*~*~~*~*~*~~*~*
【HeroS】
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その日は特に好天に恵まれ、空には雲一つない青空が広がっていた。熱すぎる程の日差しが、白くあるべき肌にと照りつける。
風雲児杯。小~高校生を対象とした陸上競技大会。
男女の基礎体力の差を考慮し、スポーツは一般的に男女別に競技するが、この大会では男女、年齢無差別で競技が行われる。その為か参加校は極めて少なく、地区大会を省略しても一日で全競技の順位をつけられる。
鈴峰女子中はその中でも至極稀な参加者で、周りが略全員男子である中、それでも常に上位についていた。
『ぜぇぇぇぇったい、勝つ!今年こそは、奴らの歴史に泥を塗ってやる!!男子校の癖に、ズルしてんじゃねぇぞコラァっっ!』
『燃えてるねー、オト。』
『試合前に元気だよねー。私、風雲児の前だけはお腹痛くて死にそう。』
『てゆうか試合前になると性格荒れるよね。オトちゃんは。』
『え、この人いっつも荒れてません?』
貸し切りバスを降りると、知らない制服やジャージを着た人々が続々と集まって来ていた。白や黒をベースに、赤、青、緑など色とりどりのラインが人身を纏う。
女子ばかりだからなのか強豪校だからなのか、それとも煩いからか。満流はバスを降りた瞬間から自分たちに向けられる注目の多さに気付いた。そして、全国的に有名な乙が同じ団体の中にいることに、心から感謝する。彼女がいる分、自分に集まる視線は俄然減った。
『開会式が終わったら、出番迄は控え室にでも居な。焼けたら困るんでしょ?』
ユニフォームの上に学校指定のジャージを羽織りながら、彼女は満流に声を掛けた。こういう所はやはり評判通り“紳士”なんだ。部活中目の当たりにしている鬼っぷりを思うと、不思議な感覚で笑えた。
『先輩も二重人格だよねぇ~。』
爽やかな風の吹く、夏とも秋ともつかない朝。闘いの火蓋は切って落とされた。
開会式が終わると、目深にかぶった帽子も取らずにさっさと選手控え室に戻る。しかし、満流が出場するリレーは一番最後の競技で、予定では午後三時半からとなっている。それ迄はぼーっとする他暇の潰し様がなさそうだ。
『控え室にでも居な。とか言われてもねぇ…』
購買前のベンチに座り、行き交う人々をただ眺める。
『なぁ自分、』
突然背後から話し掛けられたと思えば、声の主は馴々しくも後ろから肩を組んできた。
『自分、“メグム”ちゃう?モデルの。エライべっぴんさんやから俺てっきり天使かと———』
ドスッ
『やめぇや大介、キショいわ。すんませんコイツどうしようもない馬鹿なんで。軽くスルーしてクダサイ。おい大介、お詫びにジュースでも買ってこい。』
鈍い音の後に現れたのは、荒んだ目をした美少年——といっても、見たところ満流より上の学年だ。叩かれた方は『なんでやねん!』と激しく抵抗しながらも、結局購買へと足を運ぶ。
『男兄弟とか、いそうやな。ニコニコしてるけどキレると怖い。人生おもんないと思うてる……ちゃう?』
残った方の男は満流と背中合わせになるように腰掛け、場を繋ぐように話し始めた。しかもこの男、帽子で顔を隠した満流が自分より年下だと容易に気付いた。
乗りもよく、イケメンで、何より暇潰しに丁度いい。この二人となら、もう少し話してもいいかもしれない。
『思った通り、有田守は勘がいい。初めて見たとき思ったんだよねぇ、この人“ソシツ”あるなぁ、って。サッカーやってる人でしょう?で、あの人はバスケやってる。試合見たことありますよ。
才能ある人っていいなぁ。ホント、いい勘してる。兄弟は微妙ですけど、性格についてはいい線行ってます。つまんないとまでは思いませんけど、面倒は多いですね。助っ人に駆り出されてるこの状況なんか、正にそう。』
『アイドル様の発言ちゃうな。別に誰かに言ったりはせえへんけどさ。敢えて言うようなことちゃうし。
それより俺は、兄弟の方が気になる。アイツが帰って来る前に聞くけど、お前、鈴女のリレーアンカーやない?“こざくらみちる”やったっけ。』
『“こおう”ですけどね☆』
満流の直感は、この流れが良くない方向へ向かうと警告している。話題を変えようと口を開き掛けたところで、相手は再び質問。
『兄貴が、居るな?』
『まあ…不正解ではないです。ねぇもうこの話は————』
『ならええわ。』
彼の一言を合図に、飲み物を買いに行った男が帰って来た。
話は突然中断し、何も知らない円満な笑顔を迎え入れる。
『ポカリとアクエリとバースがあるけど、どれがええ~?☆』
『アホかお前。似たようなモン買うくらいやったら同じの買え、同じのを。』
『じゃ~あたしポカリで☆』
『即答かよ!』
出来る限り明るく努め、嫌な予感を必死で隠そうとした。脳を過るいくつもの風景画を、目の前にある男達の顔で塗り潰す。
茜色の夕陽、意味なく作られたトンネル、お世辞にも綺麗とは言い難い河川。————。手を繋いで歩く屋台の連なり、割れたコップ、誰かの涙と腕、窓越しに見える近所の中学生。思い出したくないあの頃を掻き消すように、手渡されたドリンクを一気に飲み干す。
『なあ自分、石垣ちゃんよか速いん?』
荒んだ目をした男とは正反対に、彼は独特の愛嬌があり、また目の下の泣き黒子がその親しみやすさに磨きをかける。乙の名を勝手に“ちゃん”付けで呼んでも、全く違和感を感じない。
『さあ~。ちゃんと測ってないんで、分かんないですね!』
『納得いかへんねん。俺、去年も風雲児の助っ人頼まれて出たけど、アノコ常人ちゃうやん。流石陸上部やって思うたもん。
せやのに、今年はモデル様がアンカーって何事?もしかして俺ら嘗められてる?万年二位の鈴女さんは、今年こそウチを破る気やと思ってたわ。』
『でも、走順決めたのオト先輩ですからねぇ。それに、いくら部活入ってないって言ったって、走るだけならそこらの人間には負けませんよ。』
つい、うっかり。口から滑り落ちた言葉は、“あんたたちにも負ける気はない”そういう意味を持っていた。冷静になってみれば、笑って受け流すべきだったのは明らかなのに。沸き立つ変な意地とプライド。言ったからには負けられない。
『そのコトバ、忘れんなよ。ラストは間違いなく、お前と俺の一騎打ちや。』
背後を振り返ると、鋭かった目元が一瞬だけ緩む。有田守、試合とは別に、彼を知っていることを思い出す。
勿論。あたしが負けたら、さっきのこと言い触らしても良いよ。ワクワクした気分で、空のペットボトルをゴミ箱に投げ入れる。
『だから、もし有田クンが負けたら全部忘れて。』
逃げ場を無くさなければ必死になれない自分に嫌気が差すが、賭けをしていたほうが勝負にはより熱が入る。
昼食時間が迫り、人が増えてきた所で席を立つ。
興奮と連日の寝不足と胃の中のポカリにより、どうも食欲はわかず、控え室に戻ると椅子の上で眠りこけてしまった。
眠り続けること二時間半、携帯電話の着信音で目を覚ます。乙からの所在を訊ねるメール。眠い目を擦り、すぐフィールドに出ると返信した。
室内は蒸し暑く、相当寝汗をかいている。下着が湿って気持ち悪い。着替えようか迷うが、走ればまた汗を掻くのだからと諦める。この日差しなら、ウォーミングアップだけでも十分汗だくになるだろう。満流は重たい上半身を起こして水を口に含む。疲れと空腹感は否めないが、映画の収録日などに比べれば、先の短さが見える分幾らか気持ちが楽なはず。たった四百メートルだ。四百メートルだけ全力で走って、そこから先は考えなくていい。たった一日、大した記憶にはならない、いずれ薄れていくもの。繰り返し自分に言い聞かせ、気合いを入れて立ち上がる。
『いたいた!メグムっ!』
乙の顔は学校で見るどの顔よりにこやかで、恐らく心境も顔相応爽やかなものであろうことが見て取れる。百メートル走、納得のいく成績だったんだな。素直にそう思った。
『おめでとうオト先輩☆その顔は一位ですかっ?』
『まだまだ!!メインはこっちだから。行くよ、ゴールテープは任せたからね!』
『任されたよ。あたしも、負けらんない理由が出来たしね!』
負けられない理由。彼の背負うユニフォームに刺繍された“翔英男子”、あれは、その昔住んでいたあの土地では唯一の私立中学。公立に通学するには自転車で三十分弱かかるので、あの辺の男子小学生は皆翔英を受験すると、母親がよく言っていた。
彼はあの辺の住人。多分、満流の正体に気付いた。突如消えた双子の片割れ、それなりに話題性はある。知り合いでなくとも名前くらいは知っているだろう。
負けて、あの土地の人々に言い触らされては困る。全力を出すには申し分ない理由だ。
『しょーえーだんし、か。うっかり応援なんて来てなきゃいいけど。』
『え?なに?』
満流の小声を、地獄耳オトが聞き取る。何でもないっすよ!端切れよく答えた。
パアァァァァンッッッ!
スタートの合図で、エントリー校の第一走者が一斉に走りだす。
色彩豊かな背中達が群をなして走って行く。点のような色たちが小さくなり、大きくなり、また小さくなり、やがて再度大きくなって行く。一位と最下位の差が著しく、それは彼らが“挑戦者”でしかないことを顕著に顕していた。
大方の予想通り、第二走までは一位翔英、二位鈴女。その差は詰められそうで詰められない、十五メートル。そこで鈴女のバトンが乙へと渡る。翔英の第三走者は、聞いたことのない名前の見知らぬ男。
よく言えば優しそうな、悪く言えばチャラい感じの、完全に乙が嫌うタイプ。後半の減速は、日頃の練習の怠りを象徴する様だ。十五メートルあった差は、短距離の名手によってあっという間に詰められる。
『ハイッ!』
『はい!』
申し合わせたように、略同時にバトンの受け渡しが行われる。アンカーの実質“一騎打ち”が始まった。
観客の喚声が肌に染みる。ただひたすらに風を切った。
こういう時、オト先輩はどんなことを考えてんのかな。あたしは陸上競技上の人間じゃないからよく分かんないけど、…お腹空いたな。四百メートルって、意外に長い。
あのカーブで、力を使い果たそう。倒れたら誰かが運んでくれる。あたしの体力を馬鹿にしたことは許せない。今までどれだけ訓練してきたと思ってんの?倒れてでも先にゴール…———
『同時かぁっ!?』
『メグムぅーっ!!』
『ありたーー』
『頑張れぇ』
『きゃぁぁあああ』
気付いた時にはもう目の前にゴールテープが有り、視界の端にチラチラと誰かの手が映る。
身体が重くなるのと吐き気に襲われるのと、真っ白な世界に閉じ込められるのは、凡そ同時だった。その後自分に降り掛かった真実は知らない。
試合結果も知らないまま、医務室のベッドで目を覚ます。ああ、やっぱり運んでくれた。
『お前、無茶ってコトバ、知らへんのか?』
枕元に頭をつき満流を見つめる有田守。こんなに近くて緊張とかしないのか。
『そう言えば、どこから無茶で、どこから普通なのかよく分かんないですね。』
『弁当と飲むモン、そこ置いてるヤツやるわ。俺誰かと違ってちゃんと昼食ったし。』
『紳士ですねぇ。』
『無茶させた詫びな。ホンマ、今日のは完敗やわ。空腹で寝不足な身体で判定負け。他から見りゃ誤差でも、完全に俺の負け。一体どないな体してんねん。』
開いた弁当は、使い捨てプラスチック容器に入った、可愛らしい手作り弁当。恐らく誰かにもらったものだろう。
『彼女の?☆』
にっと悪戯に笑って見せると、彼は『ちゃうわ』と言って照れたように俯いた。
『モデルや選手である前に、一人の人間やゆうこと忘れんなよ。他の何でもない“満流”が必要な奴、ちゃんと居るんやから。』
『いいこと言うねえ。』
彼は多分、一流の事を言ったのだろう。それでもいい。そうでなくてもいい。
その言葉は、誰も救えなかった満流の世界を救った。
【HeroS】
*~*~~*~*~*~~*~*
その日は特に好天に恵まれ、空には雲一つない青空が広がっていた。熱すぎる程の日差しが、白くあるべき肌にと照りつける。
風雲児杯。小~高校生を対象とした陸上競技大会。
男女の基礎体力の差を考慮し、スポーツは一般的に男女別に競技するが、この大会では男女、年齢無差別で競技が行われる。その為か参加校は極めて少なく、地区大会を省略しても一日で全競技の順位をつけられる。
鈴峰女子中はその中でも至極稀な参加者で、周りが略全員男子である中、それでも常に上位についていた。
『ぜぇぇぇぇったい、勝つ!今年こそは、奴らの歴史に泥を塗ってやる!!男子校の癖に、ズルしてんじゃねぇぞコラァっっ!』
『燃えてるねー、オト。』
『試合前に元気だよねー。私、風雲児の前だけはお腹痛くて死にそう。』
『てゆうか試合前になると性格荒れるよね。オトちゃんは。』
『え、この人いっつも荒れてません?』
貸し切りバスを降りると、知らない制服やジャージを着た人々が続々と集まって来ていた。白や黒をベースに、赤、青、緑など色とりどりのラインが人身を纏う。
女子ばかりだからなのか強豪校だからなのか、それとも煩いからか。満流はバスを降りた瞬間から自分たちに向けられる注目の多さに気付いた。そして、全国的に有名な乙が同じ団体の中にいることに、心から感謝する。彼女がいる分、自分に集まる視線は俄然減った。
『開会式が終わったら、出番迄は控え室にでも居な。焼けたら困るんでしょ?』
ユニフォームの上に学校指定のジャージを羽織りながら、彼女は満流に声を掛けた。こういう所はやはり評判通り“紳士”なんだ。部活中目の当たりにしている鬼っぷりを思うと、不思議な感覚で笑えた。
『先輩も二重人格だよねぇ~。』
爽やかな風の吹く、夏とも秋ともつかない朝。闘いの火蓋は切って落とされた。
開会式が終わると、目深にかぶった帽子も取らずにさっさと選手控え室に戻る。しかし、満流が出場するリレーは一番最後の競技で、予定では午後三時半からとなっている。それ迄はぼーっとする他暇の潰し様がなさそうだ。
『控え室にでも居な。とか言われてもねぇ…』
購買前のベンチに座り、行き交う人々をただ眺める。
『なぁ自分、』
突然背後から話し掛けられたと思えば、声の主は馴々しくも後ろから肩を組んできた。
『自分、“メグム”ちゃう?モデルの。エライべっぴんさんやから俺てっきり天使かと———』
ドスッ
『やめぇや大介、キショいわ。すんませんコイツどうしようもない馬鹿なんで。軽くスルーしてクダサイ。おい大介、お詫びにジュースでも買ってこい。』
鈍い音の後に現れたのは、荒んだ目をした美少年——といっても、見たところ満流より上の学年だ。叩かれた方は『なんでやねん!』と激しく抵抗しながらも、結局購買へと足を運ぶ。
『男兄弟とか、いそうやな。ニコニコしてるけどキレると怖い。人生おもんないと思うてる……ちゃう?』
残った方の男は満流と背中合わせになるように腰掛け、場を繋ぐように話し始めた。しかもこの男、帽子で顔を隠した満流が自分より年下だと容易に気付いた。
乗りもよく、イケメンで、何より暇潰しに丁度いい。この二人となら、もう少し話してもいいかもしれない。
『思った通り、有田守は勘がいい。初めて見たとき思ったんだよねぇ、この人“ソシツ”あるなぁ、って。サッカーやってる人でしょう?で、あの人はバスケやってる。試合見たことありますよ。
才能ある人っていいなぁ。ホント、いい勘してる。兄弟は微妙ですけど、性格についてはいい線行ってます。つまんないとまでは思いませんけど、面倒は多いですね。助っ人に駆り出されてるこの状況なんか、正にそう。』
『アイドル様の発言ちゃうな。別に誰かに言ったりはせえへんけどさ。敢えて言うようなことちゃうし。
それより俺は、兄弟の方が気になる。アイツが帰って来る前に聞くけど、お前、鈴女のリレーアンカーやない?“こざくらみちる”やったっけ。』
『“こおう”ですけどね☆』
満流の直感は、この流れが良くない方向へ向かうと警告している。話題を変えようと口を開き掛けたところで、相手は再び質問。
『兄貴が、居るな?』
『まあ…不正解ではないです。ねぇもうこの話は————』
『ならええわ。』
彼の一言を合図に、飲み物を買いに行った男が帰って来た。
話は突然中断し、何も知らない円満な笑顔を迎え入れる。
『ポカリとアクエリとバースがあるけど、どれがええ~?☆』
『アホかお前。似たようなモン買うくらいやったら同じの買え、同じのを。』
『じゃ~あたしポカリで☆』
『即答かよ!』
出来る限り明るく努め、嫌な予感を必死で隠そうとした。脳を過るいくつもの風景画を、目の前にある男達の顔で塗り潰す。
茜色の夕陽、意味なく作られたトンネル、お世辞にも綺麗とは言い難い河川。————。手を繋いで歩く屋台の連なり、割れたコップ、誰かの涙と腕、窓越しに見える近所の中学生。思い出したくないあの頃を掻き消すように、手渡されたドリンクを一気に飲み干す。
『なあ自分、石垣ちゃんよか速いん?』
荒んだ目をした男とは正反対に、彼は独特の愛嬌があり、また目の下の泣き黒子がその親しみやすさに磨きをかける。乙の名を勝手に“ちゃん”付けで呼んでも、全く違和感を感じない。
『さあ~。ちゃんと測ってないんで、分かんないですね!』
『納得いかへんねん。俺、去年も風雲児の助っ人頼まれて出たけど、アノコ常人ちゃうやん。流石陸上部やって思うたもん。
せやのに、今年はモデル様がアンカーって何事?もしかして俺ら嘗められてる?万年二位の鈴女さんは、今年こそウチを破る気やと思ってたわ。』
『でも、走順決めたのオト先輩ですからねぇ。それに、いくら部活入ってないって言ったって、走るだけならそこらの人間には負けませんよ。』
つい、うっかり。口から滑り落ちた言葉は、“あんたたちにも負ける気はない”そういう意味を持っていた。冷静になってみれば、笑って受け流すべきだったのは明らかなのに。沸き立つ変な意地とプライド。言ったからには負けられない。
『そのコトバ、忘れんなよ。ラストは間違いなく、お前と俺の一騎打ちや。』
背後を振り返ると、鋭かった目元が一瞬だけ緩む。有田守、試合とは別に、彼を知っていることを思い出す。
勿論。あたしが負けたら、さっきのこと言い触らしても良いよ。ワクワクした気分で、空のペットボトルをゴミ箱に投げ入れる。
『だから、もし有田クンが負けたら全部忘れて。』
逃げ場を無くさなければ必死になれない自分に嫌気が差すが、賭けをしていたほうが勝負にはより熱が入る。
昼食時間が迫り、人が増えてきた所で席を立つ。
興奮と連日の寝不足と胃の中のポカリにより、どうも食欲はわかず、控え室に戻ると椅子の上で眠りこけてしまった。
眠り続けること二時間半、携帯電話の着信音で目を覚ます。乙からの所在を訊ねるメール。眠い目を擦り、すぐフィールドに出ると返信した。
室内は蒸し暑く、相当寝汗をかいている。下着が湿って気持ち悪い。着替えようか迷うが、走ればまた汗を掻くのだからと諦める。この日差しなら、ウォーミングアップだけでも十分汗だくになるだろう。満流は重たい上半身を起こして水を口に含む。疲れと空腹感は否めないが、映画の収録日などに比べれば、先の短さが見える分幾らか気持ちが楽なはず。たった四百メートルだ。四百メートルだけ全力で走って、そこから先は考えなくていい。たった一日、大した記憶にはならない、いずれ薄れていくもの。繰り返し自分に言い聞かせ、気合いを入れて立ち上がる。
『いたいた!メグムっ!』
乙の顔は学校で見るどの顔よりにこやかで、恐らく心境も顔相応爽やかなものであろうことが見て取れる。百メートル走、納得のいく成績だったんだな。素直にそう思った。
『おめでとうオト先輩☆その顔は一位ですかっ?』
『まだまだ!!メインはこっちだから。行くよ、ゴールテープは任せたからね!』
『任されたよ。あたしも、負けらんない理由が出来たしね!』
負けられない理由。彼の背負うユニフォームに刺繍された“翔英男子”、あれは、その昔住んでいたあの土地では唯一の私立中学。公立に通学するには自転車で三十分弱かかるので、あの辺の男子小学生は皆翔英を受験すると、母親がよく言っていた。
彼はあの辺の住人。多分、満流の正体に気付いた。突如消えた双子の片割れ、それなりに話題性はある。知り合いでなくとも名前くらいは知っているだろう。
負けて、あの土地の人々に言い触らされては困る。全力を出すには申し分ない理由だ。
『しょーえーだんし、か。うっかり応援なんて来てなきゃいいけど。』
『え?なに?』
満流の小声を、地獄耳オトが聞き取る。何でもないっすよ!端切れよく答えた。
パアァァァァンッッッ!
スタートの合図で、エントリー校の第一走者が一斉に走りだす。
色彩豊かな背中達が群をなして走って行く。点のような色たちが小さくなり、大きくなり、また小さくなり、やがて再度大きくなって行く。一位と最下位の差が著しく、それは彼らが“挑戦者”でしかないことを顕著に顕していた。
大方の予想通り、第二走までは一位翔英、二位鈴女。その差は詰められそうで詰められない、十五メートル。そこで鈴女のバトンが乙へと渡る。翔英の第三走者は、聞いたことのない名前の見知らぬ男。
よく言えば優しそうな、悪く言えばチャラい感じの、完全に乙が嫌うタイプ。後半の減速は、日頃の練習の怠りを象徴する様だ。十五メートルあった差は、短距離の名手によってあっという間に詰められる。
『ハイッ!』
『はい!』
申し合わせたように、略同時にバトンの受け渡しが行われる。アンカーの実質“一騎打ち”が始まった。
観客の喚声が肌に染みる。ただひたすらに風を切った。
こういう時、オト先輩はどんなことを考えてんのかな。あたしは陸上競技上の人間じゃないからよく分かんないけど、…お腹空いたな。四百メートルって、意外に長い。
あのカーブで、力を使い果たそう。倒れたら誰かが運んでくれる。あたしの体力を馬鹿にしたことは許せない。今までどれだけ訓練してきたと思ってんの?倒れてでも先にゴール…———
『同時かぁっ!?』
『メグムぅーっ!!』
『ありたーー』
『頑張れぇ』
『きゃぁぁあああ』
気付いた時にはもう目の前にゴールテープが有り、視界の端にチラチラと誰かの手が映る。
身体が重くなるのと吐き気に襲われるのと、真っ白な世界に閉じ込められるのは、凡そ同時だった。その後自分に降り掛かった真実は知らない。
試合結果も知らないまま、医務室のベッドで目を覚ます。ああ、やっぱり運んでくれた。
『お前、無茶ってコトバ、知らへんのか?』
枕元に頭をつき満流を見つめる有田守。こんなに近くて緊張とかしないのか。
『そう言えば、どこから無茶で、どこから普通なのかよく分かんないですね。』
『弁当と飲むモン、そこ置いてるヤツやるわ。俺誰かと違ってちゃんと昼食ったし。』
『紳士ですねぇ。』
『無茶させた詫びな。ホンマ、今日のは完敗やわ。空腹で寝不足な身体で判定負け。他から見りゃ誤差でも、完全に俺の負け。一体どないな体してんねん。』
開いた弁当は、使い捨てプラスチック容器に入った、可愛らしい手作り弁当。恐らく誰かにもらったものだろう。
『彼女の?☆』
にっと悪戯に笑って見せると、彼は『ちゃうわ』と言って照れたように俯いた。
『モデルや選手である前に、一人の人間やゆうこと忘れんなよ。他の何でもない“満流”が必要な奴、ちゃんと居るんやから。』
『いいこと言うねえ。』
彼は多分、一流の事を言ったのだろう。それでもいい。そうでなくてもいい。
その言葉は、誰も救えなかった満流の世界を救った。