【15カ月目の福島は今】復興に貢献したい~県外避難しない短大生の「選択」 | 民の声新聞

【15カ月目の福島は今】復興に貢献したい~県外避難しない短大生の「選択」

18歳の女の子は福島に残った。県外避難という選択肢もあった。父親の仕事や祖母の介護という家庭の事情もあった。友人らが避難していくなかで孤独感にも襲われた。被曝を強いられる生活を彼女はなぜ、選んだのか。日々の暮らしに精一杯だった震災直後、現在進行形の被曝がもたらす不安、ふるさと復興へ貢献したいという願い…。福島にとどまって生きていく「選択」をした短大生に話を聞いた。


【仮設住宅でお年寄りと「がんばっぺ体操」】

「県外に逃げた方が、身体に良いことは分かっています。でも、私にはここでやるべきことがある。今でも日々、葛藤しています」

加藤朋栄さん(19)は福島市に生まれ育ち、桜の聖母短大英語学科に通う二年生。「がんばっぺ同好会」に所属し、福島市内の仮設住宅を回っている。先輩の作った「がんばっぺ体操」を披露したり、足湯を提供しながらお年寄りにマッサージを施したりして、交流と支援を続けている。

「宮代など県北地区の仮設住宅はすべて行きました。何気ない世間話をすることで、心が少しでもすっきりしてくれればうれしいです。農家だったお年寄りが、いかに農業を一生懸命やっていたか、誇らしげに自慢話をする時の表情がなんとも生き生きとしていて良いです」

仮設住宅の入居者には、冷蔵庫や洗濯機など「家電6点セット」が日赤経由で支給され、モノが比較的揃っている。各地からの支援物資も届いた。しかし生き甲斐が不足している、と加藤さんは感じた。

「部屋にこもりがちになっているお年寄りが多いです。生き甲斐が全く無くなってしまっている。モノではないんですよね」。せまい空間でもできる「がんばっぺ体操」は、身体を動かす機会の減ったお年寄りには好評という。
民の声新聞-桜の聖母短大
加藤さんの通う桜の聖母短大は福島市役所の

近く。原発事故から1年以上が経過した今でも、

決して放射線量は低くない

=福島市花園町


【高線量を知り始めて将来が不安に】

未曽有の巨大地震に遭ったのは、マイカーの運転中だった。急いで帰った自宅は倒壊こそ免れたものの、室内はあらゆる家具が倒れ、靴をはいたままでないと歩けない状態だった。

4月に予定されていた入学式は5月に延期された。自宅近くの高校の体育館は避難所になった。雪が降る中、電気も水道も止まった。数えきれないほど給水車の列に並んだ。気付けば、お年寄りのために重たいポリタンクを運んでいた。福島原発が爆発したことで自宅周辺の放射線量が急上昇していることを知ったのは、ずっと後になってからだった。

「確かに、テレビやラジオで放射線量の情報は流れていました。でも、今まで聞いたことも無い単位で、身体にどう影響するのか、どうすれば良いのかさっぱり分からない。第一、テレビでは『大丈夫、大丈夫』と盛んに言われていたんですから。それに、その日その日を生きるのに精一杯で、それどころではなかったですね」

「雨に濡れたら髪の毛が抜ける」。携帯電話には、真偽の判断がつかないチェーンメールが山のように届いた。自宅周辺から自家用車が次々と姿を消した。友人は県外へ避難していった。同じ短大へ入学が決まっていながら、それをやめてまで避難した友人もいた。それでも、どうすることもできなかった。職場で責任ある立場の父親は、福島を離れられない、家族バラバラでの避難はしたくない。祖母の介護はどうする…。様々な想いが交錯した。家族で何度も話し合った。両親は避難を勧めた。しかし、福島にとどまることを決めた。

「心のどこかで『そうは言っても大丈夫』という考えがあったのかもしれません。そりゃ、当時の高線量を知った時にはびっくりしました。初めて将来が不安になりました。やはり結婚もしたいし子どもも産みたい」

自分がこれまでどの程度被曝したか分からない。8月にようやく、ホールボディカウンターによる検査を受けることになった。原発事故から17カ月が経過して、やっと自分の数値と向き合うことができる。不安も多いが、やはり正確な情報が欲しいという。「これまで騙されてきたんじゃないかという思いはやはり、ありますから」
民の声新聞-福島競馬場
短大の周辺には競馬場もある。JRAは大規模な

除染を行い「安全」を強調して競馬を再開した。

しかし、放射線量は下がっていない

=福島市松浪町


【悩んだ末に選んだ「福島に残る」】

ふるさとの復興と自身の被曝。そのはざまで揺れながら、就職活動が始まった。

以前は通訳など英語を生かした職業に就きたいと考えていたが、震災を境に考えが大きく変わったという。

「県外での就職も考えないわけではありません。でも、自分にも何かこの街に貢献できるのではないかと「思うようになっています。福島にいることでしか勉強できないこともありますし。もちろん、葛藤は続きますけどね」

悩んだ末の、福島に残るという選択。

卒業するまでは、「がんばっぺ同好会」の一員として仮設住宅への訪問を続ける。

最近では、子どもたちを北海道や新潟・佐渡へ連れて行く保養プログラムにも参加するようになった。

県外の人から「元気?」「身体は大丈夫?」という言葉をかけられることには、辟易することもある。

福島での生活を続けることで身体への影響を楽観視できないことは、自分自身が一番良く分かっているから。

来月、二十歳になる。
民の声新聞-仮設住宅
「仮設住宅に暮らすお年寄りは生き甲斐を

失ってしまった」と加藤さんは話す

=福島市松川町

(了)