の背部を猛打して青年を除けた。前のめりになった彼は、振り向く間もなく侵入者の手によって深い眠りに落とされる。
 息が詰まるような臭いだ。あまりに強烈な臭いに思わず鼻を覆う。侵入者のむき出しになった肌は生傷に覆われ、痛々しく血を流していた。
 「大した度胸」
 無音のまま、口だけを動かした侵入者。守は眉をしかめる。
 「春…野——?何でお前がそいつを倒すんだよ」
 「邪魔だったからね。役に立たない下番に用はない」
 「今正に立ってたんじゃねえのかよ」
 「使える下番は全員追加メンバーで加わってるはずだったのに、こいつは上の命令を無視してここに残ったんだよ。これが当然の報い」
 一固体と化した青年に対し、侮蔑の目を向ける春野。葉流の冷たい表情や現実離れした彼女の今現在の格好よりずっと、人の生に対する温度差を感じた。同じ“人”とは思えない程だ。
 「あんたなんか」
 床に転がった“それ”をドア付近から除けると、春野は顔を上げて言った。
 「あたしには凄くどうでもいい存在なんだけどね、ジョーカーのお気に入りでもなけりゃ———」
 彼女はそこで言葉を止めたが、その先は想像するだけでも鳥肌がたつ。大きく息を吸い込み、ゆっくりそれを飲む。擦れた声で言を返した。
 「結局…何がしたいんだよ」
 「何がしたいか?出来れば何もしたくないよ。誰かさんが厄介を増やしてくれさえしなきゃ、今頃風呂に入って寝てた」
 「今からでもそうすりゃいいだろ。心配なんかしなくたって、こっちは腰が抜けて立てもしねえよ」
 「そうしたい気持ちは山々だけどね。あたしはこんな雑魚殺すためにわざわざ来たわけじゃない」
 土足のまま畳を汚す春野。足跡を目で追っていると、不意にしゃがみ込んだ彼女の目が合う。
 自分の身は自分で守んな。今日は手を引いてくれる“メグム”はいないよ。そう言って守の腰に何かを巻き付ける。
 「ジョーカーから『客人を無傷で地下に送り届け、事が落ち着くまで監禁させてもらうこと』っていう面倒な任務を言い付けられたもんでね」
 「満流が?」
 「あんただって汚れたあの人なんて見たくないでしょ」
 腰が抜けて動けない守をなんとか起き上がらせ、春野は彼に自分の後ろから離れないよう指示して歩きだした。守も慌てて後を追う。
 地下までの道程は長く複雑で、何度も銃を向けられた。その都度彼女は躊躇なく引き金を引き、殺しはせずとも彼らの足から自由を奪った。言うまでもなく、その間守は春野に与えられた銃を使うどころか、腰から抜くことも出来なかった。
 何故味方同士で撃ち合いなどをするのかと尋ねると、軽やかな口調で返答される。
 あたしの独断で動いてることになってるから。
 目元をぴくりともさせず、平坦で薄っぺらな紙のような言い方だった。

 地下は暗く何も無いところで、完全に世界から切り離された場所だ。広い、コンクリートの部屋。冷たく澄んだ空気。良く言えば無心になれる、悪く言えば孤独感に満ちた空間。微かに、人の居た気配はする。
 「食材はある程度揃ってる。トイレは奥に一つ。風呂はないけど勘弁して。全部終わったらきっと、満流さんが迎えに来る」
 守を押し込むなり閉じた重い扉の向こう。また、悲惨な音だ。


 店の戸を引こうとすると、内側から鍵が掛かっており開かなかった。窓越しにそっと中を覗く。客は一人としておらず、カウンターを挟んだ母親と又従兄弟が暗い面持ちで話しているだけだ。槙は深呼吸の後、ポケットから出した鍵を恐る恐る穴に刺し、生唾を呑むようにしながらゆっくりそれを回す。
 「何してんの」
 突然背後からかけられた声に、槙は全身冷や汗と鳥肌に襲われた。心搏数が急上昇して息が詰まる。そして恐る恐る振り向いた先にあったのは、怪訝な顔で彼女を覗き込む乙の顔。
 「自分ん家くらい普通に入んなよ」
 「え……と。まあ、色々事情がありまして。先輩はどうしてこんな所に?」
 槙が向き直って微笑む。乙は少し店内へ視線を回したが、深く詮索を入れる様子もなく笑い返す。
 「あんたに伝言をね。一流から、渚はそんなに柔な男じゃないから早まんなって。うちはそっちの事情なんて知らないけど、あんたはもうちょっと周りを信用してもいいんじゃないの?」
 「————。」
 「うち、中学の時陸上やってたじゃん?故障がきっかけで辞めたんだけどさ、辞めてもね、当然だけど誰にも何も言われなかった。
 自分から辞めといて難だけど、本当は誰かに止めてほしくて、頑張れって言って欲しくて、だからちょっと悔しさとか後悔は残ったんだよ。正直へこんだね。それ迄陸上に関してはちやほやされっぱなしだったけど、辞めても誰も止めない。うちは居ても居なくても変わんないか、とか思ったら、急に周りが信じらんなくなった。
 だけどさ、ある奴が言ったんだよ。『もしそれが投げ遣りに出した答えなら止めてたけど』って。何知った風なこと言ってんだかね。でも、そういう嘘をつく奴じゃないって知ってるから、結構楽になった。高校入って、大会とかで会った友達もさ、気い遣ってくれたり、たまに部活にも誘ってくれたりして。
 驚いたのは、中学ん時にずっと敵視してた学校の奴が居て、そいつ、うちはもう走れないっつった後に『風雲児出よう』とか言うんだ。ばかかお前はって思うじゃん?言ったらさ、そいつ、『最後に走ったって罰は当たんねえよ』とか言いやがんだよ。結局推しに負けて出たけどね、案の定うちが足引っ張って三位止まり。かなり有力な選手ばっかりだったのに、古巣の後輩に負けてんの。悔しかったね、ありゃ。情けなさすぎて目が腐るくらい泣いた。
 泣いたらまた楽になったけどさ。その後は何かが吹っ切れてね、今じゃ何でかサッカー部のマネだよ」
 乙が苦笑する。
 昨年の風雲児杯。鈴峰女子はまた二位に転落し、宿敵である翔英男子に首位を譲った。しかし、誰もが驚いたのだ。当然前年の主力たちが集まる琳俊高校がダントツで一位を獲得すると、誰もが信じていた。敗因は“石垣乙の転倒”。
 新聞の一記事にも小さく取り上げられた彼女は、写真の中手当てを受けながら記者に分からない程度に笑っていたかも知れない。
 「あっという間に終わるよ、秋なんて、一瞬。休みが明けたら葉っぱが落ちて、陽が緩んだら雪が降る。クリスマス、正月、なんやかんややってる内に真冬だ。見える景色も変わる」
 爽やかな風を乙は顔面で受けた。長い髪が後で踊る。彼女はこんなに美しくて魅力的だっただろうか。目が霞むほど眩しく、柔らかい笑み。張り詰めていた気を一気に緩めた。
 「せ…んぱい…——」
 「大丈夫だよ。一流もと介が大丈夫って言ってんだから」
 「私…高橋くんに謝らないと………。私———」
 「大丈夫だよ」
 急に緊張をを解いた反動か、気が動転し始めた槙。宥めるように繰り返す乙。この石垣乙という人物は、どれほど大きな器をしているのだろう。どうしてこんなに、自分に構ってくれるのだろう。
 渦巻く心中、偽善だと危惧する反面、何処か安心していることも確かだった。
 乙に手を引かれ導かれるままそこを立ち去る。


 気配も音も、美樹はしかと聞き取っただろう。一瞬だが外へ意識を逸らした。しかし、それだけで自ら戸を開きに行ったり、後を追ったりはしない。
 「放っとくの?美樹さん」
 渚は彼女の豆だらけになった手を見つめる。白くも逞しい腕には、油の散った火傷も多い。
 視線に気付いた美樹が無意識に手を擦った。
 「問題ないわ。私は渚くん担当だから。渚くん抵抗しないから楽だわぁ。ふふっ」
 そしていつも通り、にこにこしながら言うのだ。
 「だけどもう、こんな日々も終わりね」
 安堵に満ちた顔を、彼は無言で眺めた。