すぐに自宅に帰れると思っていた~会津若松市で暮らす大熊町民たち
雪降る会津若松市では、福島原発からほど近い大熊町から3千人以上が避難生活を送っている。数日もすれば我が家に帰れると着の身着のまま子の手を引いて逃げた町民はしかし、帰宅を許されることはなかった。若松市内に設けられた交流スペースには、「早く帰りたい」「甘えさせてほしい」など、町民の率直な想いがあふれている。3.11から1年が過ぎたが、避難者たちが心身ともに被曝をして、先の見えない生活の中で苦しんでいる様子がうかがえる。
【大きな我が家は宝物でした】
▽「家にすぐ帰れると思って避難しました。しかし家に帰れず、気持ちは3月11日のままかもしれません」
▽「原発事故から早9カ月、いろんな事がたくさんありました。家にすぐ帰れると思って、何も持たずに親子3人で家を出たのが我が家との最後でした。悲しいです。お金は無く苦しかったけれど、大きな我我が家は宝物でした」
大熊町民の想いが綴られた「絆ノート」
会津若松市役所近くにあるスーパーマーケットの一角。NPO法人が運営する交流スペース「ふるさと絆ステーション」は、市外から避難してきた人向けの情報提供の場だ。
同市には福島第一原発から20km圏内に位置する大熊町から3371人(2/29現在)が避難している。この数字は、福島県内に非難している町民の42%、県外へ向かった人も含めても約3割に達するだけに、どれだけ多いかが分かる。行政機能も移転してきているため、同町民に対する情報発信は特に手厚い。
そこに「絆ノート」と呼ばれる1冊のノートが置かれている。冒頭の言葉は、大熊町から避難してきた2人の女性が昨年12月11日に書き込んだものだ。2人目の女性は、夫が大工。その夫が仕事を休んで丹精込めて建てた自宅はしかし、原発事故による放射性物質拡散の影響をモロに受け、主を失ったままとなってしまっている。完成した後に生まれた次女は、父親が建ててくれた自宅での思い出も作れないまま、会津若松市に避難することとなってしまったのだ。
仮設住宅に暮らす60代の男性は嘆く。「何も持ち出すことなく自宅を離れ、地震の翌日にはバスで田村市へ向かった。その後、会津若松市に移った。大熊町では3世代で暮らしていたが、家族はバラバラになってしまった。多くの方に支えてもらっているが、見通しをはっきりと示してほしい。先が見えない」
「ふるさと絆ステーション」のメッセージボードには、女性と思われる文字で次のように書かれている。
「大熊はやさしい町、きれいな町でした…。
でも、会津もとてもやさしい。
甘えさせてください。せめて…」
避難者への応援のメッセージに混じって、
大熊町民がふるさとへの想いを込めたカードも
張られている
(了)

