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 SecreT

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 満流が、自ら買って出た役。それは、闇に浮かぶ一点の星、最後にして最高の切り札。

 ———これで……いい。

 何度も言い聞かせながら、彼女は両親を訪ねた。
 満流が両親の記憶に残したのは、常識を越えた強い想い。彼の手を汚すなんて容さない。血に濡れた目で真直ぐ相手を見つめ、薄汚れた右手を押さえた彼女の姿。その祖父が『さすが我が孫だ』と言えば、それを否定出来る者は居なかった。
 中学二年生の夏、満流の夜は始まったのだ。


 『満流?どこか行くの?』
 長く続いた暑さが弱まり、徐々に涼しくなるだろうとニュースキャスター伝える。素麺の具材を携えた槙が満流の家に行くと、彼女もまた家を出ようとしていた。夕陽色のシャツの袖から、細く色白な腕がのびる。珍しいことにも、コンタクトも外していた。
 黒髪に似合わない自分の青い瞳をあまり好いていない彼女は、髪を茶染めした今も、家を出るときは例えそれが短距離であってもカラーコンタクトでそれを隠す。昔を思い出してしまうのが相当嫌なのだろうと思っていた。
 『ちょっと出てくる』
 自分の瞳をじっと見つめる視線を気にも止めず満流が言う。はっとして、槙も口を開いた。
 『じゃあこれ、お母さんから。風邪には気を付けなさいだって。最近あんまり顔出さないから心配してるみたい。仕事落ち着いたら、また食べに来てよ』
 『そう言えば随分ママのご飯食べてないなぁ。ここの所休みがないからね。あってもこうやって外出を強いられるし』
 左手の腕時計一瞥し、スニーカーの紐を結び直す手を早める。
 『あたし、もう行かなきゃだ。これありがとっ!ママにもよろしくね、休みが出来たら絶対行く』
 言うや否や、槙の脇を風のごとく擦り抜けあっという間に姿を消した。風雲児杯以来、満流はずっとこうだ。学校にもあまり顔を出さないし、兎に角仕事絡みであちこち走り回っている。槙ですら彼女と会うのが困難な状態で、二人の距離は隙間を作り始めていた。
 槙は素麺と共に預かった茶封筒を渡し損ね、それをフロントの女に言付け家路を辿った。
 気付かれもしないまま、街並の葉を赤や黄色に染める木々。暑い日差しに打たれつつ、ひんやりとした風になびいている。大通りから離れた道は、葉擦れの音がよく聞こえた。
 此処は、こんなに淋しい通りだっただろうか。
 槙は思わず辺りを見渡した。頭を下げた向日葵、光に向かって真直ぐ伸長する秋桜。気付けば紅葉も紅潮し始め、世界は夏と秋とに挟まれた窮屈さの中にいた。
 ぽっかりと穴を明けた空の中に、ある一点の疑問を見いだす。
 彼女はなぜコンタクトレンズを外し、裸眼のまま部屋を出たか。あんなに急いで、一体何処へ行くのか。夕陽色のシャツに、ショートパンツ、スニーカー。全国から人気を呼ぶ一モデルが、しかも本名に始まる私生活を徹底的に隠し続けてきた彼女が、あんな“素”丸出しな格好で何をするのか。何が彼女に外出を強いるのか。
 どうして気付かなかったのだろう。少し考えてみれば、不自然なことが多かった。コンビニにちょっと買物、でも、仕事仲間と遊びに、でもないのだ。
 彼女は、たった一人で飛び立ってしまった。
 どうして一人で行っちゃうの?
 槙は元々運動が苦手だ。慣れない運動をするとすぐに筋肉痛になるし、走れば五十メートルも走らない内に息が切れる。そんな体を大きく動かし、重い足でがむしゃらに地面を蹴った。

 『お母さんっ!』
 勢いよく扉を開ける。昭和を思わせる古い扉は、ガタガタと悲鳴をあげながら口を開けた。
 突然の出来事に驚き食事の手を止める店の客。好奇の目が槙の全身に飛び込んできた。
 母親、美樹だけが事情を悟る。
 『今はお客様がいるんだから、後にしてくれる?部屋に上がってなさい』
 『私も行く。満流が“そっち”に付くって言うんなら、』
 『槙!』
 『だって』
 気持ちの焦る槙を美樹が正そうとするも、彼女の脳は混乱の中へ中へと陥っていった。美樹が声を落ち着かせる。
 『後にして頂戴』
 『最低!そんなだからお父さんに逃げられるんでしょう』
 『…———』
 世の中には、言っていいことと悪い事がある。それを差し引いても、彼女には母親に向けた非難を止められなかった。父を失い、同じ理由で友を失い、自分から悉く幸せを奪っていくカルトを、カルトに所属する母親を許せなかった。
 ひそひそ話が始まる———言っちゃったよ。何々、何事?あー、それは言ったらダメだろう。美樹さんが可哀想だ。まあ、槙ちゃんも思春期だからねぇ———。
 本人に聞かせたいのかそうでないのか、中途半端に抑えられた程度の音量。炒飯に火を通す焼き音で音声こそ十分には槙の耳へ届かないものの、“中学生にもなってそんなことも分からないの”と言う、声無き声が聞こえた。
 『私、絶対、認めないから。満流だけを、犠牲になんか、させないから』
 母親の振る炒飯の焼ける匂いと煙がやけに目にしみ、中指で目を擦った。


 本来なら、満流はまだ組織に仲間入りをする必要はない。
 カルトの役割継承は基本的に親子間の世代交代に倣う。成員の利用価値が無くなったり、機能できなくなったりしたところでその子へ受け継がれる。身分の高低で英才教育や養成期が設けられるなど特別に早くからその存在を知る者もいるが、三十歳前後の両親と代替りするのは変だ。
 考えられる原因は一つ。
 空いた“ジョーカー”の穴を埋めること。

 その日の終わり、日付が変わる数分前、美樹と明は飛行機の中だった。
 『あの家系は少し特別だから』
 私も詳しくは知らないんだけど。そう言いながら周囲を確認すると、美樹の横に座り、真っ直ぐ前を見る。下級の者には上部の内事情があまり伝わらない。彼女の不便さを考慮した明は、自分より遥かに下の身分にある美樹に出来る範囲で美樹に知恵を貸すことにした。
 『あの子が双子なのは知ってるよね?あの家は両親共に組織上層部に所属していて、二人が産まれた当初は双子の片割れを父親の、もう片割れを母親の跡継ぎにすれば丁度いいってことで全員納得してた。
 だけど、それに向けて英才教育を続ける内、二人の成長に停滞が見え始めた。焦った最上層部が出した決断が、二人を引き離して片方の養成に力を集中させること。両親が優秀だっただけに、その子供に向けられた期待も相当だったんだと思う』
 『それじゃ満流を、捨て駒にしたの?』
 『それは———少し違う。どっちにしろあの子も母親の跡継ぎになる予定だったし。ただあの子がそっちに行った後、思わぬ即戦力が現れた。家族に捨てられて死にかけてたところを、あの子の両親に拾われたんだって。まだ幼くて身体の弱い子ではあるけど、感情の起伏も少ないし何かに執着することもなくて使い易い、何より拾ってきたのが直系の、しかも“上”の人間だったもんだから、異論を申し立てる奴は居なかった。その子は父親の跡継ぎ候補に名を上げたよ。で、更にその上を行く能力を持ったと判断された双子の片方は“切り札”にしようっていう考えが出てきた』
 切り、札。確かめるように呟き、美樹は息を飲む。従妹の話に登場するカルトの手駒たちは、成員の一人である美樹ですら知らない世界を繰り広げていた。
 満流本人がどこまで知っているのかも分からない。得も言われぬ疎外感が、胸中に生まれる。
 ねぇ、と明が投げ掛ける。
 『切り札に選ばれたのはどっちだと思う』
 満流でしょ。
 美樹は簡単に答える。彼女は運動神経もよく、頭も切れるし演技力もある。元々何処か投げ遣りで、執着心も少なければ感情的になることも少ない点で言えば、明の言う“その子”と被る部分もある。双子の片割れがいかほどのものかは知らないが、彼女を越える人物がいるとも思いがたい。事実、満流はその為に今日、槙の元を去ろうとしたのだ。
 そう決め付けた美樹は、次の一言に驚く。
 『双子の片割れ、あの子の兄ちゃんの方』
 『え———?』
 度肝を抜かれたような表情を尻目に、明は正面を向いたまま続けた。
 『あの子の監視は美樹に任されてたはずだけど、真面目に報告してなかったでしょう。あんたにも色んな想いがあったんだろうけどね。
 あと、それに加えてこの間の陸上の大会。勝負に勝ったとは言っても、自分の体調管理が出来てないなんて論外。あの子はジョーカー候補から外された』
 『じゃあ満流は何をしにフランスへ行ったの』
 『分からない。美樹や槙も考えてる様に、彼女が日本から出る理由なんて一つしか考えられない。けど、その決定はつい一週間前の話だし、候補から外されたことは成員の中でも極一部にしか知らされてないのに、何で彼女がそれを知るにいたったか』
 『そうじゃないでしょう!?私が聞きたいのは、どうして満流は候補から外れたのに、わざわざ自ら地獄に飛び入るようなことをしなきゃいけないのかよ。まさか、五年も六年も前に縁の切れた兄弟のために、身を投げたの?』
 あの満流が?考えれば考える程分からなくなる。腹の底がぐるぐると蠢いた。どうか嵐が来る前に、嫌な雲が去っていきますようにと願いながら痛い部分を擦る。


 雷雲が空を覆い隠していた。
 古い館のようなだだっ広い家。幼い頃の記憶を頼りに本能一つで歩き回る足に、躊躇は欠片もなかった。
 遠い昔、まだ高橋の姓を名乗っていた頃、祖父の家を訪れても決して開くことを許されなかった扉が幾つかある。目的の場所に辿り着くまでは、絶対に歩を止めないと誓った。喩え何人の成員が目の前に立ちはだかろうと、喩え、自分の手を汚すことになろうとも。
 誓いの通り満流は、最後の最後まで止まることなく進み続けた。無言を守り、ただひたすらに。
 そして遂にその扉を開く。
 二、四、六、八————
 左右両側から順に向けられた銃。それには見向きもせず真直ぐ正面に向け右腕を上げる。
 『どうする?撃つ?』
 誰にとはなく、問いかけた。
 『あたしは赦さないよ。一流に、こんなもの握らせるなんて』
 『(銃を下ろしなさい).』
 『(キングの娘とはいえ、これ以上続けるようなら容赦はしないぞ).』
 満流の言葉に耳を傾ける様子のない外国人。人の話を聞く気が無いのかと浅いため息を吐くと、計った様に背後の扉が開いた。
 軋むような高い開閉音。微かに空気が揺れ、薔薇を象った造花のリースからキツい匂いが香る。
 開くと同時に踵を返し、銃ではなく素手で対応する。
 僅かに遅れ、鳩尾に強打を食らった。
 『随分なゴアイサツやな』
 『ど、うもね——…っ』
 『うっわ、こいつ血腥い。』
 『————。』
 筋肉質な腕の中に崩れ落ちると、周りの銃が次々下ろされていく気配。満流の顔を覗き込む女の顔が、飴をくわえたまま憎たらしく笑った。
 『何か言うことは?』
 悪戯をした幼子を正す様な口調。反抗的に、素っ気なく答える。
 『久しぶり』
 『他には』
 『一流と榛名と、あたしの———誰の能力が高いって?』
 頭を下げると視界に入る、血色に染まったシャツ。夕陽の面影は跡形もなくなった。袖の方から、鉄みたいな嫌な臭いがする。雨の日の寂しい鉄棒を思わせた。
 女は自分の羽織っていた上着を満流にかぶせると、生意気なと言って苦笑した。
 『(どうするじーさん)?』
 満流を支えた男が言うと、部屋の一番奥で偉そうに座る老人は豪快に笑った。
 『(大いに結構。面白い。満流、来なさい).』
 女に引っ張り上げられる様にして立ち上がり、よろよろと歩いてそちらへ向かう。
 『(さすが我が愛しの孫だ。歓迎しよう).』
 お帰り、ジョーカー。
 差し出された手は細く皺だらけで、筋力の衰えか小刻みに震えている。こんなに弱った老体に人生を左右されているのかと思うと情けない。指先に口付けをすると、頭を上げず片膝を付いた。
 『Im home...dear』

 美樹が其処に着いたとき、満流はいつも通りの笑顔だった。
 槙には黙ってて。
 切実な、声。彼女が通り過ぎた後、彼女らがいた部屋で、どっと疲れた様子の葉流が夫の肩にもたれて眠っていた。