*°。・*°。・*
<EpiloguE>
*°。・*°。・*
天気のいい日が続く。日照りが続きすぎて水不足にでもなるのではないかと疑うほど、毎日暑くて仕方ない。
寒気が訪れるのはまだまだ先だろうと、天気予報も言っていた。
中学二年生になった下の娘が塵のごとく汚れた鞄を持ちかえる、午後九時。喧しく閉められたドア。
母親は呆れたように声をかけた。
「もーちょっと静かに閉めてくださるー?うるさくってテレビの音聞こえないんだけどー」
「うるさい」
「や、こっちのセリフだって」
反抗的にリビングを素通りする娘の姿を、非難しながらも微笑ましそうに目で追う。真っ直ぐ風呂に向かうようだった。
けたたましいドアの開閉音を合図に、息子と上の娘が部屋から降りてくる。そして、不機嫌な妹のテンションも余所にして剽軽な娘が妹を呼び止める。
「セッちゃん聞いてー!姉ちゃん今日ねぇ…」
「話しかけんな」
「ケーキ買って帰ったぁ~☆」
「………。」
風呂場の扉が閉まる。
つまらなさそうにリビングに入る娘の頭を優しく撫でながら、息子は母親に目配せする。紅茶を用意していた彼女は可笑しそうに笑った。
「サチカとトオヤも少し前はあんなだったじゃん。誰もが通る道だよー」
「あれ、あんなに酷かった?」
言うと、苦笑いを浮かべながら息子が惚ける。娘も、自分はもっと早くに帰宅していたと主張する。
しかし、彼女にしてみれば大差はない。カップに紅茶を注ぐと、自分の分だけを持ってソファーに落ち着いた。
「若気の至りってやつでしょー。何だかんだであんたたちも落ち着いたし、物事の道理と倫理は中学迄に教えたもん。あの子もその内分かるよ」
「お母さんもあった?そういう時期」
娘が覗き込む。
「ないよ。母さん、優秀だったから」
実年齢よりかなり若く見える顔に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
若く(見えて)美人で陽気な母親は、娘にとっても、息子にとっても自慢だ。我が子を叱るポイントが他の家と少しずれている嫌いはあるが、どれも間違ってはいない。言うまでもなく、それに気付けたのはある程度思春期のピークを過ぎてからだったが。
胡散臭い笑顔の母親の言葉を、二人は嘘だと笑った。
「本当に真面目な人の背中には、そんな大きい刺青なんてないから」
「えぇ?これは別だよー。だってほら、母さんクォーターだし?」
「関係ないでしょー」
息子と娘もそれぞれ自分の紅茶を取り、柔らかい絨毯の上に座を着く。
「僕らが小学生の時にみんなに暴露しちゃってるから、密かに恐れられてるよ」
彼女は中学に入るまで、かなり厳しく恐い母だった。
マナーを少しでも侵せば怒鳴られたし、門限を破ると一週間程の外出禁止を言い付けられた。いじめの首謀者であったために、笑顔で家を追い出されたこともある(笑顔なだけに余計恐い)。
母親の恐い所は、怒ると口調も言葉遣いも変わること、そして見た目。周りのどの家を見ても、刺青のある親などいない。
父親は至って普通の男だが、純日本人のくせに母親と同じ髪の色をしている。そういえば、そろそろ彼が帰って来る頃だ。
夕食を温め始める母親。美味しそうな香りが漂う。
彼はドアを静かに閉める質の人間で、帰ってくる時も気配がまるでない。彼の帰宅を感知できるのは、異常な聴覚を持つ母親だけだ。
「あれ、思ったより早い」
コンロの火を消しながら、彼女が呟く。
それを合図にして、娘が玄関を覗いて出迎えた。靴を脱いでいた父親は顔をあげ、口角を弛ませる。
「ただいまサチ。母さんに“一流くんとその他諸々来た”って言って」
「はーい」
「なんだよその“その他諸々”って!!」
玄関から次々と聞こえる声。六、七人くらいか。内三人は学生時代からの付き合い、あとはサッカー選手である夫のチームメイトだ。
げぇっ、とあからさまに嫌そうな顔をする母親。冷蔵庫を開き、余り物の食材を前に何やら考え込んでいる。
「何かいる?あたし、買って来るよ」
風呂から上がった下の娘が声を掛けると、母親はにっこりと笑った。
「いや、もう遅いからいいよ。母さんが行く。なぎさーっ!いつるーっ!この辺のもの何使ってもいいから何か自分で作って食べてー」
彼女が大きな声を出す。「何で俺が」というブーイングを発しながらリビングに入る男に、不敵の笑みを返した。彼女の、「機嫌が悪い」のシグナルだ。
「突然押し掛けて、文句言える立場?」
「え、あれ?何か、すげぇ機嫌悪い?」
「機嫌ええと思うか?何でこの時間から他人の晩飯作らなあかんねん」
「や…連れてきたの、俺じゃな——」
「はん?」
「はいっ!ぜひ作らせていただきますっ!そりゃもー家政婦のごとくソッコーで!!」
彼が端切れのいい返事をすると、彼女は満足気に微笑み、子どもをあやす様な甘い声を出した。
「はいっ☆いいお返事ね~渚くんっ。じゃ、後片付けまでよろしくねっ」
夜空には、きれいな星の光が散在する。
知らない女の人、疲れ切った表情のサラリーマン、顔を赤らめふらつき歩く中年。まるで、サイレントピクチャでも見ているようだ。早くも酔い上機嫌になった大人たちから離れ、下の娘はじっと外の世界を見つめていた。夜道が昼間と違って見える。
「なに、彼氏候補でも探してんの?」
後ろから声を掛けられ、はっとした。渚だ。
「なんで?」
「面白そうに外見てるからさ」
「あぁ…面白いわけじゃないけどね」
「考え事?」
「うん」
少女が頷くと、彼はまた黙った。なんとなく居心地が悪くなり、話題を探す。
「渚くんの反抗期って、どんな感じだった?染めたりした?」
「染めなかったなー。てか、反抗期っていう反抗期はなかったかも。反抗する相手がいなかったもん。担任は気さくでスゲーいい人だったし、親は仕事でほとんど家いなかったし、向かいの家に住んでるオカンとオトンがな、すんげぇ恐いんだよ。セツの母さんの比じゃねえよ?ケンカも口もほんと強くてさ、歯向かおうにもやる前にやられる、みたいな。それ、一流くんの親なんだけどね。」
なぁイツ、彼は盛り上がるテーブル周りに顔を向け、そう言って笑った。話の筋が読めない一流は首をかしげ、取り敢えずといった様子でいい加減に「おお」と応える。
「母さんは?さっき、自分でいい子だったとか言ってたのちらっと聞いたけど、それは本当なの?」
「いやぁ、キミんとこは両親ともに相当な問題児だったよ。優秀だったのは確かだけどね」
彼は懐かしそうに笑っていた。だんだん雄弁になっていくのが分かる。それはまた、少女の興味をそそる要因にもなった。
「母さんが有名なモデルだってのは?ほんと?」
「本当だよ。スゲーの。街歩いてたら道行く人みんなが振り返るし、学校でもさ、ファンの女子とかがぶっわぁーって、バイソンみたいに駆け寄ってくるし。もう、本性隠すのに必死だから!」
「スゴいじゃん。何でやめたの?」
「仕事より好きで、大切で、守りたいもんが現われたからだよ」
真っすぐ彼女を捉えた目が、愛しげに細まる。
彼の言うものが父親であることや、今はそこに自分も含まれているのだということが、その優しい眼差しから読み取れた。
その内復帰するつもりだったが諸々の事情が重なりそうもいかなくなり今に至るのだと、母親本人から聞いたことがある。彼女は、母親の足枷になっている気がして嫌だった。
「戻んないの?ファンが待ってるのに?」
窓の方へと視線を逸らすと、映る自分の姿は背筋が曲がり、だらしなく胡坐をかいている。窓越しに彼と目が合った。
「家には大好きな旦那と、可愛い我が子が三人もいる」
「可愛いなんて思ってないよ」
「思ってるよ」
彼は、その言葉を予想していたように速答。あまりの速さに気が弛む。
彼なら何でも教えてくれる気がした。
「あのさ。母さんの旧姓、小桜っていうんだね」
一瞬、窓に映る顔が怯む。さすがの彼も、この質問は予期していなかった様だ。彼女は続ける。
「でも兄妹なんでしょ、あれ。名前見ればわかる。それに母さん、一流くんに挨拶するときだけちょっと外人っぽい。中学入るまで不倫してるんだとおもってた位」
「母さんに言うなよ、それ。喜ぶから」
背後に父親の影。苦笑気味に弛ませた頬が兄に似ていると思った。
「父さん。そういや母さん、遅くない?」
「あー、散歩してくるって。酒飲ませねぇからいじけてんだよ」
「出たよ、酒好きの下戸。さすがに他人の前でアレは不味いもんな」
彼が笑う。父親も控えめに笑う。
一晩中騒ぎは続いた。
テーブルを囲い、下手な歌を歌う大男、酒に飲まれて突っ伏す優男、平気な顔で飲み続ける連中。未成年の睡眠は耳障りな声に阻害され、最後には結局兄と姉もその輪に交ざっていた。
一人、自室で鞄を開く妹。
破れ、汚れ、くたびれた鞄。全て学校に置いて帰っているので中身は空だが、それは苛めが蔓延る理不尽でつまらない学校生活を象徴する様で、居た堪れない気持ちになった。
「セツ」
扉の向こうから父親の声がする。開くと、ケーキと紅茶を持った彼が立っていた。
姉が買ってきたらしいケーキに、父親がいれた紅茶。ケーキだけを受け取り、さっさと扉を閉める。
「さっきの話だけど」
「母さんと一流くんの?」
急いで扉を開ける。父親は少し驚き、気が抜けたように表情を弛ませた。
「セツの言う通り、あの二人は仲の良い兄妹だったよ。親の事情で母さんが養女に出されるまで」
「母さんは自分の親のこと、恨んでるかな?」
「いや、それが全然」
「何で言い切れんの」
「匂いだよ。母さん、昔から身なりにすげぇ気ぃ配ってたのに、香水は絶対付けねぇの。洗濯物とか、風呂あがりの匂いが一緒なんだよ、高橋家と」
覚えてたんだろうな。父親が言った。
「それってつまり」
思考を巡らせる。
「父さん、母さんの匂い嗅いでたの?うっわヤだなー。想像しちゃった、キモっ」
彼を部屋から押し出し、勢いよく扉を閉める。何か文句を垂らしていたが、聞かずにベッドへ倒れ込む。洗濯したてなのだろうか、枕カバーからは、仄かに優しい香り。
彼女は、落ち着いた面持ちで眠りに就いた。
ザァァッッ…—————
波が押し寄せ足を濡らす。遠目に見ると美しく平たい線を画く癖に、砂浜の足場は貝殻や小石の所為でまともに歩けたものではない。ただじっと、暗闇の中の水平線を見つめていた。
夫の父親、そして、カルト成員の灰を撒いた海。罪悪感や恐怖から彼らに顔向けできなかった彼女は、初めてここを訪れた。
「久しぶり。お父さん、お母さん、明さん、ママ————」
震える声を絞りだす。
「————…っ、今日ね、トオヤとサチカが槙の所に行ってたんだけど、帰りにケーキ買って帰ったの。『セッちゃんに食べさせる』って、大はしゃぎなの。優しい子でしょう?あたしに似たね。セツナも無事反抗期を迎えたし。やっぱり我が子は可愛いね。世界で一番可愛いよ、顔も含めて全部。流石あたしと守の子供でしょ?可愛くならないわけがないんだよ、なぁんて。
…———。
ねぇ、喩え地獄の日々が待ってたとしても、汚れることしかできない未来が待ってても、あたしはお母さんやお父さんに育てて欲しかったよ」
今更言ってもどうにもならないけど。一句一句、彼女のの言葉を確実に海が飲み込んでいった。
だけどね、彼女は続ける。
「産んでくれて、育ててくれてありがとう。それだけ言い残してたから……本当は、生きてるうちに言うはずだったんだけどね」
誰もいない暗闇の海岸線。潮風が肌に染みた。
運命に溺れ、完璧を謳われた五十二人の罪人たち。しかし、人は神にも悪魔にもなれない。
「これが、あたしの選んだ未来なんだ」
生きるがいい、満流、罪に触れたジョーカー。消えることのない重みを、その背に負ったまま。
<EpiloguE>
*°。・*°。・*
天気のいい日が続く。日照りが続きすぎて水不足にでもなるのではないかと疑うほど、毎日暑くて仕方ない。
寒気が訪れるのはまだまだ先だろうと、天気予報も言っていた。
中学二年生になった下の娘が塵のごとく汚れた鞄を持ちかえる、午後九時。喧しく閉められたドア。
母親は呆れたように声をかけた。
「もーちょっと静かに閉めてくださるー?うるさくってテレビの音聞こえないんだけどー」
「うるさい」
「や、こっちのセリフだって」
反抗的にリビングを素通りする娘の姿を、非難しながらも微笑ましそうに目で追う。真っ直ぐ風呂に向かうようだった。
けたたましいドアの開閉音を合図に、息子と上の娘が部屋から降りてくる。そして、不機嫌な妹のテンションも余所にして剽軽な娘が妹を呼び止める。
「セッちゃん聞いてー!姉ちゃん今日ねぇ…」
「話しかけんな」
「ケーキ買って帰ったぁ~☆」
「………。」
風呂場の扉が閉まる。
つまらなさそうにリビングに入る娘の頭を優しく撫でながら、息子は母親に目配せする。紅茶を用意していた彼女は可笑しそうに笑った。
「サチカとトオヤも少し前はあんなだったじゃん。誰もが通る道だよー」
「あれ、あんなに酷かった?」
言うと、苦笑いを浮かべながら息子が惚ける。娘も、自分はもっと早くに帰宅していたと主張する。
しかし、彼女にしてみれば大差はない。カップに紅茶を注ぐと、自分の分だけを持ってソファーに落ち着いた。
「若気の至りってやつでしょー。何だかんだであんたたちも落ち着いたし、物事の道理と倫理は中学迄に教えたもん。あの子もその内分かるよ」
「お母さんもあった?そういう時期」
娘が覗き込む。
「ないよ。母さん、優秀だったから」
実年齢よりかなり若く見える顔に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
若く(見えて)美人で陽気な母親は、娘にとっても、息子にとっても自慢だ。我が子を叱るポイントが他の家と少しずれている嫌いはあるが、どれも間違ってはいない。言うまでもなく、それに気付けたのはある程度思春期のピークを過ぎてからだったが。
胡散臭い笑顔の母親の言葉を、二人は嘘だと笑った。
「本当に真面目な人の背中には、そんな大きい刺青なんてないから」
「えぇ?これは別だよー。だってほら、母さんクォーターだし?」
「関係ないでしょー」
息子と娘もそれぞれ自分の紅茶を取り、柔らかい絨毯の上に座を着く。
「僕らが小学生の時にみんなに暴露しちゃってるから、密かに恐れられてるよ」
彼女は中学に入るまで、かなり厳しく恐い母だった。
マナーを少しでも侵せば怒鳴られたし、門限を破ると一週間程の外出禁止を言い付けられた。いじめの首謀者であったために、笑顔で家を追い出されたこともある(笑顔なだけに余計恐い)。
母親の恐い所は、怒ると口調も言葉遣いも変わること、そして見た目。周りのどの家を見ても、刺青のある親などいない。
父親は至って普通の男だが、純日本人のくせに母親と同じ髪の色をしている。そういえば、そろそろ彼が帰って来る頃だ。
夕食を温め始める母親。美味しそうな香りが漂う。
彼はドアを静かに閉める質の人間で、帰ってくる時も気配がまるでない。彼の帰宅を感知できるのは、異常な聴覚を持つ母親だけだ。
「あれ、思ったより早い」
コンロの火を消しながら、彼女が呟く。
それを合図にして、娘が玄関を覗いて出迎えた。靴を脱いでいた父親は顔をあげ、口角を弛ませる。
「ただいまサチ。母さんに“一流くんとその他諸々来た”って言って」
「はーい」
「なんだよその“その他諸々”って!!」
玄関から次々と聞こえる声。六、七人くらいか。内三人は学生時代からの付き合い、あとはサッカー選手である夫のチームメイトだ。
げぇっ、とあからさまに嫌そうな顔をする母親。冷蔵庫を開き、余り物の食材を前に何やら考え込んでいる。
「何かいる?あたし、買って来るよ」
風呂から上がった下の娘が声を掛けると、母親はにっこりと笑った。
「いや、もう遅いからいいよ。母さんが行く。なぎさーっ!いつるーっ!この辺のもの何使ってもいいから何か自分で作って食べてー」
彼女が大きな声を出す。「何で俺が」というブーイングを発しながらリビングに入る男に、不敵の笑みを返した。彼女の、「機嫌が悪い」のシグナルだ。
「突然押し掛けて、文句言える立場?」
「え、あれ?何か、すげぇ機嫌悪い?」
「機嫌ええと思うか?何でこの時間から他人の晩飯作らなあかんねん」
「や…連れてきたの、俺じゃな——」
「はん?」
「はいっ!ぜひ作らせていただきますっ!そりゃもー家政婦のごとくソッコーで!!」
彼が端切れのいい返事をすると、彼女は満足気に微笑み、子どもをあやす様な甘い声を出した。
「はいっ☆いいお返事ね~渚くんっ。じゃ、後片付けまでよろしくねっ」
夜空には、きれいな星の光が散在する。
知らない女の人、疲れ切った表情のサラリーマン、顔を赤らめふらつき歩く中年。まるで、サイレントピクチャでも見ているようだ。早くも酔い上機嫌になった大人たちから離れ、下の娘はじっと外の世界を見つめていた。夜道が昼間と違って見える。
「なに、彼氏候補でも探してんの?」
後ろから声を掛けられ、はっとした。渚だ。
「なんで?」
「面白そうに外見てるからさ」
「あぁ…面白いわけじゃないけどね」
「考え事?」
「うん」
少女が頷くと、彼はまた黙った。なんとなく居心地が悪くなり、話題を探す。
「渚くんの反抗期って、どんな感じだった?染めたりした?」
「染めなかったなー。てか、反抗期っていう反抗期はなかったかも。反抗する相手がいなかったもん。担任は気さくでスゲーいい人だったし、親は仕事でほとんど家いなかったし、向かいの家に住んでるオカンとオトンがな、すんげぇ恐いんだよ。セツの母さんの比じゃねえよ?ケンカも口もほんと強くてさ、歯向かおうにもやる前にやられる、みたいな。それ、一流くんの親なんだけどね。」
なぁイツ、彼は盛り上がるテーブル周りに顔を向け、そう言って笑った。話の筋が読めない一流は首をかしげ、取り敢えずといった様子でいい加減に「おお」と応える。
「母さんは?さっき、自分でいい子だったとか言ってたのちらっと聞いたけど、それは本当なの?」
「いやぁ、キミんとこは両親ともに相当な問題児だったよ。優秀だったのは確かだけどね」
彼は懐かしそうに笑っていた。だんだん雄弁になっていくのが分かる。それはまた、少女の興味をそそる要因にもなった。
「母さんが有名なモデルだってのは?ほんと?」
「本当だよ。スゲーの。街歩いてたら道行く人みんなが振り返るし、学校でもさ、ファンの女子とかがぶっわぁーって、バイソンみたいに駆け寄ってくるし。もう、本性隠すのに必死だから!」
「スゴいじゃん。何でやめたの?」
「仕事より好きで、大切で、守りたいもんが現われたからだよ」
真っすぐ彼女を捉えた目が、愛しげに細まる。
彼の言うものが父親であることや、今はそこに自分も含まれているのだということが、その優しい眼差しから読み取れた。
その内復帰するつもりだったが諸々の事情が重なりそうもいかなくなり今に至るのだと、母親本人から聞いたことがある。彼女は、母親の足枷になっている気がして嫌だった。
「戻んないの?ファンが待ってるのに?」
窓の方へと視線を逸らすと、映る自分の姿は背筋が曲がり、だらしなく胡坐をかいている。窓越しに彼と目が合った。
「家には大好きな旦那と、可愛い我が子が三人もいる」
「可愛いなんて思ってないよ」
「思ってるよ」
彼は、その言葉を予想していたように速答。あまりの速さに気が弛む。
彼なら何でも教えてくれる気がした。
「あのさ。母さんの旧姓、小桜っていうんだね」
一瞬、窓に映る顔が怯む。さすがの彼も、この質問は予期していなかった様だ。彼女は続ける。
「でも兄妹なんでしょ、あれ。名前見ればわかる。それに母さん、一流くんに挨拶するときだけちょっと外人っぽい。中学入るまで不倫してるんだとおもってた位」
「母さんに言うなよ、それ。喜ぶから」
背後に父親の影。苦笑気味に弛ませた頬が兄に似ていると思った。
「父さん。そういや母さん、遅くない?」
「あー、散歩してくるって。酒飲ませねぇからいじけてんだよ」
「出たよ、酒好きの下戸。さすがに他人の前でアレは不味いもんな」
彼が笑う。父親も控えめに笑う。
一晩中騒ぎは続いた。
テーブルを囲い、下手な歌を歌う大男、酒に飲まれて突っ伏す優男、平気な顔で飲み続ける連中。未成年の睡眠は耳障りな声に阻害され、最後には結局兄と姉もその輪に交ざっていた。
一人、自室で鞄を開く妹。
破れ、汚れ、くたびれた鞄。全て学校に置いて帰っているので中身は空だが、それは苛めが蔓延る理不尽でつまらない学校生活を象徴する様で、居た堪れない気持ちになった。
「セツ」
扉の向こうから父親の声がする。開くと、ケーキと紅茶を持った彼が立っていた。
姉が買ってきたらしいケーキに、父親がいれた紅茶。ケーキだけを受け取り、さっさと扉を閉める。
「さっきの話だけど」
「母さんと一流くんの?」
急いで扉を開ける。父親は少し驚き、気が抜けたように表情を弛ませた。
「セツの言う通り、あの二人は仲の良い兄妹だったよ。親の事情で母さんが養女に出されるまで」
「母さんは自分の親のこと、恨んでるかな?」
「いや、それが全然」
「何で言い切れんの」
「匂いだよ。母さん、昔から身なりにすげぇ気ぃ配ってたのに、香水は絶対付けねぇの。洗濯物とか、風呂あがりの匂いが一緒なんだよ、高橋家と」
覚えてたんだろうな。父親が言った。
「それってつまり」
思考を巡らせる。
「父さん、母さんの匂い嗅いでたの?うっわヤだなー。想像しちゃった、キモっ」
彼を部屋から押し出し、勢いよく扉を閉める。何か文句を垂らしていたが、聞かずにベッドへ倒れ込む。洗濯したてなのだろうか、枕カバーからは、仄かに優しい香り。
彼女は、落ち着いた面持ちで眠りに就いた。
ザァァッッ…—————
波が押し寄せ足を濡らす。遠目に見ると美しく平たい線を画く癖に、砂浜の足場は貝殻や小石の所為でまともに歩けたものではない。ただじっと、暗闇の中の水平線を見つめていた。
夫の父親、そして、カルト成員の灰を撒いた海。罪悪感や恐怖から彼らに顔向けできなかった彼女は、初めてここを訪れた。
「久しぶり。お父さん、お母さん、明さん、ママ————」
震える声を絞りだす。
「————…っ、今日ね、トオヤとサチカが槙の所に行ってたんだけど、帰りにケーキ買って帰ったの。『セッちゃんに食べさせる』って、大はしゃぎなの。優しい子でしょう?あたしに似たね。セツナも無事反抗期を迎えたし。やっぱり我が子は可愛いね。世界で一番可愛いよ、顔も含めて全部。流石あたしと守の子供でしょ?可愛くならないわけがないんだよ、なぁんて。
…———。
ねぇ、喩え地獄の日々が待ってたとしても、汚れることしかできない未来が待ってても、あたしはお母さんやお父さんに育てて欲しかったよ」
今更言ってもどうにもならないけど。一句一句、彼女のの言葉を確実に海が飲み込んでいった。
だけどね、彼女は続ける。
「産んでくれて、育ててくれてありがとう。それだけ言い残してたから……本当は、生きてるうちに言うはずだったんだけどね」
誰もいない暗闇の海岸線。潮風が肌に染みた。
運命に溺れ、完璧を謳われた五十二人の罪人たち。しかし、人は神にも悪魔にもなれない。
「これが、あたしの選んだ未来なんだ」
生きるがいい、満流、罪に触れたジョーカー。消えることのない重みを、その背に負ったまま。