母子避難と虐待を考える② ~原発事故がなければわが子に手をかけなかったか  | 民の声新聞

母子避難と虐待を考える② ~原発事故がなければわが子に手をかけなかったか 

7/27号「避難先で逮捕された母親は、原発事故がなければわが子に手をかけなかったか~母子避難と虐待を考える」について、実際に首都圏に母子避難をしている女性からメールが寄せられた。一方、逮捕された母親を良く知るという方からは、母親の素行自体を疑問視するコメントも。依然として福岡県警久留米署に拘留されている母親。来週にも起訴されるか否かの判断が下る

【避難母子が孤立せず悲しみを共有できるように】

 九州での虐待ですが、事件についてよく分からない。
 以前から虐待があったのか、いつからあったのか、兄弟や家族構成、福島での暮らしと何がどう変わったのか…。一概には何とも言えないと思います。
 一方で、孤立した母親の不安、心細さ、疲労、ストレス…。そういったいろいろなものが積み重なり構築されるやり場のない感情。その矛先が子どもに向いてしまう恐れは私も日々感じています。
 些細なことで強く叱りつけ、「叱る」ではなく怒ってしまったり、あと一歩道を踏み外したら、ブレーキがきかなくなったら、私だって娘に手をあげる可能性は日常の中にゴロゴロ転がっているように思います。他人事では無いんですよね。

 ただ、原発事故がなければ虐待に至らなかったのか、私には疑問です。
 やり場のない感情を、最も身近で、自分より弱い存在の子どもに対してぶつけてしまう、ぶつけ方の度が過ぎてしまう。それは子どもを一人の人間とみていないからではないでしょうか。夫婦やパートナー間でのDVも、相手を敬わない、一個人として扱わない、自分の所有物としてみなす。そういったことが原因のひとつにあるように思えます。

 子どもへの虐待も親のそういった意識が問題ではないでしょうか。
 イライラした時、ストレス発散にお皿を割れるお店があるそうですが、お皿ではなく子どもにイライラをぶつけるのは、極端な話、お皿と子どもを同一レベルでとらえている…ということですよね。
それは母子避難しなくても、他の理由でも、周囲から見たら何が原因か分からないことでも起こり得たのではないでしょうか。可能性の話になるとキリがないですが…。
 私自身も、娘を一個人として敬い、親として叱り躾ける。それができているか、と言えば大いに不安です。
 道を踏み外さないでいられる、ブレーキがかかるのは、自分の精神的な脆さ、弱さ、娘の肉体的な脆さ、弱さを心に留めているからかな、と思います。
 良い警鐘になりました。
 心が疲れ果てて、ブレーキがかからなくなっては危ない、と。やっぱり、他人事じゃないですね。同じような事件を起こさないためにも、多くの避難している母子が孤立することなく、不安や悩みを打ち明けられ悲しみや憤りを共有できれば良いな、と改めて思いました。
 そのために必要なことは何なのか、他の避難ママと話していきたいと思います。

民の声新聞-母子避難
母子避難をしている母子も参加した文科省への

抗議行動。今回の事件では「困ったことが無いか

声を掛けていたのに」と憤る人もいる


【困ったことが無いか声かけしていたのに…】

 確かに原発事故がなければ、避難しなくて良かったし、そのためのストレスも受けなかったかも知れない。でも、そのストレスの1つに小さくなって暮らしている、というのはどうだろうか。

 今回の虐待の女性の近所に住んでいるが、皆、大変な経験をした方だからと家財道具の寄付や、困ったことが無いか声かけもしていた。だけど、この女性は通行中の子供にクラクションを鳴らし睨み付ける、当て逃げをする、深夜に大音量で音楽を鳴らすなどをしていた。

 世話好きな年配の方にも怒鳴るなどして怖がられていた。それでも、差別していたなど、近所の人間が悪く言われなければいけないのだろうか?


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 福岡県警久留米署幹部によると、7月23日に傷害容疑で逮捕された母親は26日に福岡地検に身柄を送検され拘留が決定。「8月14日が拘留満期だから、そこまで取り調べることになるだろう」。子どもたちは、児童相談所に保護されているという。

 母子避難中の事件だったが、夫を福島に残しての避難か否かについては「被疑者のプライバシーに関わることなので答えられない」。また、福島に住んでいた頃から日常的に子への虐待が繰り返されていたのかについても「公判を控えていることなので話せない」とするにとどまった。


(了)